後宮化粧師は引く手あまた

七森陽

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一体、その強さはどこからくるんだ

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 妓女から水差しと杯を受け取り部屋に戻ると、先程と同じ体勢のまま、俊熙は横になっていた。
「俊熙さま、お水飲まれますか?」
「……ん、ああ」
 いつになくぼんやりした口調が珍しい。俊熙はお酒に強かったはずなんだけどね、と先程太燿が言っていたが、それをこんなに酔わせる程、明日からの道が険しく大変であるということを香月も実感した。
 起き上がろうとする俊熙の背を支える。
 そういえば何度か計らずも俊熙の身体に触れることがあったが、ふと、その文官らしからぬ筋肉の感触に気づいた。昼過ぎに触れた腹筋もそうだが、普段見ているだけでは全く気づけないしなやかな筋肉が、その身体には張り巡らされているようだった。俊熙が時折発する「殿下を守る」という言葉は、もしかするとその言葉の通り物理的な護りの事を意図しているのかもしれない。
 なんてことを思いながら、上半身を起こし未だ額に手を宛てている俊熙を見遣った。
「お水お入れしますね」
 その実が第一皇太子であること。科挙を九歳の幼さで突破したこと。それと同じくらいの位置に、おそらく身体を鍛えている秘密があるのだろう。香月は残念ながら尋ねる身分にない。
 少し距離を感じた気がして、香月はその寂しさを振り切りながら水差しに手を伸ばした。
 しかし水差しから杯に水を入れたところで、ふと、既視感が過ぎる。
 数日前もこんな風に、装飾の多い水差しに水を注いだことがあった。その時は結局香月しか水を飲まなかったが、その水には――。
「俊熙さま、失礼しますね」
 香月は考える間もなく反射的に、その杯を自分の唇につけ、ひと口煽った。
 名を呼ばれこちらを向いたらしい俊熙が、少し驚いた顔をしている。それはそうだ、俊熙の為に注いだ筈の水である。
「…だい、じょうぶですね。すみません、ひとつしかないので同じ器になるんですけど…ただのお水でしたのでおつぎします」
 太燿が何かを口にする時は、いつも毒味役が口をつけてからである。ここは信用のおける青楼と言えど、東宮でも皇宮でもない場所。
「…おい、呉香月」
 香月の言動の意図を理解したらしい俊熙は、地を這うような怒りの声を発した。
「誰がお前に毒味を頼んだ。――お前にそんな行為をさせたくて、私の身を明かしたわけではない」
 その声は怒りに満ちていたが、同時に哀しみも含んでいる気がして、香月はゆっくりとその瞳を見つめた。
 確かに第一皇太子と知ってしまったことは、少なからず香月の中の俊熙像を変えた要因ではある。しかし、そうではない、そうではないのだ。
「勘違いなさらないでください」
 ゆっくりと、香月はそう発した。
「俊熙さまの正体が何であるかなんて、私にとっては頬紅を乗せるか乗せないか、くらいの事象でしかないんです」
「……は?」
 意味のわからない例えだったのか、俊熙は未だかつて無い程の間抜けな声を漏らした。
「もちろん頬紅はつけた方が印象深くはなりますけど、別につけなくたって、その人の本当の美しさが失われるわけじゃないんです」
「、は、はぁ…?」
「……わたし、すごく怖かったんです、麗孝さまのお話を聞いて。本当にあの毒は苦しくて痛くて、もう二度とあんな思いはしたくないって思いました。でももっと怖いと思ったのは、あんな苦しみを、もしかすると俊熙さまや太燿さまも味わっていたかもしれないってことなんです」
 水を注いだ杯をそっと渡す。受け取った俊熙は一瞬止まったあと、ぐいと一気にそれを飲み干した。――それは、香月の想いを受け取ってくれた合図のような気がした。
「私、俊熙さまが宦官だろうが尊人だろうが、どっちでもいいんです。――もちろん俊熙さまだけじゃなくって、太燿さまも、梦瑶さまも、芳馨さまも…」
 窓から見上げる月は少し欠けているがまだ丸い。
 香月は自分の中で、大切なものがどんどん増えていることに気づいて少し驚く。梦瑶だったところに俊熙が入ってきて、そして、どんどん増えて。
「わたし、大切な人には傷ついて欲しくないし、いつも笑顔でいてほしいって思います」
 神妙な顔で香月を見ていた俊熙と、目線を合わせる。
「だからわたし、がんばります」
 頼りにしていると、触れてくれた手の温もりを思い出す。
 明日から自分に出来ること。
 特に指示などされていないが、香月はわかっていた。自分にしか出来ないことがあるのだ。
「…俊熙さま、蛙毒を水差しに入れた宮女は、桔梗殿の者か、後宮でもかなりの権限を持っている者の手配ですよね」
 俊熙は何も言わず、真っ直ぐに香月を見ている。
「わたし、こんな時に俊熙さまや芳馨さまに甘えて、東宮に守られてるなんてこと出来ません。わたしに出来ること、ありますよね?」
 先程俊熙と芳馨が交わしていた会話を、香月は思い出す。二人は何かを隠していて、それにより後宮が危険な場所だと判断しているのだ。
「わたしにだって、守らせてください」
 心の底からの想いだった。
 しばらく見つめあっていると、俊熙は大きく息を吐いて、それから後ろへと倒れ込んだ。
 あ、そうだった、この方しこたま酔っていたんだった。
 唐突に思い出して、今話す内容ではなかったと反省する。
「……お前は本当に……」
 俊熙は横に杯を置き、その掌を自身の額へと宛てた。
「…一体、その強さはどこから来るんだ」
 その声は純粋な疑問を発する声だった。
「え…わたし強いですか?」
 子豪からは可愛げのない女と良く言われていたが、そんな部分を俊熙は強さだと認識してくれたのだろうか。
 その問いに俊熙は答えなかったが、ふ、とひとつ笑みを零して、そして小さな声で言葉を漏らした。
「…今から言う事は、この場だけのことと思ってくれ」
 香月の位置からはその手が邪魔で俊熙の表情は見えない。いつもと違う俊熙の雰囲気に、香月はただ無言で肯定するしか出来ない。
「私は……守れるだろうか」
 そうして発された言葉は、とてもとても、消え入りそうなものだった。
 それを聞いて香月は瞬時に理解する。
 ――俊熙は、不安で仕方ないのだ。
 強大な敵、見えない思惑。守りたいものを本当に自分の手で守れるのかという疑心。
 思わず香月は、俊熙の胸に置いてあったもう片方の彼の手を両手で握る。
「ひとりじゃないです」
 ぴくりと、その手が動いた。
「みなさんいらっしゃいます」
 ゆっくりと顔を覆っていた手が降ろされる。
 その瞳が少し湿っている気がしたが、月の明かりが反射していただけかもしれない。
「もちろんわたしもがんばります」
 そして目線を合わせて、もう一度、言った。
「ひとりじゃないです」
 ――きっとこの人は、幼い頃から色々なものを独りで背負ってきたんだろう。
 香月もよくは知らないが、幼くして母と遠方へ送られ、その後科挙を突破し、一度は追い出された皇宮に戻ってきたのだ。第一皇太子という身分を捨て、異母弟である太燿の為にきっと必死だったのだと思う。
 とてつもなく、俊熙を愛しいと思った。
 強くその手を握ると、少しだけ俊熙はその手を握り返してくれて、香月の心臓はどきりと鳴る。
「…そうか」
 可笑しそうに俊熙が笑った。
 そんな顔。はじめてみた。
 胸が痛くて苦しい。
 役に立ちたいと心の底から感じたのは梦瑶妃に対しても同じだったが、こんな胸の痛みは知らない。
「流石、太燿様の人徳だな」
 俊熙は握られていない方の手で髪をかきあげながらそう言ったが、違うそれだけじゃないと香月は両手に力を込めた。
「それもありますけど!」
 ぐいと身体を乗り出し、俊熙の顔を真上から覗き込んではっきりと告げた。
「貴方の、お役に立ちたいんですからね、わたしは!」
 俊熙の目が、少し見開かれる。
 あ、なんかちょっと本音過ぎたかもしれない。
 唐突に恥ずかしくなって手を離そうとすると、しかしそれは強く握り込まれて叶わなかった。
「…そうか」
 そう言った俊熙の目はスッと細くなる。どくんと心臓が鳴ったと思ったら、握っていない方の俊熙の手が、頬に伸びてきた。
 えっ
 と思う間もなく、頬にそれが触れる。
 自分の頬が一気に熱くなるのを感じる。
 合わさった視線の先、俊熙が何を考えているのかは一切読めない。ただその瞳には、顔を赤くした自分が映り込んでいるだけ。
 頬に触れた掌が、じわりと香月の耳の方へ移動する。その掌も、熱い、気がする。
 そのまま首の後ろの方まで手が及んだ。
 目が離せない。が、その俊熙の目が、少し下にズレた気がした。つられて思わず香月の視線もその少し下…俊熙の唇に、行く。
 引き結ばれていたそれが少し開いた。
 と同時に、首の後ろにあった手に力が入ってきて、頭ごとぐいと引き寄せられ、俊熙の顔もなんだか傾きながら近寄って――――――――――――

「ッオイ!起きてるか!? ちょっと厄介な情報、洋が持ってきたぞ!」
 ガンガンガン!と強く扉を叩く音と同時に、子豪の少し慌てた大声が響き渡った。
「ぅわぁ!」
 情けない声を出して、香月は思わず後ろに飛び退いた。手も頭も、俊熙から解放される。
 中途半端に上半身を持ち上げていた俊熙は一瞬固まってから、チッ、と小さく舌打ちをした、ような気がした。立ち上がってそのまま扉へと近寄る。
「オイ!まだ寝てンのか!? それともアレか!? 香月とよろしく――」
「騒々しい、なんだ厄介な情報とは」
 バタンと扉を開けて不機嫌に出迎えた俊熙に、子豪は何故か驚いた顔をした。
「何だよ、マジでなんもやってねェのか?」
 子豪は敷布団の横にただ座り込んでいた香月の姿も確認する。
「本当にお前、不能――」
「処されたいのか」
 香月からはその顔は見えないが、めちゃくちゃ怒っている声音だ。
「…へいへいわあったよ、ちゃんと話すッての」
 部屋に入ってくる子豪と洋と呼ばれた侍従を見ながら、香月は未だに激しく打つ鼓動と赤い頬を隠すのに必死だった。







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