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真実の愛は
しおりを挟む泡が弾けた。
無数の気泡に包まれていたエルナは、シュワシュワと耳元で鳴る音を聞きながらそっと目を開ける。
「ニナ……」
目を開けてから、オトのその声の悲痛さの意味を知る。
そこには何も無かった。
ただ、紺碧があるだけだった。
「ニナ、さん…?」
そこにはたったさっきまで、ニナが居たはずである。
「え、どうして…?」
訳もわからずエルナは呟くが、答えを求めた後ろの人物からは何も返ってこない。エルナも、呆然と海の深い碧翠を見つめるだけだ。
どれほどそうしていたか、いや恐らく数分も経っていないだろうが、しばらくの沈黙を破ったのはオトだった。
「あいつは…妹は、もしかすると代償を払ったのかもしれません」
腕を解き、オトが小さな声で呟く。
「代償…?」
そう言えば先程、ニナは『声を代償にした』と言っていた気がするが、それとはまた別なのだろうか。
「人間になるなんてそんな大層な願い、あの魔女が声だけで叶えるはずがない」
くるりと、オトと向かい合う形に身体を反転させられたエルナは、今にも泣き出しそうな彼の顔を見て胸が軋んだ。
「俺は、今から魔女の所へ行きます。このままニナを消す訳にはいかない」
「…え、私も行くわ…!」
「いや、エルナは地上に戻って」
オトの空色の瞳が今まで以上の真剣味を帯びる。
自分の不安げな表情がそこに映っていて、エルナは余計に不安になる。
「どうして…」
「……貴女が生きるのは、地上(あちら)だ」
上を指さして、そう、オトは言った。
「これ以上海(ここ)に居ると、もう戻れなくなります、そうなる前に早く」
「っ、だってさっき……!」
エルナは思わずオトの手を両手で握った。
帰すわけにはいかない、と。
あの王子の元に帰すわけにはいかないと、オトはさっきはっきりと、そう言ったのに。
エルナは先程ニナと話して気づいた気持ちを、もう一度胸に呼び起こす。
――ただ傍に居られるなら――
――朝が来なくても、ずっと眠り続けたままでも、寝たきりで人間としての生活を捨てても、構わない――
「……いいえ、私も行くわ。オト、連れて行って」
オトは、エルナのその強い意志を持った言葉に、目を見開く。
「……本当に、良いんですか。これ以上踏み込んだら、もう俺は本当に、貴女を離すことなど出来なくなりますよ」
「……なんでそんなこと、聞くのよ……」
エルナは全てを覚悟した顔で、微笑んでみせた。
「もう私が、二度とオトを離さないって、決めたのよ」
瞬間、オトの顔がくしゃりと歪んだような気がしたけれど、強く抱き締められてそれは残像のようにしか見えなかった。
「……ニナを、取り戻します」
そう、肩の上で強く言ったオトに、エルナは無言ではっきりと首肯した。
「ドローテア、何処だ!?」
手を繋がれ連れて行かれたのは、先程いたところよりももっともっと深い、海の底だった。
淡く光を放つ珊瑚や貝があるおかげで真っ暗ではないが、それでも目を凝らさなければ数メートル先は見えない、闇。
「ドローテア、居るんだろう、返事をしてくれ!」
先程から何度もオトが呼ぶその名は、魔女の名前であろう。エルナは無言で、辺りを見渡しながらオトの力に引っ張られるだけだ。
「ドローテア!」
一際大きい声でオトが叫ぶと、どこからともなく、声とも、音とも、地響きとも言えぬ言葉が聞こえてきた。
「……やはり来たか……」
しわがれたその声の主がドローテアなのだろうが、その姿はどこにも見当たらない。
しかしオトはそれでも良いと、魔女へ叫び続ける。
「ドローテア、ニナを返してくれ!」
「……返す?何のことだい」
「ニナが泡になった! 何かの代償だったんだろう!? 何を賭けたんだ、あいつは!」
姿は見えないが、魔女のその低くしわがれたよく響く声は、エルナを充分に怖がらせた。ぞわりと背筋を悪寒が駆け抜ける。
「…賭けたもの?……そんなの、お前が一番わかっているだろうに、王子よ……」
「……何だって?」
「私が一番見たいと言ったもの、王子、お前も賭けただろう」
「……そうか、『それ』か…!」
魔女の台詞に、オトは得心したようだった。
そしてそのオトの言葉と同時に、ぶわりと海が蠢いて、闇の向こうから大きな影が現れた。
頭はまるで蛇のように黒い髪が揺蕩い、大きな体躯に黒いドレスを纏った、つまらなそうに青い唇を結んだ女だった。
恐らくこれが、魔女ドローテアであろう。
「全く、本当につまらない兄妹だよお前たちは」
「ドローテア」
魔女は黒い扇子で自身を扇ぐ。
その威圧感のある姿にエルナは声も出せなかったが、オトは怯むことなく言葉を続けた。
「だったらドローテア、お前の勘違いだ。代償が『それ』なら、ニナが消える謂れは無い」
「……」
「ニナは、『それ』を手にしていた!ニナが認めなかっただけで、王子の心は……」
エルナは『それ』、つまり魔女の見たかったものであり、ニナとそしてどうやらオトも代償としたものが、一体何なのか分からないまま話を聞いていた。
「アーベル王子の心は、ニナのもの、だっただろう…?」
オトは何を思ったか、そう、エルナを振り返って問うてきた。
何故そんなにも複雑そうな顔をするのか分からないが、話を振られたエルナは思い切り首を縦に振って答える。
「え、ええ、間違いないわ!」
ドローテアにそう言うと、彼女はまたつまらなそうに溜息をついた。同時にその身体から泡がフワリと浮き出る。
「……そんなに言われなくとも知っているよ」
そして魔女は、どこからともなく大きな真珠の玉を取り出してこちらに放り投げてきた。
ふわりとオトがそれを両手で受け取る。オトの掌から溢れるくらいの大きな真珠は、太陽の光もないこの深海でギラリと光ると、何かをその表面に浮かび上がらせた。
「え、何…?」
エルナが覗き込んで良く目を凝らすと、それは海から浜辺を覗いているような光景に見えた。
「……」
オトもよく分からないのか、無言でその真珠を見つめている。
じわりじわりとその浜辺に近づいていくビジョンに、人影が見えた。
近づけば近づくほど、それが見知った姿だと解る。
「アーベルさま!」
「ニナ!」
それは、浜辺でしゃがみ込んだまま、きつく抱き締め合うアーベルとニナだった。
鮮明でないためよくわからないが、どうやら二人は濡れそぼっている。アーベルの濡れたシャツやニナの濡れた白いドレスに、浜の砂がこびり付いていた。
「……なん、で……」
オトが震える声で、そう漏らす。
それに答えるようにドローテアがハァと一際大きな溜息をついた。
「だからつまらないんだよ、王子も姫も」
真珠に映る二人は、微かに動いているのでどうやら写真なんかではなさそうだ。
ニナの顔が辛うじて見えたが、たぶん泣いている。
「……なんで」
「あの娘は一度泡になった。けれど、海に飛び込んでいた人間の王子が、その泡を捕まえたんだよ」
ドローテアはまたもや溜息をつくと、くいと指を動かして真珠をオトから取り上げた。
「本当に見せつけてくれるとはね、『真実の愛』をさ」
真珠はドローテアの手に辿り着くと、気泡となってどこかへ消える。
その泡が海上に昇っていくのを、エルナはただ辿って見上げるしかできない。
「王子。あの娘は、間に合ったんだよ」
ドローテアが、そう、言う。
暫くして、オトが膝から崩れ落ちたので、手を繋いだままだったエルナもつられてしゃがみ込む形になった。
「……そうか………よかった…………」
斜め後ろから見るオトは、たぶん泣いている。妹が生きていると知って、安堵したのだろう。
その姿を見てエルナはようやく事の次第を把握し、そして、涙を流した。
ニナは、生きている。
アーベルの、腕の中で。
「ニナさん…よかった………」
その一言しか、言える言葉がない。
先程の話からすると、ドローテアは、『真実の愛』をニナに課した。
そしてそれを、ニナとアーベルはその身で成してみせたのだ。
「……次はお前の番だよ、王子」
エルナとオトが安堵にはらはら泣いていると、ドローテアはさっさとしろとばかりにオトに話しかけてくる。
「見せな、『それ』をさ」
指をさされてエルナは小さく「え?」と呟く。斜め前を見ると、少し目元を赤くしたオトがエルナを振り返っていた。
え、何。
そう思ったの束の間、オトはエルナに向かい合うと、視線を合わせてきた。
「…エルナ」
そして正面からきつく抱きしめられる。
エルナはそうされて迷わず、オトの背中に自分の腕を回した。
鼓動が、聞こえる。
エルナのものか、オトのものか。はたまた両者のものか。
「…覚悟は、ありますか」
耳元で、硬質なオトの声が問う。
「覚悟?」
「人間を、やめる覚悟です」
エルナは、ぎゅ、と、オトの背中に回した腕に力を込めた。
――オトと生きたいと願った時から、たとえ何があっても構わないと、そう決めてしまったのだ。それが家を、国を、捨てることであっても。
――そして人間を捨てることであっても。
「オト、私……あなたの傍に居たいわ」
「……」
「夢でしか会えないなら、私に朝なんて来なくてもいい。人間として生きていけなくてもいい」
オトの腕にも更に力が入った。
「あなたと生きていきたいの」
ゆっくりとその腕がほどかれて、視線と視線がぶつかった。
澄んだ空の色が愛しくて、止めどなく涙が溢れ出てくる。
「愛してるわ、オト」
きっぱりそう告げると、真剣だったオトの表情が崩れる。
それは今までに見たこともない、――あの夢で見た笑顔とも違う――幸せそうな、笑顔だった。
「俺もです、エルナ」
オトはエルナの額に自分のそれをくっつける。
「これ以上ないくらいに、愛しています」
薄められた空色の瞳が近くて、エルナの鼓動はますます高まった。
この笑顔を、ずっと傍で、見ていたい。
「ちゃんと、触れたい…いいですね?」
至近距離で開かれた瞳に、思わず赤くなったエルナが映った。恐々エルナが頷くと、優しく、壊れ物でも扱うかのような口づけが降ってくる。
微かにオトの唇が震えていることに少しして気づき、更に涙が止まらなくなった。
――そう、こんな風に気持ちを繋げたかったのだ。素直な気持ちでオトに触れられて、エルナの胸に幸福感が広がる。
ずっと笑顔にしていきたいと、そう思った。
そうしてしばらくふたりで抱き合っていると、ドローテアの声が周りの海を蠢かせた。
「約束だからな、王子……」
ハッとしてドローテアが居た場所を見たが、そこには誰も居ない。
そして唐突に、竜巻のような海水の渦が押し寄せてくる。
「、きゃ」
叫ぶ間もなく渦と泡に包まれるが、しかしエルナはしっかりとオトに抱きしめられ、そしてエルナもオトにしがみつく。
海水の勢いが強く目も開けることは出来なくて、上か下かも分からないまま呑まれていく。
――けれど、何も怖くはなかった。
何があっても、離しはしない。
そんな風に言っているようなオトの強い腕に、エルナは全ての信頼を預けて力を抜いた。
勢いよく渦を巻く海流はやがてふたりを包み込み、泡沫さえも打ち消して、更なる海底へと深く深く、沈んでいった。
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