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May
藤の会 Side 翠葉 02話
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秋斗さんと藤を見ながら庭園を歩き、人が集まる場所へと連れていかれた。
人垣の中にいたのは静さんと湊先生。周囲にいる人が秋斗さんに気づくと、自然と垣根が割れる。
静さんが私に気づき、
「湊、少し席を外す」
「どうぞ。翠葉、いらっしゃい。その振袖、とてもよく似合っているわ」
「ありがとうございます」
「司には会ったの?」
「いえ、実はまだ見かけてもいなくて……」
「意外ね? 司のことだから、秋斗にエスコートなんてさせないようにガッチリガードしてると思ったのに」
「それなんだけどさ、最初のエスコートはじーさんに奪われたんだ」
秋斗さんがおかしそうに話す。
「あらやだ、おじい様ったらさすがだわ」
「じーさんがさ、翠葉ちゃんと面識がある人間を代わる代わるエスコート役につくよう指示を出してるんだよね」
「じゃ、下っ端の司は一番最後ね」
「そういうこと」
秋斗さんと湊先生の会話にわたわたしていると、静さんに手を差し出された。
「姫君、お散歩をご一緒しても?」
「……はい」
今度は静さんに連れられ、私は庭園を回ることになった。
「少し座ろうか?」
「はい」
赤い布がかけられた椅子に浅く腰掛けると、すぐにお茶が運ばれてきた。静さんに差し出されるも、先ほど真白さんが点てたお茶をいただいてしまったため、どうあってもこれ以上飲むことはできない。控え目に笑みを添え口を付けずにいると、
「あぁ、そうか。翠葉ちゃんはカフェインがだめなんだったね」
「……すみません」
突如、あたりがザワリとした。
「静様に勧められたお茶に手をつけないだなんて」
「まぁ、なんて礼儀を知らないお嬢さんだこと」
刺すような視線が向けられ、小さな囁きすら漏れずに聞こえてくる。
この場に立ってようやく、ツカサたちに関わっていくということを理解した気がする。
想像はしていたのだ。でも、やっぱり想像は想像でしかなく、現実を目の当たりにした気分。
「翠葉ちゃん、気にすることはない」
それはお茶のことだろうか。それとも、周囲の目だろうか。
「うっかり忘れていた私が悪いんだ」
静さんはにこりと笑い、近くにいる給仕の人を呼んだ。
「彼女のために作らせた桃のデザートがあるはずだ。それを持ってくるように」
「かしこまりました」
静さんが何か口にするたびに周りがざわつく。
「静様自らご用意されたなんて――」
「あの子、いったい何者なの!?」
「紫紺をまとっているが、どこの家の令嬢だ!?」
「会長の誕生パーティーに藤の精がいたという話を聞いたが、あの子が……!?」
「あの娘、城井碧嬢の娘じゃないか? 彼女の若いころによく似ている」
この人たちは聞こえないように話しているつもりなのだろうか。それとも聞こえるように話しているのだろうか。どちらにしても、私が何を言えるわけでもない。
「翠葉ちゃん、胸を張っていなさい。今日は一段とかわいい格好をしているんだ。背を丸めていてはもったいないよ」
「……はい」
私は顎を引き、気を引き締めて姿勢を正した。
運ばれてきたデザートは果肉たっぷりのゼリーを凍らせたもの。程よく解凍されており、シャリシャリとした食感が癖になる。
「もしかして、須藤さんが作られたデザートですか?」
「当たりだ。翠葉ちゃんは須藤の料理が好きだろう? 今日は特別に会長宅の調理スタッフに入ってもらっている」
またしてもざわざわとした声が耳に入ってくる。
……聞かない。聞こうとしなくていい。今私が話しているのは静さんで、周りの人の声は気にしなくていい――
自分に暗示をかけるように繰り返し、静さんとの会話に意識を集中させる。
「……須藤さんにお会いすることはできるでしょうか」
「それなら、あとで司に連れていってもらうといい」
「はい。お願いしてみます」
シャーベットを食べ終え口の中がさっぱりしたところで、
「実は、翠葉ちゃんに会わせたい人がいるんだ」
「……会わせたい人、ですか?」
「あぁ。庭園の奥にいるからそこまでご足労いただけるかな」
「はい」
庭園の奥、というよりは外れ――人気がまったくない場所に連れていかれると、東屋に秋斗さんとクリーム色の着物を着る女の人がいた。
「翠葉ちゃんも何度か会ったことのある人間だ」
こちらを向いたその女性は雅さんだった。
私に気づくと、雅さんは立ち上がり会釈する。その動作に少し違和感を覚えた。
雅さんは静さんを見て会釈したのではない。私を見て会釈したのだ。
「実は、去年のうちに謝罪したいと申し出てはいたんだが、何分携帯事件の直後だったこともあって、私の判断で話を止めていた」
静さんが話を止めていたのは、きっと私の記憶が戻った直後だったからだろう。そのあとは、朗元さんとの再会や手術、リハビリ、進級試験、新学期――と私自身が慌しい中に身を置いていた。
「雅、どうする? ふたりで話したいのなら俺は席を外すけど」
「秋斗さん、来てくれてありがとう。彼女とふたりで話すことが許されるのなら、ふたりで話します」
以前会った雅さんとは雰囲気も話し方も変わっていた。何より、秋斗さんの接し方が柔らかい……。以前見たときのような建前を前面に出す対応ではない。
「翠葉ちゃん、大丈夫かな?」
秋斗さんに尋ねられ、私は意味もわからずコクリと頷く。
「秋斗、あとは任せる」
「はい」
静さんは藤の庭園へ戻り、
「じゃぁ、俺は少し離れたところにいる。話が終わったら声をかけて」
秋斗さんはひとり東屋を出ていった。
雅さんは私に向き直ると、
「立っているのは良くないのでしょう?」
優しく声をかけられ、長椅子に座るよう促される。
「その振袖は……紫紺に近い色味からすると会長からの贈り物かしら?」
「……はい」
「そう。とてもよく似合っているわ」
「雅さんも、とてもよくお似合いです」
「ありがとう」
以前の雅さんなら、赤や黒地に豪華絢爛な花模様。もしくは冷たい感じのするブルーに煌びやかな花模様といった振袖をイメージする。けれど、今の雅さんには優しいクリーム色の留袖がしっくりとくる。派手な模様の振袖よりも留袖……。様々な花が飾られた御所車は主張しすぎずクリーム色に調和する。かわいいやきれい、というよりも、上品で落ち着いた印象を受けた。
帯揚げが柔らかな抹茶色で、帯締めがワインレッドという小物の色使いもすてき。
何より、会うたびに感じていた威圧感をまったく感じない。
こんなにも、態度や雰囲気がガラリ、と変わる人に会ったのは初めてのことで、私は少し戸惑っていた。
「このお着物……私も会長からいただいたの」
「……そうなんですか?」
「えぇ」
雅さんは私の振袖を見ながら、
「私が二十歳のときに着た振袖は、赤地に四季折々の花や宝尽くしが描かれていたわ。今見るとちょっと毒々しい感じがするわね。当時はなんの違和感もなく着ていたというのに」
雅さんが話すそれは、私が想像した着物に近いような気がする。
「こんな優しい色をまとえるようになったのは、ひとえにあなたのおかげ」
それはどういう意味だろう。
「私、あなたに出逢わなかったら今も変わらず暗闇の中にひとりだった。あなたに出逢ってコンプレックスを強く感じたけれど、それと向き合うことが唯一の解決策だったみたい。――散々ひどいことを言ってごめんなさい」
雅さんは頭を下げて謝った。
「っ……いえっ、あのっ――」
急に謝られても困ってしまう。私の中に雅さんに対する憤りはないのだから。
「怖い」と思ったことはある。会うたびに威圧的な態度に気圧された。でも、それだけなのだ。今は、以前との対応の差に戸惑っている。ただそれだけ――
「言い訳ではないのだけど、私の身の上話を聞いてもらえるかしら?」
「……私が聞いてもいいのでしょうか」
「そうね……。たぶん、私はあなたに聞いてもらいたいの」
雅さんは自分が妾の子であること、両親に望まれて生まれてきたわけではないこと、実の母親に捨てられたこと、幼少のころから藤宮の中でどう扱われてきたのかを話してくれた。そんな自分と秋斗さんを重ねて見ていたことも――
秋斗さんの家は夫婦仲が悪いわけではない。むしろ良すぎたため、紅子さんが若すぎたがために、秋斗さんが大学に入るころくらいまでは育児放棄に近かったという。
「環境は違うにせよ、親からの愛情を満足に受けられなかった者同士、互いが欲する愛情を補い合えると思っていたわ。でも、あなたも知っているとおり、お見合いすらできなかった。もっとも、お見合いができたとしても話はまとまらなかったでしょうし、話がまとまって結婚に至ったとしても、うまくはいかなかったでしょうね」
雅さんは、そのころの精神状態をまるで第三者の目で見るかのように話し続けた。
私の何を見てコンプレックスを抱いたのか、何もかも。心の中をすべてさらけだすような言葉たち。
「あのっ――」
雅さんの膝に置かれていた手に自分の手を重ねる。と、その手はひどく冷たかった。
私の手よりも冷たい……。
「大丈夫、ですか……?」
「本当に、絵に描いたようないい子なのね」
雅さんはクスクスと笑う。
「いい子」と言われても困ってしまう。私は人にそう思われるほど「いい子」ではないと思うから。
何も言えずに口を噤んでいると、
「今の、嫌みじゃないわよ? あなたがほかの誰にどう思われているかは知らないわ。ただ、私がいい子だな、と思っただけ」
雅さんはもう一度クスリと笑い、一呼吸置いてから話を続けた。
「すべてをさらけ出すことには慣れていないし、誰にでも自分をさらせるほど強くもないわ。でも、話したいと思う人がいることや、話せる状況にあることが幸せなことだと今ならわかる。それに、あなたには自分の醜いところをすでに見せてしまっているから、あれ以上に醜いものなどないと思えばなんでも話せる気がするの」
「……醜いところ、ですか?」
「えぇ、嫉妬に狂った半狂乱。そんな言葉がぴったりだったでしょう?」
言われて少し考える。
「……私の雅さんの印象は、ハイヒールが似合うきれいで怖い人、です。だから、醜いと思ったことはないですよ?」
私の言葉に雅さんは声を立ててクスクスと笑った。
「あなた、正直ね?」
「……すみません」
「謝らなくていいわ。謝らなくちゃいけないのは私のほうだもの。どんな生い立ちがあり、精神的に不安定な状態だったとしても、あなたを傷つけてもいいという免罪符にはなり得ないわ」
「あの……確かにショックは受けました。でも、怖いと思いこそすれ、雅さんを恨むとか憎むとか、そういった感情はありませんでした。雅さんと会わなければ秋斗さんがどんな立場にいる人なのかきちんと認識することはできませんでしたし……」
「でも、知らなければあなたは秋斗さんとお付き合いすることになったでしょう? 私、未だに秋斗さんに言われるのよ? 雅が邪魔しなければ俺は翠葉ちゃんと結婚できたのに、って」
思わず、少し離れた場所にいる秋斗さんを見てしまう。すると、「どうかした?」といった感じで秋斗さんが戻ってきた。
「雅が笑ってるなんて、ふたりして何を話してたの?」
私が困っていると、
「私が未だに秋斗さんに文句を言われてるって話をしたんです」
「あぁ、その話……。だって、そうでしょう? あのタイミングなら、絶対に俺を選んでもらえたと思ってるから」
真面目に訊かれるからさらに困る羽目になる。
「あのとき、翠葉ちゃんは俺を好きだったでしょう?」
今度はごまかされてあげないよ、という視線に観念して、私はコクリと頷いた。
「今でもこんなに赤面してくれるんだ。俺、何気に脈ありだと思わない?」
秋斗さんが雅さんに尋ねると、
「それはどうかしら? 今の意中の相手は司さんなのでしょう? 敵は手強いと思うけど」
やっぱり――雅さんに対する秋斗さんの口調は明らかに変わっていた。そして、雅さんが秋斗さんに使う口調も幾分か砕けたものになっている。それはまるで、栞さんたちと話すような間柄に見えた。
「雅、時間は大丈夫なの?」
「えぇ、そろそろ……」
「……どこかへ行かれるのですか?」
「まだ話してなかったわね。私、今は秋斗さんの起こした会社で働いているの」
「え……?」
「雅は語学が堪能だし、やらせてみたら商談にも強くてね。だから、海外支部を任せることにした」
秋斗さんの補足に驚く。
「仕事は仕事なのだけど、それだけでもないの。向こうにね、私が初等部から中等部でお世話になった養護教諭がいらっしゃるの。その人のところでしばらくお世話になることにしたのよ。今は少し、藤宮から距離を置きたくて」
「俺はその話を静さんから聞いて、海外支部の話を持ちかけたってわけ」
雅さんは控え目に笑みを添えた。
今の雅さんなら怖いとは思わないし、もっと話してみたいと思う。でも、秋斗さんと雅さんのやり取りを聞く限りでは、今日中に日本を発つのだろう。
せっかく話せるようになったのにな……。
「……あの、お手紙……書いてもいいですか?」
「え……? かまわないけれど……」
「秋斗さん、あとで住所教えてください」
「了解。住所とメールアドレスの両方教えるよ」
「でも、私に何を書くことがあるの……?」
雅さんは不思議そうに尋ねてくる。
「秘密です……というより、色々教えていただきたいことがあるので」
言葉を濁すと、雅さんはふわりと笑った。
「藤の精に頼まれたら断われないわね。私に教えられることならなんでも教えるわ」
そういえば、雅さんは未婚女性だ。でも、藤色のものは身に着けていない。藤宮の人間であっても藤色や紫紺をまとうことは特別なのだろうか。
「何? 何か物珍しいものでもあったかしら?」
私が着物に注視してしまったからか、雅さんは自分の着物のあちこちを見始める。
「いえ……あの、藤の精とはそんなにも特別なものなのでしょうか」
「……そうね、特別よ。何がどう、とは言えないけれど、会長の誕生日や藤の会であなたほど藤色や紫紺を纏う人は稀だわ」
雅さんの話にゴクリ、と唾を飲み込んだ。そんな私を見て雅さんはクスリ、と笑う。
「実は、私も会長に藤色のお着物をと言われたのだけれど、遠慮したの。今は藤宮に関わりたくないし、藤の精ということで注目されるのも嬉しくないから。代わりにこれをいただいたわ」
雅さんは胸元からネックレスを取り出した。
それは、私の記憶にも新しいネックレス。金色のチェーンに通されているのは藤の花びらを模したトップ。去年、プラネットパレスで朗元さんに紫紺の品としていただいたものと同じ。
「このお気持ちだけで十分」
雅さんは大切そうにそのネックレスを胸元にしまった。
「そんなわけだから、当分の間は藤の精はあなたひとりでしょうね。そういう意味では、あなたこれから大変よ? 一族内外、強欲な人間なら飽きるほどいるわ」
私は苦笑を貼り付け、
「……つまり、そういうことを教えていただきたくて」
雅さんはきょとんとした顔をした。
「……そういうこと。わかったわ。なんでも訊いてちょうだい? ご所望とあらば、処世術だって教えちゃうわ」
そこへスーツを着た人がやってきた。
「雅様、そろそろお時間です」
「今行きます。……翠葉さん、今まで本当にごめんなさい。それから、話をすべて聞いてくれてありがとう。お手紙、楽しみに待っています」
私たちは握手をして別れた。
人垣の中にいたのは静さんと湊先生。周囲にいる人が秋斗さんに気づくと、自然と垣根が割れる。
静さんが私に気づき、
「湊、少し席を外す」
「どうぞ。翠葉、いらっしゃい。その振袖、とてもよく似合っているわ」
「ありがとうございます」
「司には会ったの?」
「いえ、実はまだ見かけてもいなくて……」
「意外ね? 司のことだから、秋斗にエスコートなんてさせないようにガッチリガードしてると思ったのに」
「それなんだけどさ、最初のエスコートはじーさんに奪われたんだ」
秋斗さんがおかしそうに話す。
「あらやだ、おじい様ったらさすがだわ」
「じーさんがさ、翠葉ちゃんと面識がある人間を代わる代わるエスコート役につくよう指示を出してるんだよね」
「じゃ、下っ端の司は一番最後ね」
「そういうこと」
秋斗さんと湊先生の会話にわたわたしていると、静さんに手を差し出された。
「姫君、お散歩をご一緒しても?」
「……はい」
今度は静さんに連れられ、私は庭園を回ることになった。
「少し座ろうか?」
「はい」
赤い布がかけられた椅子に浅く腰掛けると、すぐにお茶が運ばれてきた。静さんに差し出されるも、先ほど真白さんが点てたお茶をいただいてしまったため、どうあってもこれ以上飲むことはできない。控え目に笑みを添え口を付けずにいると、
「あぁ、そうか。翠葉ちゃんはカフェインがだめなんだったね」
「……すみません」
突如、あたりがザワリとした。
「静様に勧められたお茶に手をつけないだなんて」
「まぁ、なんて礼儀を知らないお嬢さんだこと」
刺すような視線が向けられ、小さな囁きすら漏れずに聞こえてくる。
この場に立ってようやく、ツカサたちに関わっていくということを理解した気がする。
想像はしていたのだ。でも、やっぱり想像は想像でしかなく、現実を目の当たりにした気分。
「翠葉ちゃん、気にすることはない」
それはお茶のことだろうか。それとも、周囲の目だろうか。
「うっかり忘れていた私が悪いんだ」
静さんはにこりと笑い、近くにいる給仕の人を呼んだ。
「彼女のために作らせた桃のデザートがあるはずだ。それを持ってくるように」
「かしこまりました」
静さんが何か口にするたびに周りがざわつく。
「静様自らご用意されたなんて――」
「あの子、いったい何者なの!?」
「紫紺をまとっているが、どこの家の令嬢だ!?」
「会長の誕生パーティーに藤の精がいたという話を聞いたが、あの子が……!?」
「あの娘、城井碧嬢の娘じゃないか? 彼女の若いころによく似ている」
この人たちは聞こえないように話しているつもりなのだろうか。それとも聞こえるように話しているのだろうか。どちらにしても、私が何を言えるわけでもない。
「翠葉ちゃん、胸を張っていなさい。今日は一段とかわいい格好をしているんだ。背を丸めていてはもったいないよ」
「……はい」
私は顎を引き、気を引き締めて姿勢を正した。
運ばれてきたデザートは果肉たっぷりのゼリーを凍らせたもの。程よく解凍されており、シャリシャリとした食感が癖になる。
「もしかして、須藤さんが作られたデザートですか?」
「当たりだ。翠葉ちゃんは須藤の料理が好きだろう? 今日は特別に会長宅の調理スタッフに入ってもらっている」
またしてもざわざわとした声が耳に入ってくる。
……聞かない。聞こうとしなくていい。今私が話しているのは静さんで、周りの人の声は気にしなくていい――
自分に暗示をかけるように繰り返し、静さんとの会話に意識を集中させる。
「……須藤さんにお会いすることはできるでしょうか」
「それなら、あとで司に連れていってもらうといい」
「はい。お願いしてみます」
シャーベットを食べ終え口の中がさっぱりしたところで、
「実は、翠葉ちゃんに会わせたい人がいるんだ」
「……会わせたい人、ですか?」
「あぁ。庭園の奥にいるからそこまでご足労いただけるかな」
「はい」
庭園の奥、というよりは外れ――人気がまったくない場所に連れていかれると、東屋に秋斗さんとクリーム色の着物を着る女の人がいた。
「翠葉ちゃんも何度か会ったことのある人間だ」
こちらを向いたその女性は雅さんだった。
私に気づくと、雅さんは立ち上がり会釈する。その動作に少し違和感を覚えた。
雅さんは静さんを見て会釈したのではない。私を見て会釈したのだ。
「実は、去年のうちに謝罪したいと申し出てはいたんだが、何分携帯事件の直後だったこともあって、私の判断で話を止めていた」
静さんが話を止めていたのは、きっと私の記憶が戻った直後だったからだろう。そのあとは、朗元さんとの再会や手術、リハビリ、進級試験、新学期――と私自身が慌しい中に身を置いていた。
「雅、どうする? ふたりで話したいのなら俺は席を外すけど」
「秋斗さん、来てくれてありがとう。彼女とふたりで話すことが許されるのなら、ふたりで話します」
以前会った雅さんとは雰囲気も話し方も変わっていた。何より、秋斗さんの接し方が柔らかい……。以前見たときのような建前を前面に出す対応ではない。
「翠葉ちゃん、大丈夫かな?」
秋斗さんに尋ねられ、私は意味もわからずコクリと頷く。
「秋斗、あとは任せる」
「はい」
静さんは藤の庭園へ戻り、
「じゃぁ、俺は少し離れたところにいる。話が終わったら声をかけて」
秋斗さんはひとり東屋を出ていった。
雅さんは私に向き直ると、
「立っているのは良くないのでしょう?」
優しく声をかけられ、長椅子に座るよう促される。
「その振袖は……紫紺に近い色味からすると会長からの贈り物かしら?」
「……はい」
「そう。とてもよく似合っているわ」
「雅さんも、とてもよくお似合いです」
「ありがとう」
以前の雅さんなら、赤や黒地に豪華絢爛な花模様。もしくは冷たい感じのするブルーに煌びやかな花模様といった振袖をイメージする。けれど、今の雅さんには優しいクリーム色の留袖がしっくりとくる。派手な模様の振袖よりも留袖……。様々な花が飾られた御所車は主張しすぎずクリーム色に調和する。かわいいやきれい、というよりも、上品で落ち着いた印象を受けた。
帯揚げが柔らかな抹茶色で、帯締めがワインレッドという小物の色使いもすてき。
何より、会うたびに感じていた威圧感をまったく感じない。
こんなにも、態度や雰囲気がガラリ、と変わる人に会ったのは初めてのことで、私は少し戸惑っていた。
「このお着物……私も会長からいただいたの」
「……そうなんですか?」
「えぇ」
雅さんは私の振袖を見ながら、
「私が二十歳のときに着た振袖は、赤地に四季折々の花や宝尽くしが描かれていたわ。今見るとちょっと毒々しい感じがするわね。当時はなんの違和感もなく着ていたというのに」
雅さんが話すそれは、私が想像した着物に近いような気がする。
「こんな優しい色をまとえるようになったのは、ひとえにあなたのおかげ」
それはどういう意味だろう。
「私、あなたに出逢わなかったら今も変わらず暗闇の中にひとりだった。あなたに出逢ってコンプレックスを強く感じたけれど、それと向き合うことが唯一の解決策だったみたい。――散々ひどいことを言ってごめんなさい」
雅さんは頭を下げて謝った。
「っ……いえっ、あのっ――」
急に謝られても困ってしまう。私の中に雅さんに対する憤りはないのだから。
「怖い」と思ったことはある。会うたびに威圧的な態度に気圧された。でも、それだけなのだ。今は、以前との対応の差に戸惑っている。ただそれだけ――
「言い訳ではないのだけど、私の身の上話を聞いてもらえるかしら?」
「……私が聞いてもいいのでしょうか」
「そうね……。たぶん、私はあなたに聞いてもらいたいの」
雅さんは自分が妾の子であること、両親に望まれて生まれてきたわけではないこと、実の母親に捨てられたこと、幼少のころから藤宮の中でどう扱われてきたのかを話してくれた。そんな自分と秋斗さんを重ねて見ていたことも――
秋斗さんの家は夫婦仲が悪いわけではない。むしろ良すぎたため、紅子さんが若すぎたがために、秋斗さんが大学に入るころくらいまでは育児放棄に近かったという。
「環境は違うにせよ、親からの愛情を満足に受けられなかった者同士、互いが欲する愛情を補い合えると思っていたわ。でも、あなたも知っているとおり、お見合いすらできなかった。もっとも、お見合いができたとしても話はまとまらなかったでしょうし、話がまとまって結婚に至ったとしても、うまくはいかなかったでしょうね」
雅さんは、そのころの精神状態をまるで第三者の目で見るかのように話し続けた。
私の何を見てコンプレックスを抱いたのか、何もかも。心の中をすべてさらけだすような言葉たち。
「あのっ――」
雅さんの膝に置かれていた手に自分の手を重ねる。と、その手はひどく冷たかった。
私の手よりも冷たい……。
「大丈夫、ですか……?」
「本当に、絵に描いたようないい子なのね」
雅さんはクスクスと笑う。
「いい子」と言われても困ってしまう。私は人にそう思われるほど「いい子」ではないと思うから。
何も言えずに口を噤んでいると、
「今の、嫌みじゃないわよ? あなたがほかの誰にどう思われているかは知らないわ。ただ、私がいい子だな、と思っただけ」
雅さんはもう一度クスリと笑い、一呼吸置いてから話を続けた。
「すべてをさらけ出すことには慣れていないし、誰にでも自分をさらせるほど強くもないわ。でも、話したいと思う人がいることや、話せる状況にあることが幸せなことだと今ならわかる。それに、あなたには自分の醜いところをすでに見せてしまっているから、あれ以上に醜いものなどないと思えばなんでも話せる気がするの」
「……醜いところ、ですか?」
「えぇ、嫉妬に狂った半狂乱。そんな言葉がぴったりだったでしょう?」
言われて少し考える。
「……私の雅さんの印象は、ハイヒールが似合うきれいで怖い人、です。だから、醜いと思ったことはないですよ?」
私の言葉に雅さんは声を立ててクスクスと笑った。
「あなた、正直ね?」
「……すみません」
「謝らなくていいわ。謝らなくちゃいけないのは私のほうだもの。どんな生い立ちがあり、精神的に不安定な状態だったとしても、あなたを傷つけてもいいという免罪符にはなり得ないわ」
「あの……確かにショックは受けました。でも、怖いと思いこそすれ、雅さんを恨むとか憎むとか、そういった感情はありませんでした。雅さんと会わなければ秋斗さんがどんな立場にいる人なのかきちんと認識することはできませんでしたし……」
「でも、知らなければあなたは秋斗さんとお付き合いすることになったでしょう? 私、未だに秋斗さんに言われるのよ? 雅が邪魔しなければ俺は翠葉ちゃんと結婚できたのに、って」
思わず、少し離れた場所にいる秋斗さんを見てしまう。すると、「どうかした?」といった感じで秋斗さんが戻ってきた。
「雅が笑ってるなんて、ふたりして何を話してたの?」
私が困っていると、
「私が未だに秋斗さんに文句を言われてるって話をしたんです」
「あぁ、その話……。だって、そうでしょう? あのタイミングなら、絶対に俺を選んでもらえたと思ってるから」
真面目に訊かれるからさらに困る羽目になる。
「あのとき、翠葉ちゃんは俺を好きだったでしょう?」
今度はごまかされてあげないよ、という視線に観念して、私はコクリと頷いた。
「今でもこんなに赤面してくれるんだ。俺、何気に脈ありだと思わない?」
秋斗さんが雅さんに尋ねると、
「それはどうかしら? 今の意中の相手は司さんなのでしょう? 敵は手強いと思うけど」
やっぱり――雅さんに対する秋斗さんの口調は明らかに変わっていた。そして、雅さんが秋斗さんに使う口調も幾分か砕けたものになっている。それはまるで、栞さんたちと話すような間柄に見えた。
「雅、時間は大丈夫なの?」
「えぇ、そろそろ……」
「……どこかへ行かれるのですか?」
「まだ話してなかったわね。私、今は秋斗さんの起こした会社で働いているの」
「え……?」
「雅は語学が堪能だし、やらせてみたら商談にも強くてね。だから、海外支部を任せることにした」
秋斗さんの補足に驚く。
「仕事は仕事なのだけど、それだけでもないの。向こうにね、私が初等部から中等部でお世話になった養護教諭がいらっしゃるの。その人のところでしばらくお世話になることにしたのよ。今は少し、藤宮から距離を置きたくて」
「俺はその話を静さんから聞いて、海外支部の話を持ちかけたってわけ」
雅さんは控え目に笑みを添えた。
今の雅さんなら怖いとは思わないし、もっと話してみたいと思う。でも、秋斗さんと雅さんのやり取りを聞く限りでは、今日中に日本を発つのだろう。
せっかく話せるようになったのにな……。
「……あの、お手紙……書いてもいいですか?」
「え……? かまわないけれど……」
「秋斗さん、あとで住所教えてください」
「了解。住所とメールアドレスの両方教えるよ」
「でも、私に何を書くことがあるの……?」
雅さんは不思議そうに尋ねてくる。
「秘密です……というより、色々教えていただきたいことがあるので」
言葉を濁すと、雅さんはふわりと笑った。
「藤の精に頼まれたら断われないわね。私に教えられることならなんでも教えるわ」
そういえば、雅さんは未婚女性だ。でも、藤色のものは身に着けていない。藤宮の人間であっても藤色や紫紺をまとうことは特別なのだろうか。
「何? 何か物珍しいものでもあったかしら?」
私が着物に注視してしまったからか、雅さんは自分の着物のあちこちを見始める。
「いえ……あの、藤の精とはそんなにも特別なものなのでしょうか」
「……そうね、特別よ。何がどう、とは言えないけれど、会長の誕生日や藤の会であなたほど藤色や紫紺を纏う人は稀だわ」
雅さんの話にゴクリ、と唾を飲み込んだ。そんな私を見て雅さんはクスリ、と笑う。
「実は、私も会長に藤色のお着物をと言われたのだけれど、遠慮したの。今は藤宮に関わりたくないし、藤の精ということで注目されるのも嬉しくないから。代わりにこれをいただいたわ」
雅さんは胸元からネックレスを取り出した。
それは、私の記憶にも新しいネックレス。金色のチェーンに通されているのは藤の花びらを模したトップ。去年、プラネットパレスで朗元さんに紫紺の品としていただいたものと同じ。
「このお気持ちだけで十分」
雅さんは大切そうにそのネックレスを胸元にしまった。
「そんなわけだから、当分の間は藤の精はあなたひとりでしょうね。そういう意味では、あなたこれから大変よ? 一族内外、強欲な人間なら飽きるほどいるわ」
私は苦笑を貼り付け、
「……つまり、そういうことを教えていただきたくて」
雅さんはきょとんとした顔をした。
「……そういうこと。わかったわ。なんでも訊いてちょうだい? ご所望とあらば、処世術だって教えちゃうわ」
そこへスーツを着た人がやってきた。
「雅様、そろそろお時間です」
「今行きます。……翠葉さん、今まで本当にごめんなさい。それから、話をすべて聞いてくれてありがとう。お手紙、楽しみに待っています」
私たちは握手をして別れた。
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食べさせあいをしたり、キスやその先もしてみたり。
恋人になった後は今までよりもっと楽しい毎日。
そんな俺達は大学に入る時に籍を入れて学生夫婦としての生活も開始。
夜一緒に寝たり、一緒に大学の講義を受けたり、新婚旅行に行ったりと
新婚生活も満喫中。
これは俺と百合が恋人としてイチャイチャしたり、
新婚生活を楽しんだりする、甘くてほのぼのとする日常のお話。
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隣人の女性がDVされてたから助けてみたら、なぜかその人(年下の女子大生)と同棲することになった(なんで?)
チドリ正明@不労所得発売中!!
青春
マンションの隣の部屋から女性の悲鳴と男性の怒鳴り声が聞こえた。
主人公 時田宗利(ときたむねとし)の判断は早かった。迷わず訪問し時間を稼ぎ、確証が取れた段階で警察に通報。DV男を現行犯でとっちめることに成功した。
ちっぽけな勇気と小心者が持つ単なる親切心でやった宗利は日常に戻る。
しかし、しばらくして宗時は見覚えのある女性が部屋の前にしゃがみ込んでいる姿を発見した。
その女性はDVを受けていたあの時の隣人だった。
「頼れる人がいないんです……私と一緒に暮らしてくれませんか?」
これはDVから女性を守ったことで始まる新たな恋物語。
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