光のもとで2

葉野りるは

文字の大きさ
上 下
104 / 271
October

紫苑祭準備編 Side 司 06話

しおりを挟む
 試験前の午前授業に入ると、昼過ぎから夕方までうちで勉強するのは恒例だったはず。しかし、翠は別れ際に口を挟んだ。
 反射的に「でも――」の一言。
 たぶん、夏休みに海へ出かけた際、俺が言った言葉を思い出したのだろう。
 翠の揺れる瞳を見ながら、
「……何を言いたいのかはなんとなくわかる。でも、とりあえずうちで……」
「うん、わかった。じゃ、ご飯食べたら行くね」
 そう言って、エレベーターホールで翠と別れた。
 エレベーターの扉が閉まってため息ひとつ。
 どうせ気を遣うのなら、もっと違う方面へと向けて欲しい。つまり、防衛的なものではなく、進展方向へと……。
 翠はどうしたらあと一歩を踏み出してくれるのか。
 玄関のドアレバーを掴んだ右手を見ては、先日触れた翠の胸の感触を思い出す。
 柔らかくてあたたかくて、心地よい重量感はずっと触れていたくなる感触だった。直に触れたらどんな感触なのか――
 あのとき翠は、「ものすごく時々」と言いかけて、「ごく稀になら」と言い直した。
 ごく稀に、とはどのくらいの期間を指すのだろう。
 言葉の意味などわかっているのに、思わず辞書を引いてしまった。
「数や頻度が極めて少ない様を表す表現。とても珍しい様」――
 俺の求める「期間」たる指標は載っていなかった。
 ひと月、ふた月では「時々」というニュアンスのような気がするし、三ヶ月なら「稀に」という言葉が当てはまる気がする。だとしたら、四半期に一度……?
 これでは当分先へは進めそうにない。
 そうは思っても、少しずつ慣れてほしいし、少しずつでいいから前へ進ませてほしいと願ってしまう。
 悶々としたものを払拭したく、昼食を摂る前にシャワーを浴びることにした。

 昼食を食べ終えるとコーヒーを淹れ、医学書に目を通していた。しかし、いつまで経っても翠が来る気配はない。
 時計を見れば一時半を回っている。いつもなら一時半前には来るのに。
 それからしばらく経っても翠はやってこなかった。
 何かあったのかと思い携帯に連絡を入れれば、どうしたことか、自宅玄関の外からオルゴールの呼び出し音が聞こえてくる。しかし、電話に応じる気配もなければインターホンも鳴らない。
 不思議に思って玄関ドアを開けると、携帯を手に持ち座り込んだ翠がいた。
「……何してるの」
「貧血……」
「なんで……」
 さっぱり意味がわからない。
 翠が九階から十階へ移動する際は、階段を使用することが多い。
 軽い運動負荷なら血行が良くなりこそすれ、血圧低下にはいたらないだろう。
 疑問は少し置くことにして、
「立てる?」
「もう少しだけ待って? あと少ししたら立てると思うから」
「わかった。じゃ、かばんだけ預かる」
 翠が立てるようになってからリビングへ誘導すると、気付け薬代わりに冷たいミネラルウォーターを渡した。
「ありがとう」
 翠は数口飲んで息をつく。
 頭の中をさまよう疑問を捕まえ、
「なんであんなところで貧血起こしてたの?」
 翠は急に俯き、何も言葉を発しない。
「なんで無言? 何か言えないわけでも?」
 渋々口を開いても、
「言えないわけじゃないのだけど……」
「じゃ、何?」
 翠はひとつため息をついてから、
「インターホンが押せなくて、押せないうちに十分以上経ってて……」
 貧血にいたる理由は理解できたが、ある意味謎は深まった。
「何やってるんだか」
 何気なく、手近にあった翠の頭に手を置いた。ただそれだけなのに、翠は動揺をあらわにする。
 そんな翠を観察しながら、
「玄関のインターホンが押せなかった理由は?」
「……緊張しちゃって」
「何に?」
「……何に、かな」
 なんとなくだけど……。
「さっき別れ際にした会話が原因?」
 翠は視線を合わせることなく、
「……そうかな? そうかもしれない」
 と、自分の膝に視線を落とした。
 そんな翠の正面に膝をつき、
「確かに翠とふたりきりの空間で自分を律するのは難しい。でも、家に人がいるときや学校ではされたくないんだろ? それなら、テスト勉強やその他でうちにいるときくらいは好きにさせてほしいんだけど」
「何を」という目的語を明確にしなかったのは、「キス」だけだと取られたくないから。
 好きにさせてもらえるのは「キス」だけだ。でも、「それ以上のこと」だって許可してほしい――そんな意味をこめたつもりだけれど、きっと翠には伝わらない。伝わったところで「キス」がせいぜい。それでも翠は恥ずかしそうに顔を赤らめる。
 そろそろ、キスくらいには慣れてほしいものだけど……。じゃないと、いくら経っても先には進めない。
 そんなことを考える俺の正面でうろたえる翠があまりにもいたたまれず、
「その代わり、ゲストルームに行ったときはしないから」
 その言葉を最後に俺はテキストを手に取った。

 勉強が始まれば翠の目にはテキストしか入らなくなる。
 俺が正面に座ってじっと見ていても気づかない。
 そんな状況にはいい加減慣れもしたけど、もう少し意識してくれてもいい気がする。
 ただ、意識されすぎて避けられたり、過剰反応されて何もできなくなるのはごめんだからちょっかいは出さないけど……。
 翠に触れたいという自分の欲求を感じれば感じるほどに思うことがある。
 翠は俺に触れたいと思うことがあるのだろうか、と。
 車の教習合宿から帰ってきたときに抱きしめてほしいと、キスをしてほしいとは言われた。でもあれは、俺のことが好きだから、ということを行動で表しただけで、「触れたいから」ではない気がする。では、「くっついていたい」はどうだろう。あれはたぶん、二週間離れていた時間があったからで――
 もしかしたら、俺ほどには「触れたい」という気持ちはないのかもしれない。でも、その割には手はつなぎたがる。
 ……しょせん、その程度で満足できる感情なのか。
 もう少し自分を求めてほしい気持ちがあるものの、それを伝える術など知りはしない。
 こんなとき、秋兄ならどうするのか――
 少し考えて、秋兄を引き合いに出したことが間違いだと気づく。
 秋兄なら、俺のように考えたりはしない。ストレートに「触れてほしい」と翠に伝えるだろう。
 俺とはどうしたってやり方が異なる。比べる対象には不向きだ。
 わかっているのに無意識に引き合いに出す自分をどうにかしたい。
 思わずため息をつくと、
「……ツカサ?」
 翠が顔を上げ、まじまじと俺の顔を見ていた。
「どうかしたの?」
 なんでこのタイミングで顔を上げるかな……。
「いや、ちょっと集中切らしただけ」
 もともと集中などしていなかったし、問題を見てすらいなかった。しかし、翠はそんなことには気づきもせず、「お茶淹れる? それともコーヒー?」などと訊いてくる。
「……じゃ、お茶淹れて」
「うん」
 嬉しそうに返事をした翠は、ゆっくりと立ち上がりキッチンへ向かった。
 いつもならその背を追いかけてキッチンへ行くところ、今日はリビングからキッチン内を観察するに留める。と、背伸びをして吊り棚に手を伸ばした翠が背後を振り返った。そこにいるはずの俺がいないことに気づくと、キッチンカウンターからこちらをうかがう。
 目が合うと小首を傾げ、
「お茶の缶、取ってもらえる?」
「すぐ行く」
 お茶を淹れるとき、俺がどう動くのかを予測しての行動に笑みが漏れた。
 こういうのはなんだか嬉しい。
 なんてことのない動作に意思の疎通ができている気がして。
 ただ、実際には意思の疎通ができていることのほうが少ないわけで……。
 ポットに茶葉を入れケトルの電源を入れたところで翠の身体はフリーになる。それを見計らってキスをした。啄ばむようなキスを何度も。
 カタン――と湯が沸いた音でキスは終了。
 顔を赤らめた翠は、
「お茶、淹れるね」
 と俺から離れて作業に戻る。
 この瞬間、もう少しキスをしていたかった、と思うのも自分だけなのか――
「翠……」
「ん?」
 振り返った翠があまりにも嬉しそうな表情だったから、俺は何を問うでもなく「いや、いい」と疑問を胸にしまうことにした。
 藤の会のあと、ギクシャクしてしまった関係を修復する際に「キスはして」と言われた。
 それは「キスはしてもいい」という許可ではなく、「されたら嬉しい」という意味だったのだろうか。
 今の翠の表情からは、そんな気がしてならない。なら――
 お茶を淹れ終えた翠に近寄り背を屈めると、翠は察したように目を閉じた。
 キスをすれば、たどたどしい動きで手が俺の腕に添えられる。そんな仕草ひとつが嬉しくて、俺は深く深く口付けた。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

将棋部の眼鏡美少女を抱いた

junk
青春
将棋部の青春恋愛ストーリーです

小学生をもう一度

廣瀬純一
青春
大学生の松岡翔太が小学生の女の子の松岡翔子になって二度目の人生を始める話

幼馴染と話し合って恋人になってみた→夫婦になってみた

久野真一
青春
 最近の俺はちょっとした悩みを抱えている。クラスメート曰く、  幼馴染である百合(ゆり)と仲が良すぎるせいで付き合ってるか気になるらしい。  堀川百合(ほりかわゆり)。美人で成績優秀、運動完璧だけど朝が弱くてゲーム好きな天才肌の女の子。  猫みたいに気まぐれだけど優しい一面もあるそんな女の子。  百合とはゲームや面白いことが好きなところが馬が合って仲の良い関係を続けている。    そんな百合は今年は隣のクラス。俺と付き合ってるのかよく勘ぐられるらしい。  男女が仲良くしてるからすぐ付き合ってるだの何だの勘ぐってくるのは困る。  とはいえ。百合は異性としても魅力的なわけで付き合ってみたいという気持ちもある。  そんなことを悩んでいたある日の下校途中。百合から 「修二は私と恋人になりたい?」  なんて聞かれた。考えた末の言葉らしい。  百合としても満更じゃないのなら恋人になるのを躊躇する理由もない。 「なれたらいいと思ってる」    少し曖昧な返事とともに恋人になった俺たち。  食べさせあいをしたり、キスやその先もしてみたり。  恋人になった後は今までよりもっと楽しい毎日。  そんな俺達は大学に入る時に籍を入れて学生夫婦としての生活も開始。  夜一緒に寝たり、一緒に大学の講義を受けたり、新婚旅行に行ったりと  新婚生活も満喫中。  これは俺と百合が恋人としてイチャイチャしたり、  新婚生活を楽しんだりする、甘くてほのぼのとする日常のお話。

隣人の女性がDVされてたから助けてみたら、なぜかその人(年下の女子大生)と同棲することになった(なんで?)

チドリ正明@不労所得発売中!!
青春
マンションの隣の部屋から女性の悲鳴と男性の怒鳴り声が聞こえた。 主人公 時田宗利(ときたむねとし)の判断は早かった。迷わず訪問し時間を稼ぎ、確証が取れた段階で警察に通報。DV男を現行犯でとっちめることに成功した。 ちっぽけな勇気と小心者が持つ単なる親切心でやった宗利は日常に戻る。 しかし、しばらくして宗時は見覚えのある女性が部屋の前にしゃがみ込んでいる姿を発見した。 その女性はDVを受けていたあの時の隣人だった。 「頼れる人がいないんです……私と一緒に暮らしてくれませんか?」 これはDVから女性を守ったことで始まる新たな恋物語。

バレー部入部物語〜それぞれの断髪

S.H.L
青春
バレーボール強豪校に入学した女の子たちの断髪物語

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...