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May
藤の会 Side 翠葉 03話
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「雅の話を聞いてくれてありがとう」
「いえ、お礼を言われるようなことは何も……」
「そんなことないよ。雅は翠葉ちゃんと話すことで心置きなく日本を発てる。それはとても大きなことだと思う。だから、ありがとう」
「……秋斗さん、以前とは違う対応でしたね?」
「雅に対して、かな?」
「はい」
「……そうだね、和解したってところかな。人に歩み寄る努力なんて今までほとんどしてこなかったけど、一歩踏み出したら違う関係が築けるんだ、ってこの年になって知った」
今度は秋斗さんの口から、雅さんが一族の中でどんな存在だったのか、どんな扱いを受けてきたのかを聞かされた。
雅さんは自分のことを第三者の視点から話していたと思う。なぜなら、話される内容に主観がほとんど含まれなかったから。
けれども、秋斗さんが話す内容を聞いてしまうと、もっとひどい境遇にいた印象を受ける。第三者である秋斗さんが話すからこそ「擁護」の面が浮き彫りになるのかとも思ったけれど、それにしても散々な扱いだと思えた。雅さんが話してくれたそれよりも、もっと過酷な環境下にいたように思えた。
「翠葉ちゃんと雅が接触したあと、じーさんから静さんのもとに連絡があったらしい。雅に関する一切を任せる、ってね。……俺には見えなかったものがじーさんには見えてたんだろうな」
朗元さんの命を受けた静さんは、すぐに雅さんの身辺調査を始め、雅さんを自宅での軟禁状態にしたあと、可能な限り時間を作っては雅さんのもとへ出向き話し合いを続けてきたという。そうして時間をかけて雅さんの凝り固まった心をほぐしていったらしい。
「雅が唯一心を開いた相手は初等部、中等部でお世話になった養護教諭。その人を探しだして、しばらく雅を預かってくれるように話をつけてきたのも静さん。……じーさんも静さんも、すごいよね。俺も、人を見る目をもっと磨かないと……」
秋斗さんは誇らしげに微笑んだあと、自嘲気味に唇を引き結んだ。
「あぁ、楓が来たね」
「え?」
「ほら、あそこ」
東屋に続く小道の先に、袴姿の楓先生と昇さんが立っていた。
「今日は藤宮の男性陣がこぞって翠葉ちゃんをエスコートしにくるよ」
「……元おじい様の指示って、本当なんですか?」
「本当だよ。実際問題、じーさんの庇護下にいることがわかれば手を出してくる輩や絡んでくる人間はいないと思う。それでも、じーさんの力には及ばなくとも一定の付加価値になるのなら、俺たちのことも使うべきだ。……面倒な一族でごめんね」
私は息を吐ききってから吸える限りの酸素を吸い込み、肩をストン、と落とすと同時に再度息を吐き出した。
「覚悟はできた?」
「覚悟はできているつもりでした。でも、ここへ来たら人の視線に萎縮してしまって……。正直、こういう場は苦手です。あの庭園へ戻るのは気が進みません。……それでも、必要なら戻ります」
「格好いいね……。そんなに格好いいところを見せられたら、やっぱり諦めるのは無理そうだ」
不意に秋斗さんの顔が近づいてきて、右頬にキスをされた。
「あ、秋斗さんっ、キス禁止っっっ」
キスをされた頬を右手で隠して後ずさる。と、
「秋斗、いい加減にしろよ?」
東屋に到着した楓先生が、秋斗さんの頭へ手刀を振り下ろす。それはもう、手加減など一切なしに……。
「おっす、今日はまたかわいい格好してんな」
昇さんに声をかけられ、なんと言葉を返そうか悩む。
目の前に立つ昇さんはどこからどう見ても格好いい人なのに、どうも和服姿に違和感を覚える。病院で会うときがいつも術着姿だからだろうか。でも、それを言うなら楓先生も同じだし……。
「黙るな黙るな、どうせこの格好が似合わないっていうんだろ?」
その言葉を聞いて、ポン、と手を打ちそうになる。
「……ほかの人にも言われたんですか?」
「まぁな。洋服のほうが似合う的なことは毎年言われてるさ」
良かった……そう思ったのが私だけじゃなくて。
「……おいおい、思ってることが駄々漏れすぎだろ……」
昇さんの両手がこめかみのあたりに伸びてきて、頭をぐりぐりと攻撃される。
「や、ごめんなさいっ! 髪の毛、せっかくきれい結ってもらったにの崩れちゃうっ。やめてくださいっ!」
「安心しろ。髪型が崩れないように考慮してやる」
そんなやり取りをしながら庭園へ戻ると、やっぱり人目を集めることになる。
もしかしたら、やり取りや一緒にいる面子に視線を集めているのではなく、この着物の色が持つ意味に、かもしれない。
この庭園にいる人で藤色、または紫紺を身に着けている人はほんの数人しかいない。全員の着物を見てまわったわけではないけれど、秋斗さんや静さんにエスコートをしていただいた際、その場にいる人たちの着物は視界に入っていた。
私の思い違いでなければ、藤色の色留袖をまとっているのは真白さんとお母さん、それから湊先生。そして、長着や羽織に藤色、または紫紺を用いているのは朗元さんと静さんのみ。
それほどまでに、藤色や紫紺をまとう人がいないのだ。
昨年の、朗元さんのバースデーパーティーで藤色や紫紺を身に着けていた秋斗さんですら、その類は身に着けていない。
そんな中ならば、紫色に煌びやかな花が描かれた振袖を着る自分は目立って当然――
この振袖を着てきたらどんな目で見られるのか、ということはツカサから教えられていたし、先ほど雅さんにも「特別」であることは聞いていた。
今までは漠然としていた「特別」が、今はその輪郭を伴いくっきりと姿を現す。
「翠葉ちゃん、肩の力を抜こうか」
秋斗さんにトントン、と軽く肩を叩かれた。
「肩の力を抜いて深呼吸しようか」
私は秋斗さんに促されるままに深呼吸を繰り返す。
「どこにでも面倒な人間やうるさい人間はいるんだけど、翠葉ちゃんがこの振袖を着てここへ来た意味はちゃんとあるから。それだけの効果は間違いなく得られる」
私は小さく頷いた。一度視線を落とし、極力考えないように、と会話の題材になるものを探す。
私の右手を預けていた手に意識を移したとき、
「あ、楓先生――」
とても気になっていて訊きたいことがあった。けれども、それは「オフレコ」と言われたこともあり、瞬時に口を噤む。すると、
「果歩のことかな?」
楓先生は自分から果歩さんの名前を出した。私がコクリと頷くと、
「二月十四日、果歩の誕生日に入籍は済ませた。出産が終わったら身内とごく親しい友人を集めて挙式と披露宴をする予定」
「果歩さん、今日は……?」
「果歩は売られたケンカは買っちゃうタイプだからねぇ……。妊娠中の今は、あまりこういう場に連れてきたくなくて」
楓先生は少し困ったように笑う。でも、困ったふうなのに目尻が下がっていて、なんだか幸せそう。
「こういう場には出産が終わって落ち着いてから出席させる予定なんだ」
「そうなんですね……。楓先生、ご結婚おめでとうございます」
「ありがとう。挙式と披露宴、翠葉ちゃんにも招待状を出すから来てね」
「え……? でも――」
「翠葉ちゃんには果歩が入院しているときにお世話になったし、数年後には義妹になるかもしれないでしょ?」
「ギマイ……?」
「そう。翠葉ちゃんが司と結婚すれば、君は俺の妹になるんだよ」
ギマイが漢字に変換されてカッ、と頬が熱を持つ。その直後、ツンツン、と頬をつつく指があった。
「翠葉ちゃん、俺のことも忘れないでね? 俺は未だに君に求婚している身だよ?」
秋斗さんの言葉に周りが騒然とする中、私はひたすら唖然としていた。
何もこんなに人がいる場で、しかも注目されているときに言わなくても――
……否。これもきっと牽制の一貫なのだろう。わかる――わかるけど、人の視線が痛い……。
この、突き刺さるような視線の数々には慣れる気がまったくしない。
「そうだった、翠葉ちゃんは秋斗に求婚されてたんだったな」
昇さんは復唱するように口にした。
なんともわざとらしい……。昇さんはきっと、嘘や演技ができないタイプだ。
どう反応したらいいのかわからず宙に視線を彷徨わせていると、楓先生が優しく声をかけてくれた。
「今日、司には会ったの?」
「いえ、まだ……」
「きっと翠葉ちゃんを見たら驚くだろうね?」
「え……?」
「いつもかわいいけど、今日は拍車をかけてかわいいから」
楓先生は、「大丈夫」と唇を動かしふわりと微笑んだ。
一番最初にお茶を飲んだ藤棚まで戻ってくると、栞さんが真白さんたちと一緒にお茶を飲んでいた。その一画にある茶席では、柊子先生が亭主になってお茶を振舞っている。そこで少し休憩したあと、
「御園生さん、私にもエスコートをさせていただけますか」
今度は涼先生に声をかけられた。
小道を歩きながら、
「最近、胃腸の調子はいかがでしょう」
涼先生との会話はいつもこんな問診から始まる。そんなことに気づけば自然と笑みが漏れる。
「とくにこれといった症状はありません」
「それは良かった。昨夜はよく眠れましたか?」
「緊張していて眠れそうになかったので、お薬の力を借りました」
「そうですか。こういった場は苦手ですか?」
私は肩を竦め、
「はい、苦手です……。でも、近くに秋斗さんたちがついていてくれたので、身の置きどころがなくなるほどではありませんでした」
涼先生は庭園の一角にある小さな藤棚へと私を案内してくれた。そこは人ごみから程よい距離があり、少し気を緩めることができそう。
「今日、この場にいらっしゃったということは、それ相応の心構えをされてのことと思います。この先、嫌な思いをされることも、偏見の目で見られることもあるでしょう。ですが、御園生さんには御園生さんらしくいていただけたら、と思います。藤宮の周りには内外問わず癖のある人間が多数いますが、何を気にすることもありません。藤宮に振り回されるなどほとほと無意味ですから」
涼先生はにこりと笑う。そのきれいすぎる笑みがあまりにもツカサに似ていて、私は涼先生の顔をじっと見ていることができなかった。
「何かありましたらいつでもご相談に乗りますので気兼ねなくおっしゃってください。私に連絡をいただいてもかまいませんが、真白さんでも義父でもかまいません。それから、藤山の自宅へもちょくちょく遊びにいらしてください。真白さんが喜びます」
涼先生は袂から名刺を取り出し、懐紙に包んで私の手に握らせた。懐紙に挟まれた名刺には、病院の電話番号のほかに、病院で持っているであろうPHSの番号、メールアドレスが印字されており、裏面には自宅の番号と携帯の番号、メールアドレスが記されていた。
アルファベットと数字の筆跡がツカサと似ている……。
「……ありがとうございます」
「いえ、お礼を言うのはこちらのほうです。司とお付き合いいただけることになったとか?」
「あっ、はいっ――」
突然の話題にうろたえ、さらには恥ずかしくなって俯いてしまう。
「あれは私に似て不器用な人間ですが、誠実な人間ではあると思います。もし、司が不義理を働くようでしたらぜひ私にご一報を。もっとも効果的な方法で報復することお約束いたします」
「そんなことっ――」
「父さん、そういうことは勝手に請け負わないでほしいんだけど。もっとも、浮気なんてするつもりはないし、何かあれば翠が俺に直接話せばいいことだ」
涼先生の背後から現れたツカサに絶句する。
爽やかな青の長着と同系色の光沢ある羽織に淡いグレーの袴。藤棚の下に立つツカサは絵を切り取ったように美しい。
和服が似合うのなんて嫌というほど知っていたけれど、知っていても困るものは困るのだ。
どうしよう……。じっと見ていたいのに見ていられない。目のやり場に困る。
自分がどれほど赤面しているのかを自覚しているだけに、恥ずかしくて仕方がない。
「お邪魔しまーす!」
唯兄の声に視線を上げる。と、
「あーあ……リィ、かわいそうなくらい真っ赤だね?」
「だってっ――」
理由を言いたくても言えない。
「それを言うならうちの愚息も普段より血色がいいようですよ」
涼先生の言葉にツカサをちら、と見ると、ほのかに赤味差した頬だった。そして、ツカサも私と同じように塀の方へと視線を逸らしていた。
「ほらほら、司っちはリィの手ぇ取ってエスコートするんじゃないのぉ?」
「……とは申しましても、いたらない息子にエスコートが務まるものか……。ここは私たちが席を外す、というのが妥当でしょうね」
涼先生の言葉に唯兄と蒼兄は藤棚を出て、人が集まる庭園へと向かって歩きだした。
「いえ、お礼を言われるようなことは何も……」
「そんなことないよ。雅は翠葉ちゃんと話すことで心置きなく日本を発てる。それはとても大きなことだと思う。だから、ありがとう」
「……秋斗さん、以前とは違う対応でしたね?」
「雅に対して、かな?」
「はい」
「……そうだね、和解したってところかな。人に歩み寄る努力なんて今までほとんどしてこなかったけど、一歩踏み出したら違う関係が築けるんだ、ってこの年になって知った」
今度は秋斗さんの口から、雅さんが一族の中でどんな存在だったのか、どんな扱いを受けてきたのかを聞かされた。
雅さんは自分のことを第三者の視点から話していたと思う。なぜなら、話される内容に主観がほとんど含まれなかったから。
けれども、秋斗さんが話す内容を聞いてしまうと、もっとひどい境遇にいた印象を受ける。第三者である秋斗さんが話すからこそ「擁護」の面が浮き彫りになるのかとも思ったけれど、それにしても散々な扱いだと思えた。雅さんが話してくれたそれよりも、もっと過酷な環境下にいたように思えた。
「翠葉ちゃんと雅が接触したあと、じーさんから静さんのもとに連絡があったらしい。雅に関する一切を任せる、ってね。……俺には見えなかったものがじーさんには見えてたんだろうな」
朗元さんの命を受けた静さんは、すぐに雅さんの身辺調査を始め、雅さんを自宅での軟禁状態にしたあと、可能な限り時間を作っては雅さんのもとへ出向き話し合いを続けてきたという。そうして時間をかけて雅さんの凝り固まった心をほぐしていったらしい。
「雅が唯一心を開いた相手は初等部、中等部でお世話になった養護教諭。その人を探しだして、しばらく雅を預かってくれるように話をつけてきたのも静さん。……じーさんも静さんも、すごいよね。俺も、人を見る目をもっと磨かないと……」
秋斗さんは誇らしげに微笑んだあと、自嘲気味に唇を引き結んだ。
「あぁ、楓が来たね」
「え?」
「ほら、あそこ」
東屋に続く小道の先に、袴姿の楓先生と昇さんが立っていた。
「今日は藤宮の男性陣がこぞって翠葉ちゃんをエスコートしにくるよ」
「……元おじい様の指示って、本当なんですか?」
「本当だよ。実際問題、じーさんの庇護下にいることがわかれば手を出してくる輩や絡んでくる人間はいないと思う。それでも、じーさんの力には及ばなくとも一定の付加価値になるのなら、俺たちのことも使うべきだ。……面倒な一族でごめんね」
私は息を吐ききってから吸える限りの酸素を吸い込み、肩をストン、と落とすと同時に再度息を吐き出した。
「覚悟はできた?」
「覚悟はできているつもりでした。でも、ここへ来たら人の視線に萎縮してしまって……。正直、こういう場は苦手です。あの庭園へ戻るのは気が進みません。……それでも、必要なら戻ります」
「格好いいね……。そんなに格好いいところを見せられたら、やっぱり諦めるのは無理そうだ」
不意に秋斗さんの顔が近づいてきて、右頬にキスをされた。
「あ、秋斗さんっ、キス禁止っっっ」
キスをされた頬を右手で隠して後ずさる。と、
「秋斗、いい加減にしろよ?」
東屋に到着した楓先生が、秋斗さんの頭へ手刀を振り下ろす。それはもう、手加減など一切なしに……。
「おっす、今日はまたかわいい格好してんな」
昇さんに声をかけられ、なんと言葉を返そうか悩む。
目の前に立つ昇さんはどこからどう見ても格好いい人なのに、どうも和服姿に違和感を覚える。病院で会うときがいつも術着姿だからだろうか。でも、それを言うなら楓先生も同じだし……。
「黙るな黙るな、どうせこの格好が似合わないっていうんだろ?」
その言葉を聞いて、ポン、と手を打ちそうになる。
「……ほかの人にも言われたんですか?」
「まぁな。洋服のほうが似合う的なことは毎年言われてるさ」
良かった……そう思ったのが私だけじゃなくて。
「……おいおい、思ってることが駄々漏れすぎだろ……」
昇さんの両手がこめかみのあたりに伸びてきて、頭をぐりぐりと攻撃される。
「や、ごめんなさいっ! 髪の毛、せっかくきれい結ってもらったにの崩れちゃうっ。やめてくださいっ!」
「安心しろ。髪型が崩れないように考慮してやる」
そんなやり取りをしながら庭園へ戻ると、やっぱり人目を集めることになる。
もしかしたら、やり取りや一緒にいる面子に視線を集めているのではなく、この着物の色が持つ意味に、かもしれない。
この庭園にいる人で藤色、または紫紺を身に着けている人はほんの数人しかいない。全員の着物を見てまわったわけではないけれど、秋斗さんや静さんにエスコートをしていただいた際、その場にいる人たちの着物は視界に入っていた。
私の思い違いでなければ、藤色の色留袖をまとっているのは真白さんとお母さん、それから湊先生。そして、長着や羽織に藤色、または紫紺を用いているのは朗元さんと静さんのみ。
それほどまでに、藤色や紫紺をまとう人がいないのだ。
昨年の、朗元さんのバースデーパーティーで藤色や紫紺を身に着けていた秋斗さんですら、その類は身に着けていない。
そんな中ならば、紫色に煌びやかな花が描かれた振袖を着る自分は目立って当然――
この振袖を着てきたらどんな目で見られるのか、ということはツカサから教えられていたし、先ほど雅さんにも「特別」であることは聞いていた。
今までは漠然としていた「特別」が、今はその輪郭を伴いくっきりと姿を現す。
「翠葉ちゃん、肩の力を抜こうか」
秋斗さんにトントン、と軽く肩を叩かれた。
「肩の力を抜いて深呼吸しようか」
私は秋斗さんに促されるままに深呼吸を繰り返す。
「どこにでも面倒な人間やうるさい人間はいるんだけど、翠葉ちゃんがこの振袖を着てここへ来た意味はちゃんとあるから。それだけの効果は間違いなく得られる」
私は小さく頷いた。一度視線を落とし、極力考えないように、と会話の題材になるものを探す。
私の右手を預けていた手に意識を移したとき、
「あ、楓先生――」
とても気になっていて訊きたいことがあった。けれども、それは「オフレコ」と言われたこともあり、瞬時に口を噤む。すると、
「果歩のことかな?」
楓先生は自分から果歩さんの名前を出した。私がコクリと頷くと、
「二月十四日、果歩の誕生日に入籍は済ませた。出産が終わったら身内とごく親しい友人を集めて挙式と披露宴をする予定」
「果歩さん、今日は……?」
「果歩は売られたケンカは買っちゃうタイプだからねぇ……。妊娠中の今は、あまりこういう場に連れてきたくなくて」
楓先生は少し困ったように笑う。でも、困ったふうなのに目尻が下がっていて、なんだか幸せそう。
「こういう場には出産が終わって落ち着いてから出席させる予定なんだ」
「そうなんですね……。楓先生、ご結婚おめでとうございます」
「ありがとう。挙式と披露宴、翠葉ちゃんにも招待状を出すから来てね」
「え……? でも――」
「翠葉ちゃんには果歩が入院しているときにお世話になったし、数年後には義妹になるかもしれないでしょ?」
「ギマイ……?」
「そう。翠葉ちゃんが司と結婚すれば、君は俺の妹になるんだよ」
ギマイが漢字に変換されてカッ、と頬が熱を持つ。その直後、ツンツン、と頬をつつく指があった。
「翠葉ちゃん、俺のことも忘れないでね? 俺は未だに君に求婚している身だよ?」
秋斗さんの言葉に周りが騒然とする中、私はひたすら唖然としていた。
何もこんなに人がいる場で、しかも注目されているときに言わなくても――
……否。これもきっと牽制の一貫なのだろう。わかる――わかるけど、人の視線が痛い……。
この、突き刺さるような視線の数々には慣れる気がまったくしない。
「そうだった、翠葉ちゃんは秋斗に求婚されてたんだったな」
昇さんは復唱するように口にした。
なんともわざとらしい……。昇さんはきっと、嘘や演技ができないタイプだ。
どう反応したらいいのかわからず宙に視線を彷徨わせていると、楓先生が優しく声をかけてくれた。
「今日、司には会ったの?」
「いえ、まだ……」
「きっと翠葉ちゃんを見たら驚くだろうね?」
「え……?」
「いつもかわいいけど、今日は拍車をかけてかわいいから」
楓先生は、「大丈夫」と唇を動かしふわりと微笑んだ。
一番最初にお茶を飲んだ藤棚まで戻ってくると、栞さんが真白さんたちと一緒にお茶を飲んでいた。その一画にある茶席では、柊子先生が亭主になってお茶を振舞っている。そこで少し休憩したあと、
「御園生さん、私にもエスコートをさせていただけますか」
今度は涼先生に声をかけられた。
小道を歩きながら、
「最近、胃腸の調子はいかがでしょう」
涼先生との会話はいつもこんな問診から始まる。そんなことに気づけば自然と笑みが漏れる。
「とくにこれといった症状はありません」
「それは良かった。昨夜はよく眠れましたか?」
「緊張していて眠れそうになかったので、お薬の力を借りました」
「そうですか。こういった場は苦手ですか?」
私は肩を竦め、
「はい、苦手です……。でも、近くに秋斗さんたちがついていてくれたので、身の置きどころがなくなるほどではありませんでした」
涼先生は庭園の一角にある小さな藤棚へと私を案内してくれた。そこは人ごみから程よい距離があり、少し気を緩めることができそう。
「今日、この場にいらっしゃったということは、それ相応の心構えをされてのことと思います。この先、嫌な思いをされることも、偏見の目で見られることもあるでしょう。ですが、御園生さんには御園生さんらしくいていただけたら、と思います。藤宮の周りには内外問わず癖のある人間が多数いますが、何を気にすることもありません。藤宮に振り回されるなどほとほと無意味ですから」
涼先生はにこりと笑う。そのきれいすぎる笑みがあまりにもツカサに似ていて、私は涼先生の顔をじっと見ていることができなかった。
「何かありましたらいつでもご相談に乗りますので気兼ねなくおっしゃってください。私に連絡をいただいてもかまいませんが、真白さんでも義父でもかまいません。それから、藤山の自宅へもちょくちょく遊びにいらしてください。真白さんが喜びます」
涼先生は袂から名刺を取り出し、懐紙に包んで私の手に握らせた。懐紙に挟まれた名刺には、病院の電話番号のほかに、病院で持っているであろうPHSの番号、メールアドレスが印字されており、裏面には自宅の番号と携帯の番号、メールアドレスが記されていた。
アルファベットと数字の筆跡がツカサと似ている……。
「……ありがとうございます」
「いえ、お礼を言うのはこちらのほうです。司とお付き合いいただけることになったとか?」
「あっ、はいっ――」
突然の話題にうろたえ、さらには恥ずかしくなって俯いてしまう。
「あれは私に似て不器用な人間ですが、誠実な人間ではあると思います。もし、司が不義理を働くようでしたらぜひ私にご一報を。もっとも効果的な方法で報復することお約束いたします」
「そんなことっ――」
「父さん、そういうことは勝手に請け負わないでほしいんだけど。もっとも、浮気なんてするつもりはないし、何かあれば翠が俺に直接話せばいいことだ」
涼先生の背後から現れたツカサに絶句する。
爽やかな青の長着と同系色の光沢ある羽織に淡いグレーの袴。藤棚の下に立つツカサは絵を切り取ったように美しい。
和服が似合うのなんて嫌というほど知っていたけれど、知っていても困るものは困るのだ。
どうしよう……。じっと見ていたいのに見ていられない。目のやり場に困る。
自分がどれほど赤面しているのかを自覚しているだけに、恥ずかしくて仕方がない。
「お邪魔しまーす!」
唯兄の声に視線を上げる。と、
「あーあ……リィ、かわいそうなくらい真っ赤だね?」
「だってっ――」
理由を言いたくても言えない。
「それを言うならうちの愚息も普段より血色がいいようですよ」
涼先生の言葉にツカサをちら、と見ると、ほのかに赤味差した頬だった。そして、ツカサも私と同じように塀の方へと視線を逸らしていた。
「ほらほら、司っちはリィの手ぇ取ってエスコートするんじゃないのぉ?」
「……とは申しましても、いたらない息子にエスコートが務まるものか……。ここは私たちが席を外す、というのが妥当でしょうね」
涼先生の言葉に唯兄と蒼兄は藤棚を出て、人が集まる庭園へと向かって歩きだした。
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