52 / 271
June
十八歳の誕生日 Side 司 02-01話
しおりを挟む
翠は高崎さんに聞きたいことがあると言って出ていった。今、自分の携帯を鳴らしたところで翠が出るとは思えない。
俺は部屋に入るとプリンターにセットされているコピー用紙に手を伸ばし、必要事項のみ書き込む。
これを玄関にでも貼っておけばいいだろう。
家を出て九階へ下りると、もっとも会いたくない人間に出くわした。
何を話す前からにやにやしているのが最悪……。
「リィが下にいたからもしかして、とは思ってたんだけど、何? 初デートなのにもうバイバイしたの? 何、優等生っぽいデートしてんだか」
鉢合わせたはずの人間に、待ってましたとばかりに突っ込まれる。
イラついたままに顔を逸らすと、
「は? 何、その紙」
気づいたときには遅かった。唯さんはコピー用紙の文面を注視していた。
俺は仕方なくコピー用紙を唯さんに差し出す。
「これ、翠の部屋のドアに貼っておいてもらえますか?」
「何なに、今日中に渡したいものがあるから――って、まさかまだ誕プレ渡せてないのっ!? ……まじでっ!? 今日一日何やってたのさ」
唯さんが何か口にするたびに不快指数が上がる。
「しゃぁないな、いいよ。引き受けてあげる。その代わり、何プレゼントするのか教えてよ」
事あるごとに交換条件を提示するのはこの人の癖だろうか。
俺が無言でいると、
「もしかして、ネックレスとか指輪とか、俺のものアピール的な? ほらほら、白状しちゃいなよ」
人の神経をここまで逆撫でできるのは、一種特技に思えなくもない。
「……ひとつはナマモノなので、今日中に来るよう口添えお願いします」
「ナマモノ、ね。へぇ~、まさか司っち手作りのケーキとか?」
「……それが何か」
これ以上この人の相手をするのは耐えられる気がせず、コピー用紙を取り上げようとした。しかし、あっさりかわされる。
「わかったわかった。部屋のドアに貼っておく。でも、なんか高崎さんの話聞くって言ってたし、この時間だし、場合によっては夕飯後になると思うよ」
「かまいません。お願いします」
それ以上言葉を交わしたくなくて、すぐに背を向け階段を上りだした。
八時過ぎにインターホンが鳴り、俺は笑顔で出迎える。
「遅くなってごめんなさい。……機嫌、悪い?」
上目遣いで訊かれ、
「これからプレゼントを渡そうかってところで帰られるとは思っていなかった」
翠はこれ以上ないほどに申し訳なさそうな顔をしていた。そこへ畳み掛けるように、
「まさか誕生日を祝う日に、そんな顔で謝罪されるとも思ってなかったんだけど」
絶対零度と呼ばれるそれを向けると、
「そんなふうに言わなくても……」
玄関に佇む翠は困り果てていた。その末、
「もう……どうしたら許してくれるの?」
「キスしてくれたら?」
「なっ――」
翠が一歩引くと玄関ドアに突き当たる。俺はそれをいいことに、
「嘘。でも、キスはさせて」
慌てふためく翠にキスをすると、翠の唇が少し震えていた。それに気づかないふりをして翠を部屋へ促す。
「お茶淹れてくる」
「あ、自分でするよっ?」
立ち上がろうとした翠の頭に手を置き、
「だからさ、今日は誕生日を祝う日じゃないの? それとも何、祝わせるつもりがないの?」
「そんなつもりは……」
「とりあえず、部屋で待ってて」
「はい……」
俺は翠を置き去りにしてキッチンへ向かった。
ハーブティーの用意をしながら思案する。
間違いなく翠の唇は震えていた。身体から震えていたわけではないが、唇の震えが何を意味するのかはわからない。
キスは大丈夫だったんじゃないのか? キスは受け入れられたわけじゃないのか?
「キスして、って……」
それはあの場限りのことだったのだろうか。
自分がどこで何を勘違いしたのか、と分岐点を探すも思い当たる節は見つからない。
理性を保つ自信がないと話したときだって、そんな自信はなくていいと言った割に、行為は受け入れられないという結論。
何が良くて何がだめなのか、まったくわからなくなってしまった。
これはもう一度尋ねる必要があるのかないのか、そんなことを考えているうちにお茶の用意は終わってしまう。
部屋に戻って早々、そんな話をするのは躊躇われる。なら、どんな話題ならいいのか――
少なくとも、話題を用意する必要がある程度には戸惑っていた。
ひとつ深呼吸してから部屋へ戻り、
「高崎さんに訊きたいことってなんだったの?」
「あ、お仕事のこと。将来の夢とか進路とか、そういう話を訊きたくて」
本屋での様子からしてそんなことだろうとは思っていたが、それで話を訊く相手がなぜ高崎さんなのか、という疑問は晴れない。
「話を聞いて、何か見出せたわけ?」
翠は少し沈黙してからこう答えた。
「……まだ、どの方向へ行くかは決められていないの。でも、今始めないと受験に間に合わなくなるものがあることには気づけた。だから、ピアノとハープのレッスンを再開することにしたの。それから、日曜日は高崎さんのアシスタントをして、植物のことを教えてもらえることになった」
翠はラグ一点を見て話していたが、姿勢は前を向いているように思えた。数時間前の、「どうしよう」といった困惑は明らかに解消されていた。
そんなことを感じながら、
「……ってことは、芸大と写真学科、園芸学科あたり?」
「うん。まずはこの近辺にある学校を調べて、資料請求しようかなと思って」
「倉敷芸大なら茜先輩の進学先だし、音楽の蓮井先生の出身大学でもある。話を聞くことはできるんじゃない? それから久先輩が葉山大学の写真学科、夜間に通ってる。こっちも話を聞くことはできると思う」
「ありがとう。先輩たちに連絡取ってみる。どこへレッスンに行くかもまだ悩んでいるから、蓮井先生に相談してみようかな」
話が一段落したところで、
「胃の調子は?」
調子は、と訊きながらも、実際に知りたかったのは空き容量。翠はクスリと笑い、
「あのね、唯兄からプレゼントに食べ物もあるみたいって聞いて、お夕飯は少し控えてきたの」
どうやら、嫌な思いをした分くらいは報われるらしい。
「それは何より」
部屋を出ると、翠が後ろから小走りでついてきた。
冷蔵庫からまだ切り分けていないケーキを取りだすと、
「ミルクレープっ!?」
「そう。甘さ控え目、生クリームとチーズクリームのサンドになってる」
「食べるの楽しみ!」
ケーキを切り分け別途作っていたジャムを添えると、
「わぁ……かわいい」
翠は嬉しそうに頬を緩めた。
部屋に戻りキャンドルに火を点けると部屋の照明を落す。
キャンドルの灯りのもと、俺はようやくプレゼントを渡すことができた。
「開けてもいい?」
「どうぞ」
華奢な指がリボンを解き箱を開ける。チェーンに指をかけた翠は、
「栞の天然石と同じ……?」
「そう。同じもので作ってもらった」
翠なら気づく。わかっていても、声にして言われるとこみ上げてくるものがある。
それをひた隠し、翠からチェーンを取り上げ左手首に装着する。と、箱の中からもうひとつのアイテムを取り出した。
「これを使えば携帯ストラップにもなる。……ただし、秋兄がプレゼントしたストラップを外さないと付けられない」
翠はきっと悩む。そうとわかっていて突きつけた。
好きと言われても、秋兄ではなく俺を選んでくれたとわかっていても、確固たる意思表示なるものを欲して。
俺はこんなことを何度繰り返すつもりなのか――
自分に問いながら、
「火、そろそろ消したほうがいいと思うけど?」
「あ、うんっ」
翠は慌てて数字を模したキャンドルを吹き消した。
暗い室内に翠の影を捉える。と、
「ツカサ……?」
こちらを向いた翠と目が合った。
わずかに開いたままの唇を、自分の唇で挟むように口付ける。
今度は震えてはいなかった。
一度解放したものの、後ろ髪を引かれるように再度唇を重ねる。
長いキスを終えると翠は俯き、
「ケーキ……食べないと溶けちゃう」
「溶けたら冷蔵庫に入ってるケーキを出せばいい」
どんな表情をしているのかがわからないのをいいことに、もう一度口付けようとすると、
「ケーキ、食べようっ?」
今度は力尽くで拒否された。
思わずついてしまったのはため息。そんな自分をフォローするように、または翠の状態を探るように、華奢な肩をそっと抱き寄せる。それには反する力を加えられなかった。
何が良くて何がだめなのか――
「キスはしてもいいんじゃないの?」
「……そうなんだけど……なんか、心臓、壊れそう……」
どうして片言なんだか……。
「キスじゃ心臓は壊れない」
すぐそこに翠の心臓があることに気づき、自分の右手を胸に添えた。すると、はっきりとした振動が手の平に伝う。
「つ、ツカサっ!?」
「……すごい鼓動」
「そんなのっ、私の携帯見ればわかるでしょうっっっ!?」
「触れるほうが早い」
他意はなかった。けど、一瞬にして魔が差した。
胸の中央に当てていた手を少しずらすと、柔らかな感触を得る。
「ツカサっ――」
翠の両手に阻まれた途端、ピンポーン――
まるで計ったようなタイミングでインターホンが鳴った。
尋ねてくるのは身内だけ。舌打ちをしたい気持ちを抑えて立ち上がり、部屋を出る際に照明を点ける。
玄関ドアを開けると、思わぬ人物が立っていた。
身内は身内でも、秋兄であると誰が思おうか。
「なんの用?」
「上がってもいい?」
「今、来客中」
秋兄は揃えられたサンダルに目をやり、
「それって翠葉ちゃんじゃない?」
確信を持って訊いてきた。
「わかっているなら帰ってくれない?」
「さて、どうするかな……」
何がだよ……。
「今からケーキ食べるところなんだけど」
「それ、本当?」
明らかに探りを入れる問いだった。
「おまえさ、翠葉ちゃんがバングルつけてること忘れてるだろ」
言われてはっとする。つい今しがた、翠にそれと同様のことを言われたにも関わらず、俺はスルーしていた。
「翠葉ちゃんには平常時のバイタルをループさせる方法を教えてあるけど、忘れているか、もしくは設定する余裕もなかったのかと思って。とりあえず、翠葉ちゃんが覚えているか確認してもらえる?」
部屋に戻って翠を見ると、ひどく情けない顔で「覚えてる」と口にした。若干涙目なのは気のせいではないだろう。
玄関に戻り、
「その方法、俺も知りたいんだけど」
秋兄は悠然と笑い、
「それは俺が教えられることじゃない。知りたければ翠葉ちゃんに訊きな。用件はそれだけ」
玄関のドアが閉まり、やらかした、と思った。思わず、その場に座り込みたいくらい、申し訳ないことをしたと思った。
部屋へ戻ると翠が携帯を握りしめていた。
「悪い……バングルのこと忘れてた」
翠ははじかれたように顔を上げ、
「あの、バングルのことは私もすっかり忘れていて、でも、待ってっていうのはそういうことじゃなくて――」
いっぱいいっぱいなのが目に見えてわかる。挙句、呼吸まで不規則になっている。
俺は翠の近くに膝をつくと、
「まずは深呼吸……」
猫背になっている背に手を添えると、わずかに身体が震えた。
やっぱり、これはもう一度言葉にして確認するべきなんだろうな……。
気は進まない。でも、「確認」を怠ったら翠を失う気がする。
わずかな緊張を纏い、
「言ってほしいって言われたから言うけど、俺はキスもしたければ翠に触れたいとも思ってる」
翠はきゅっと眉根を寄せ、一度俯いてから視線を合わせてきた。
「ツカサ、もう少しゆっくりがいい……。玉紀先生が仰っていたの。こういう欲求は女子より男子のほうが衝動的だって。その意味を今身をもって知ったのだけど、私は……もう少しゆっくり進みたい。まだ、キスをして抱きしめられるだけでいっぱいいっぱいなの。だから、それに慣れるまで、もう少し待ってもらえないかな……」
本当にそれだけ……? 俺のことを怖いと思っていたりするんじゃないないの?
「ずっとこのままがいいって言ってるわけじゃないの。ただ、もう少し待ってほしい」
翠の言葉をそのまま受け取っていいのか――俺を気遣う部分が多分に含まれているとしたら、この先この件においては意思の疎通ができない気がする。
翠が言う、「ずっと」とはどれほどの期間をいうのか――
「高校生のうちは、とか思っていたりする?」
「……うん。性行為が怖いと思うのとは別に、そういうのもある。もし子どもができたら中絶するのは嫌。でも、私はまだ高校生だし高校生でいたいから、そういう意味でも悩んでる……」
衝動だけで翠を求める分には何を深く考えることもない。でも、こういう部分を言葉にされると強くは言えない。
兄さんが言ったとおり、女子のほうが社会的リスクは高いのだから。
「翠の気持ちをどこまで汲めるか、どこまで待てるかはわからない。けど……翠が何をどう思っているかは理解できたと思う。……自分が取った行動の責任は取るつもり。でも、行為に対して翠に起こる変化すべてを負えるわけじゃないから――その部分は翠の判断に任せる」
「ごめん……」
「いや、前回よりは明確に提示してもらえたと思ってる」
「……ツカサのこと、好きだからね。大好きだからね? ツカサが怖いとか、嫌だとか、そういうのはないからね?」
欲っしていた言葉が不意に与えられ、気づいたときには頬が熱を持っていた。
そんな自分をまじまじと見る目から逃れるために、
「ケーキ、冷えたのを持ってくる」
「え、でも――」
「こんなことでもなければケーキなんて作らない。だから、美味しい状態のものを食べて」
キッチンの照明のもとでぼんやりと考える。
翠と秋兄はどこまでの関係だったのだろうか、と。
キスマークであの状態だったわけだから、キス以上のことをしたとは思えない。でも、秋兄なら難なく身体に触れるくらいのことはしている気がしなくもなく……。
それに、今日あのタイミングで現れたのは、前にもこういったことがあったからではないのか――
「こんなこと気にしても仕方ないのに……」
それでも俺は気にするのだろう。翠にすべてを許されるその日まで――
俺は部屋に入るとプリンターにセットされているコピー用紙に手を伸ばし、必要事項のみ書き込む。
これを玄関にでも貼っておけばいいだろう。
家を出て九階へ下りると、もっとも会いたくない人間に出くわした。
何を話す前からにやにやしているのが最悪……。
「リィが下にいたからもしかして、とは思ってたんだけど、何? 初デートなのにもうバイバイしたの? 何、優等生っぽいデートしてんだか」
鉢合わせたはずの人間に、待ってましたとばかりに突っ込まれる。
イラついたままに顔を逸らすと、
「は? 何、その紙」
気づいたときには遅かった。唯さんはコピー用紙の文面を注視していた。
俺は仕方なくコピー用紙を唯さんに差し出す。
「これ、翠の部屋のドアに貼っておいてもらえますか?」
「何なに、今日中に渡したいものがあるから――って、まさかまだ誕プレ渡せてないのっ!? ……まじでっ!? 今日一日何やってたのさ」
唯さんが何か口にするたびに不快指数が上がる。
「しゃぁないな、いいよ。引き受けてあげる。その代わり、何プレゼントするのか教えてよ」
事あるごとに交換条件を提示するのはこの人の癖だろうか。
俺が無言でいると、
「もしかして、ネックレスとか指輪とか、俺のものアピール的な? ほらほら、白状しちゃいなよ」
人の神経をここまで逆撫でできるのは、一種特技に思えなくもない。
「……ひとつはナマモノなので、今日中に来るよう口添えお願いします」
「ナマモノ、ね。へぇ~、まさか司っち手作りのケーキとか?」
「……それが何か」
これ以上この人の相手をするのは耐えられる気がせず、コピー用紙を取り上げようとした。しかし、あっさりかわされる。
「わかったわかった。部屋のドアに貼っておく。でも、なんか高崎さんの話聞くって言ってたし、この時間だし、場合によっては夕飯後になると思うよ」
「かまいません。お願いします」
それ以上言葉を交わしたくなくて、すぐに背を向け階段を上りだした。
八時過ぎにインターホンが鳴り、俺は笑顔で出迎える。
「遅くなってごめんなさい。……機嫌、悪い?」
上目遣いで訊かれ、
「これからプレゼントを渡そうかってところで帰られるとは思っていなかった」
翠はこれ以上ないほどに申し訳なさそうな顔をしていた。そこへ畳み掛けるように、
「まさか誕生日を祝う日に、そんな顔で謝罪されるとも思ってなかったんだけど」
絶対零度と呼ばれるそれを向けると、
「そんなふうに言わなくても……」
玄関に佇む翠は困り果てていた。その末、
「もう……どうしたら許してくれるの?」
「キスしてくれたら?」
「なっ――」
翠が一歩引くと玄関ドアに突き当たる。俺はそれをいいことに、
「嘘。でも、キスはさせて」
慌てふためく翠にキスをすると、翠の唇が少し震えていた。それに気づかないふりをして翠を部屋へ促す。
「お茶淹れてくる」
「あ、自分でするよっ?」
立ち上がろうとした翠の頭に手を置き、
「だからさ、今日は誕生日を祝う日じゃないの? それとも何、祝わせるつもりがないの?」
「そんなつもりは……」
「とりあえず、部屋で待ってて」
「はい……」
俺は翠を置き去りにしてキッチンへ向かった。
ハーブティーの用意をしながら思案する。
間違いなく翠の唇は震えていた。身体から震えていたわけではないが、唇の震えが何を意味するのかはわからない。
キスは大丈夫だったんじゃないのか? キスは受け入れられたわけじゃないのか?
「キスして、って……」
それはあの場限りのことだったのだろうか。
自分がどこで何を勘違いしたのか、と分岐点を探すも思い当たる節は見つからない。
理性を保つ自信がないと話したときだって、そんな自信はなくていいと言った割に、行為は受け入れられないという結論。
何が良くて何がだめなのか、まったくわからなくなってしまった。
これはもう一度尋ねる必要があるのかないのか、そんなことを考えているうちにお茶の用意は終わってしまう。
部屋に戻って早々、そんな話をするのは躊躇われる。なら、どんな話題ならいいのか――
少なくとも、話題を用意する必要がある程度には戸惑っていた。
ひとつ深呼吸してから部屋へ戻り、
「高崎さんに訊きたいことってなんだったの?」
「あ、お仕事のこと。将来の夢とか進路とか、そういう話を訊きたくて」
本屋での様子からしてそんなことだろうとは思っていたが、それで話を訊く相手がなぜ高崎さんなのか、という疑問は晴れない。
「話を聞いて、何か見出せたわけ?」
翠は少し沈黙してからこう答えた。
「……まだ、どの方向へ行くかは決められていないの。でも、今始めないと受験に間に合わなくなるものがあることには気づけた。だから、ピアノとハープのレッスンを再開することにしたの。それから、日曜日は高崎さんのアシスタントをして、植物のことを教えてもらえることになった」
翠はラグ一点を見て話していたが、姿勢は前を向いているように思えた。数時間前の、「どうしよう」といった困惑は明らかに解消されていた。
そんなことを感じながら、
「……ってことは、芸大と写真学科、園芸学科あたり?」
「うん。まずはこの近辺にある学校を調べて、資料請求しようかなと思って」
「倉敷芸大なら茜先輩の進学先だし、音楽の蓮井先生の出身大学でもある。話を聞くことはできるんじゃない? それから久先輩が葉山大学の写真学科、夜間に通ってる。こっちも話を聞くことはできると思う」
「ありがとう。先輩たちに連絡取ってみる。どこへレッスンに行くかもまだ悩んでいるから、蓮井先生に相談してみようかな」
話が一段落したところで、
「胃の調子は?」
調子は、と訊きながらも、実際に知りたかったのは空き容量。翠はクスリと笑い、
「あのね、唯兄からプレゼントに食べ物もあるみたいって聞いて、お夕飯は少し控えてきたの」
どうやら、嫌な思いをした分くらいは報われるらしい。
「それは何より」
部屋を出ると、翠が後ろから小走りでついてきた。
冷蔵庫からまだ切り分けていないケーキを取りだすと、
「ミルクレープっ!?」
「そう。甘さ控え目、生クリームとチーズクリームのサンドになってる」
「食べるの楽しみ!」
ケーキを切り分け別途作っていたジャムを添えると、
「わぁ……かわいい」
翠は嬉しそうに頬を緩めた。
部屋に戻りキャンドルに火を点けると部屋の照明を落す。
キャンドルの灯りのもと、俺はようやくプレゼントを渡すことができた。
「開けてもいい?」
「どうぞ」
華奢な指がリボンを解き箱を開ける。チェーンに指をかけた翠は、
「栞の天然石と同じ……?」
「そう。同じもので作ってもらった」
翠なら気づく。わかっていても、声にして言われるとこみ上げてくるものがある。
それをひた隠し、翠からチェーンを取り上げ左手首に装着する。と、箱の中からもうひとつのアイテムを取り出した。
「これを使えば携帯ストラップにもなる。……ただし、秋兄がプレゼントしたストラップを外さないと付けられない」
翠はきっと悩む。そうとわかっていて突きつけた。
好きと言われても、秋兄ではなく俺を選んでくれたとわかっていても、確固たる意思表示なるものを欲して。
俺はこんなことを何度繰り返すつもりなのか――
自分に問いながら、
「火、そろそろ消したほうがいいと思うけど?」
「あ、うんっ」
翠は慌てて数字を模したキャンドルを吹き消した。
暗い室内に翠の影を捉える。と、
「ツカサ……?」
こちらを向いた翠と目が合った。
わずかに開いたままの唇を、自分の唇で挟むように口付ける。
今度は震えてはいなかった。
一度解放したものの、後ろ髪を引かれるように再度唇を重ねる。
長いキスを終えると翠は俯き、
「ケーキ……食べないと溶けちゃう」
「溶けたら冷蔵庫に入ってるケーキを出せばいい」
どんな表情をしているのかがわからないのをいいことに、もう一度口付けようとすると、
「ケーキ、食べようっ?」
今度は力尽くで拒否された。
思わずついてしまったのはため息。そんな自分をフォローするように、または翠の状態を探るように、華奢な肩をそっと抱き寄せる。それには反する力を加えられなかった。
何が良くて何がだめなのか――
「キスはしてもいいんじゃないの?」
「……そうなんだけど……なんか、心臓、壊れそう……」
どうして片言なんだか……。
「キスじゃ心臓は壊れない」
すぐそこに翠の心臓があることに気づき、自分の右手を胸に添えた。すると、はっきりとした振動が手の平に伝う。
「つ、ツカサっ!?」
「……すごい鼓動」
「そんなのっ、私の携帯見ればわかるでしょうっっっ!?」
「触れるほうが早い」
他意はなかった。けど、一瞬にして魔が差した。
胸の中央に当てていた手を少しずらすと、柔らかな感触を得る。
「ツカサっ――」
翠の両手に阻まれた途端、ピンポーン――
まるで計ったようなタイミングでインターホンが鳴った。
尋ねてくるのは身内だけ。舌打ちをしたい気持ちを抑えて立ち上がり、部屋を出る際に照明を点ける。
玄関ドアを開けると、思わぬ人物が立っていた。
身内は身内でも、秋兄であると誰が思おうか。
「なんの用?」
「上がってもいい?」
「今、来客中」
秋兄は揃えられたサンダルに目をやり、
「それって翠葉ちゃんじゃない?」
確信を持って訊いてきた。
「わかっているなら帰ってくれない?」
「さて、どうするかな……」
何がだよ……。
「今からケーキ食べるところなんだけど」
「それ、本当?」
明らかに探りを入れる問いだった。
「おまえさ、翠葉ちゃんがバングルつけてること忘れてるだろ」
言われてはっとする。つい今しがた、翠にそれと同様のことを言われたにも関わらず、俺はスルーしていた。
「翠葉ちゃんには平常時のバイタルをループさせる方法を教えてあるけど、忘れているか、もしくは設定する余裕もなかったのかと思って。とりあえず、翠葉ちゃんが覚えているか確認してもらえる?」
部屋に戻って翠を見ると、ひどく情けない顔で「覚えてる」と口にした。若干涙目なのは気のせいではないだろう。
玄関に戻り、
「その方法、俺も知りたいんだけど」
秋兄は悠然と笑い、
「それは俺が教えられることじゃない。知りたければ翠葉ちゃんに訊きな。用件はそれだけ」
玄関のドアが閉まり、やらかした、と思った。思わず、その場に座り込みたいくらい、申し訳ないことをしたと思った。
部屋へ戻ると翠が携帯を握りしめていた。
「悪い……バングルのこと忘れてた」
翠ははじかれたように顔を上げ、
「あの、バングルのことは私もすっかり忘れていて、でも、待ってっていうのはそういうことじゃなくて――」
いっぱいいっぱいなのが目に見えてわかる。挙句、呼吸まで不規則になっている。
俺は翠の近くに膝をつくと、
「まずは深呼吸……」
猫背になっている背に手を添えると、わずかに身体が震えた。
やっぱり、これはもう一度言葉にして確認するべきなんだろうな……。
気は進まない。でも、「確認」を怠ったら翠を失う気がする。
わずかな緊張を纏い、
「言ってほしいって言われたから言うけど、俺はキスもしたければ翠に触れたいとも思ってる」
翠はきゅっと眉根を寄せ、一度俯いてから視線を合わせてきた。
「ツカサ、もう少しゆっくりがいい……。玉紀先生が仰っていたの。こういう欲求は女子より男子のほうが衝動的だって。その意味を今身をもって知ったのだけど、私は……もう少しゆっくり進みたい。まだ、キスをして抱きしめられるだけでいっぱいいっぱいなの。だから、それに慣れるまで、もう少し待ってもらえないかな……」
本当にそれだけ……? 俺のことを怖いと思っていたりするんじゃないないの?
「ずっとこのままがいいって言ってるわけじゃないの。ただ、もう少し待ってほしい」
翠の言葉をそのまま受け取っていいのか――俺を気遣う部分が多分に含まれているとしたら、この先この件においては意思の疎通ができない気がする。
翠が言う、「ずっと」とはどれほどの期間をいうのか――
「高校生のうちは、とか思っていたりする?」
「……うん。性行為が怖いと思うのとは別に、そういうのもある。もし子どもができたら中絶するのは嫌。でも、私はまだ高校生だし高校生でいたいから、そういう意味でも悩んでる……」
衝動だけで翠を求める分には何を深く考えることもない。でも、こういう部分を言葉にされると強くは言えない。
兄さんが言ったとおり、女子のほうが社会的リスクは高いのだから。
「翠の気持ちをどこまで汲めるか、どこまで待てるかはわからない。けど……翠が何をどう思っているかは理解できたと思う。……自分が取った行動の責任は取るつもり。でも、行為に対して翠に起こる変化すべてを負えるわけじゃないから――その部分は翠の判断に任せる」
「ごめん……」
「いや、前回よりは明確に提示してもらえたと思ってる」
「……ツカサのこと、好きだからね。大好きだからね? ツカサが怖いとか、嫌だとか、そういうのはないからね?」
欲っしていた言葉が不意に与えられ、気づいたときには頬が熱を持っていた。
そんな自分をまじまじと見る目から逃れるために、
「ケーキ、冷えたのを持ってくる」
「え、でも――」
「こんなことでもなければケーキなんて作らない。だから、美味しい状態のものを食べて」
キッチンの照明のもとでぼんやりと考える。
翠と秋兄はどこまでの関係だったのだろうか、と。
キスマークであの状態だったわけだから、キス以上のことをしたとは思えない。でも、秋兄なら難なく身体に触れるくらいのことはしている気がしなくもなく……。
それに、今日あのタイミングで現れたのは、前にもこういったことがあったからではないのか――
「こんなこと気にしても仕方ないのに……」
それでも俺は気にするのだろう。翠にすべてを許されるその日まで――
1
お気に入りに追加
191
あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

幼馴染と話し合って恋人になってみた→夫婦になってみた
久野真一
青春
最近の俺はちょっとした悩みを抱えている。クラスメート曰く、
幼馴染である百合(ゆり)と仲が良すぎるせいで付き合ってるか気になるらしい。
堀川百合(ほりかわゆり)。美人で成績優秀、運動完璧だけど朝が弱くてゲーム好きな天才肌の女の子。
猫みたいに気まぐれだけど優しい一面もあるそんな女の子。
百合とはゲームや面白いことが好きなところが馬が合って仲の良い関係を続けている。
そんな百合は今年は隣のクラス。俺と付き合ってるのかよく勘ぐられるらしい。
男女が仲良くしてるからすぐ付き合ってるだの何だの勘ぐってくるのは困る。
とはいえ。百合は異性としても魅力的なわけで付き合ってみたいという気持ちもある。
そんなことを悩んでいたある日の下校途中。百合から
「修二は私と恋人になりたい?」
なんて聞かれた。考えた末の言葉らしい。
百合としても満更じゃないのなら恋人になるのを躊躇する理由もない。
「なれたらいいと思ってる」
少し曖昧な返事とともに恋人になった俺たち。
食べさせあいをしたり、キスやその先もしてみたり。
恋人になった後は今までよりもっと楽しい毎日。
そんな俺達は大学に入る時に籍を入れて学生夫婦としての生活も開始。
夜一緒に寝たり、一緒に大学の講義を受けたり、新婚旅行に行ったりと
新婚生活も満喫中。
これは俺と百合が恋人としてイチャイチャしたり、
新婚生活を楽しんだりする、甘くてほのぼのとする日常のお話。

隣人の女性がDVされてたから助けてみたら、なぜかその人(年下の女子大生)と同棲することになった(なんで?)
チドリ正明@不労所得発売中!!
青春
マンションの隣の部屋から女性の悲鳴と男性の怒鳴り声が聞こえた。
主人公 時田宗利(ときたむねとし)の判断は早かった。迷わず訪問し時間を稼ぎ、確証が取れた段階で警察に通報。DV男を現行犯でとっちめることに成功した。
ちっぽけな勇気と小心者が持つ単なる親切心でやった宗利は日常に戻る。
しかし、しばらくして宗時は見覚えのある女性が部屋の前にしゃがみ込んでいる姿を発見した。
その女性はDVを受けていたあの時の隣人だった。
「頼れる人がいないんです……私と一緒に暮らしてくれませんか?」
これはDVから女性を守ったことで始まる新たな恋物語。


ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる