光のもとで1

葉野りるは

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第一章 友達

28話

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 栞さんをお見送りしてから自室に戻ると、ハープに手を伸ばした。
 一週間もの間放っていたので、だいぶ音程が狂っている。
 ほぼ、一音に近いくらい音が全体的に上がっていた。
 アルペジオを弾くと、奇奇怪怪な音に鳥肌が立つ。
「……これはひどい」
 チューニングレンチを片手に、心して調弦することにした。
 一音一音聞いてぴったりと合わせていく。この作業がとても好き。
 調弦を終えたハープでアルペジオを弾くと、とてもきれいな音色が響いた。
 ハープは自分側にサウンドホールがあるため、音の響きがダイレクトに身体に伝わってくる。音が振動として伝わる感覚が、好き。
 指鳴らしにスケールの練習とリズムや速さを変えながらの練習を何度も繰り返す。
 指が滑らかに動くようになると、気軽に弾ける曲を弾くことにした。
 オ・カロランなど、アイルランドの民謡が好き。ちょっと悲しげな旋律はアイリッシュハープの音色とマッチする。
 もしもタイムワープができるなら、吟遊詩人と呼ばれたその人に会いに行きたい。
 一通り弾き終えるとオリジナル曲を弾く。
 ハープもピアノも、自分の弾きたいように弾くのが一番好き。
 音楽はいい。
 気持ちが昂ぶったときはそれを少し落ち着けてくれるし、負のスパイラルに陥ったときは感情の刷毛口になってくれる。
 そうやって今まで自分の感情を外へと逃がしてきた。
 入院したときはピアノもハープも手元にはなくて、すごく悶々とした日々を送っていた。
 あのとき、蒼兄がいなかったらどうなっていたか知れない。
 きっと自分は壊れてしまっていたと思う。
 しばらくすると、見るに見かねたお父さんが、小型のアイリッシュハープを買ってきてくれた。
 体調のいい日、中庭の散歩を許されるとハープを持ち出し、中庭で弾いたものだ。
 まだ半年も経っていない去年の話。でも、もうずっと昔のような気もするし、昨日のことだったようにも思える。

 ぼーっとしながら弾いていると、背後から名前を呼ばれた。
 振り返ると、窓の外でたくさんの資料を抱えた蒼兄が立っていた。
 車を車庫に入れてそのまま私の部屋へと歩いてきたのだろう。
 車の荷物を出し入れする際、玄関からよりも、私の部屋かリビングからの方が距離が短くて済むのだ。
 窓を開け蒼兄が資料を床に置いた途端に、それらは雪崩を起こす。
「わぁ、すごい分量……。早かったね?」
「そんなこともないと思うけど?」
「え? 今、何時?」
「もうすぐ五時じゃない?」
 栞さんが家を出たのが一時半だから三時間半くらい弾いていたことになる。
「久しぶりにあれ、聴きたいな」
「ん?」
「桜の曲」
「あ、うん」
 チューニングレンチで軽く音程を直すと、ハ長調にセットした。
 ハープを抱え、数回の深呼吸をして演奏を始める。桜の季節に作った曲を。
 春に咲く花で、一番好きな桜をモチーフにした曲。
 家の裏手にある運動公園に咲く、大きなソメイヨシノの下で作った曲だった。
 桜がはらはらと舞うところをイメージして作ったら、少ししんみりとした曲になってしまった。
 初めて蒼兄の前で弾いたとき、「出逢いと別れの季節にしっくりくる旋律だな」と言われ、そこから曲名をつけたことを覚えている。
 以来、蒼兄は時々この曲をリクエストする。
 曲を聴きながら目を瞑る蒼兄は、何を考えているのだろう。何を感じているのだろう。
 何を考えていても何を感じていてもいい。
 ただ、蒼兄の気持ちに音が寄り添えるのならそれで――
 そう思いながら最後の音をはじく。と、
「翠葉の作った曲の中でこれが一番好き」
 言いながら、蒼兄は拍手をしてくれた。
 そこへ栞さんが帰ってきて、
「今から作るから一時間くらいしたらご飯よ」
「「はい」」
「さて、それまでにどれくらい資料整理できるかな……」
「私も課題やらなくちゃ。少し息抜きしすぎちゃった」
 私たちは膨大な資料と課題を前に、黙々と闘う決意をするのだった。



 月曜日の朝は雨が降っていた。
 口に基礎体温計を咥えつつ、ベッドの中から窓の外を眺める。
 冬は閉めるけど、春夏秋はカーテンをほとんど閉めない。
 幸い、部屋の前はお庭で、その向こうは崖になっているため、人目を気にする必要がないのだ。
 ピピッ、と測定終了の音が鳴ると朝の支度を始める。
 部屋を出ると、栞さんが血圧測定の準備をしていた。
 挨拶を済ませ、いつものように籐の椅子に座り右手を出す。
「今日は雨ね……。三日間くらい続くみたいだから気をつけるのよ?」
「……はい」
 雨の日は苦手……というよりは低気圧が苦手。
 なんというか、とにかく身体がだるいし血圧も低めだ。それに加えて胸背部痛が出てくる確率がとても高い。
「お薬、持っていくのを忘れないようにね」
 言うと、栞さんは朝食の用意をしにキッチンへと戻っていった。
 ハーブティーを飲みながら窓の外をぼーっと見ていると、蒼兄が二階から下りてきた。
 私が起きる時間には、たいていこの窓際のテーブルセットでコーヒーを飲んでいる。今日はちょっと遅いしとても眠そう。
 早朝ランニングとはそんなにも効果のあるものなのだろうか。
「蒼兄、おはよう。眠そうだね?」
「おはよう。夜中に雨降りだしたからさ、そのまま資料整理続行しちゃったんだ。おかげで寝不足……。シャワーでも浴びて目ぇ覚ましてくる」
 と、リビングを横切り廊下へと姿を消した。
「濃い目のコーヒー、必要かな?」
 蒼兄のコーヒーを淹れようかと思っていると、キッチンから出てきた栞さんに声をかけられる。
 どうやら朝食ができたみたい。
 蒼兄はハムエッグとトーストとコーヒー。私はお雑炊を毎朝食べている。
 ふたりしかないのに、それぞれ別のものを食べることを申し訳ないと思いつつ、栞さんの好意に甘えてしまう。
「蒼くん、今日は濃いコーヒーのほうが良さそうね?」
 どうやら、栞さんの目にも相当眠そうに見えたみたい。
 シャワーを浴びて出てきた蒼兄は、幾分かすっきりとした顔をしていた。
「シャワーを浴びるだけで目が覚めるものなの?」
「あぁ……結構熱いのを拷問のように浴びてくるからかな」
「……何度くらい?」
「四十五度とか?」
 あり得ない……。
 私は今の季節ですら手足が冷たくて、四十度のお湯ですら痛いと感じるのに……。
 四十五度とはどんな感じだろう。
 でき得る限りの想像を試みていると、
「翠葉には無理だ」
 と、笑われた。
「はい、蒼くん。栞さん特製ブラックよ」
 やたらめったら濃そうなコーヒーが差し出される。
「ありがとうございます」 
 カップに口をつけると苦そうな顔をした。
「うん、これは目が覚める……」
 言いながら、いつもは入れないスティックシュガーに手を伸ばしていることろを見ると、それほどに濃いコーヒーだったのだろう。

 いつもと変わらない朝。
 車に乗り込み学校へと向かう。
 雨ということもあって、交通量が割と多い。
「金曜日にね、秋斗さんに訊かれて身体のことを話したの」
「あぁ……昨日秋斗先輩から聞いた」
「藤宮先輩はたまたま知っちゃった感じなんだけど……」
「うん、それも聞いたよ」
 笑っているところを見ると、会話の詳細まで聞いたに違いない。
「昨日、藤宮先輩とたくさんお話ししたの。そしたらね、怖いなって思っていたのが少しだけ和らいだ。でも、意地悪だなとは思うけど……」
「はは、そっか。……司と翠葉は同い年なんだよな。だからかな? 知り合って一年だけど、意外と話しやすくて年下と話してるって感じがあまりしないんだ」
 どこか要領を得ない感じで話すけれど、それって――
「年や見かけじゃなくて、藤宮先輩がかなり落ち着いているからじゃない?」
「あぁ、それもあるのかもな。翠葉のクラスメイトだと簾条さんみたいな感じ」
 その意見には深く頷いて同意した。
「今日は裏道使うかな……」
 蒼兄はひとり言を口にすると、いつもと違う場所で曲がった。
 どうやら国道沿いに走る道があるようだ。
「それにしても、大きな進歩だよな? 翠葉にとっては。今までならひた隠しにしてきただろうに」
「うん、まだ数日しか通ってないのにね。なんだか色々変わった気がする」
「いいことなんじゃない? 俺もちょっとは安心できる」
「安心……?」
「そう、安心。ほら、同じ敷地内とはいえ、大学から高校に行くのには走っても五分以上はかかるからな。一番端の棟にいたらそれ以上だ。同じ敷地内ってだけで一緒にいるわけではないし、栞さんみたいな人がついてるわけでもない。……何かあったとき、翠葉がひとりだったら……とか、何もわからない人間ばかりで処置が遅れたら……とか。そう考えるだけでも結構怖かったんだけど、今は少なくとも三人。秋斗先輩と司、校医の湊さんがいる。それだけでも安心度は違うものだよ」
 そう言ってこちらを見る蒼兄の顔はとても切なそうに見えた。
 蒼兄はどれだけ私の心配をしてくれているのだろう。私の想像をはるかに超えている気がする……。
「それにクラスの三人にも話すんだろ? そしたら俺の子分ができたようで、さらに心強い」
 蒼兄はそれまでの空気をなかったことにするかのように笑った。
「あのね、そのメンバーにひとり追加かも……」
「俺の知ってる人? ……なわけないか。海斗くんと簾条さん、立花さんしか会ったことないし」
「うん、蒼兄は知らないと思うけど、佐野くんは蒼兄を知ってたよ?」
「佐野? ……佐野、明?」
「あれ? 蒼兄も知っているの? 直接的な知り合いじゃないみたいだったけど……」
「知るも何も、佐野明って言ったら今一番騒がれてるスプリンターだよ」
「……そうなの? その佐野くんはね、蒼兄の走っているところを見て陸上を始めたんだって」
「……それは光栄なことで」
 蒼兄は少し恥ずかしそうに笑った。
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