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刃の行く末
しおりを挟むオトに会いたい気持ちと、恥ずかしさで顔を合わせたくない気持ちの狭間で、勇気が出ず三日ほど訪問を控えていたエルナだったが、式の準備もあるので覚悟を決めてアーベル宅を訪れた。
前は邸宅に行く、行かないの判断基準は『アーベルとニナの様子を見ても大丈夫な気分かどうか』が主だったのに、今では『訪問したあとの夜のこと』が決め手になっていたりする。
この変化にエルナは戸惑うと同時に、なんだか少し満たされた気持ちになった。
いつもの様に裏庭へ向かうと、そこにはニナの姿もアーベルの姿も無かった。この時間は大抵日向ぼっこをしているはずなのに。
エルナは空を見上げて、雲が厚いことに気づく。
なるほど天気が悪いのか。
厚めの雲は低くたれこめていて、しばらくすると雨を降らせそうな雰囲気だ。
思えば、いつもこの邸宅に訪問する時は天気が良かったような気がする。明るい陽だまりの中でニナの撒く水がキラキラ輝いていて、それがまるで幸せの象徴のようにエルナには見えていた。
花壇の向こうに、エルナの身長と同じくらいの高さで石造りの塀が誂えてある。なんとはなしに、エルナはその石壁をじっと見つめた。
塀が高くて、ここからでは曇りの日の北海の表情は見えない。
きっとこの海の向こうに居るのであろうオトに想いを馳せてみると、エルナは無性に海が見たくなった。
…なら、やっぱりあのバルコニーかしら。
エルナはふと上を見上げる。裏庭の真上にあるバルコニーには人影は無い。ニナが部屋に居れば、中に入れてもらおう。
そう思い立ち、踵を返してエルナは階段へと向かった。
二度ノックをしてみたが、その部屋にニナが居る気配は無かった。
前に遅くまで夜更かしに付き合わせてしまった時、ニナがこの邸宅内でひとりで居れるのは、自室と裏庭だけだと教えてくれた。
もちろんアーベルは何処に行っても構わないとしているのだろうが、エルナにはニナの気持ちがよくわかった。
エルナがこの邸宅に通い始めた頃、この家の使用人たちは皆ニナのことを噂していた。良いか悪いかで言えば、まぁ悪い方の。
それもそうだ。例え王位継承権が下位であっても、アーベルは誇り高きこの国の王子だ。そんな王子が、得体の知れない何処かから拾ってきた少女に執心している、なんて。
この国の未来を心配…まではいかないが、出来れば主人には真っ当な家の真っ当な娘と真っ当な結婚をして欲しいと願うのは、仕える者として当然の気持ちであろう。
そんな中で、ニナは毎日過ごしているのだ。
エルナが訪問している時はそんなに感じはしないが、おそらくニナが邸宅を歩き回る度に、色んな想いを含んだ視線が彼女を刺しているのだろう。
その時のニナの気持ちを…想像すればする程、エルナには焦燥感が走った。
アーベルさま、やはりこのままではきっと幸せになれないわ。
心の中でアーベルに向けて呟く。
ニナが何処に居るのか気がかりだが、部屋にも裏庭にも居ないならば、きっとアーベルと一緒に居るのだろう。
ならばアーベルを探せば話が早い。
エルナは階段を降りると執事を探し、アーベルが執務室に居ることを聞き出した。
ただ、ニナの姿は先程から見かけていないという。もしかすると部屋で深く眠っていて、ノックに気づかなかったのかもしれない。
ならばまずはアーベルと、これからどうするのか、どうすべきなのかを相談するだけである。
エルナはゆっくりと、階段をまた昇りはじめた。
階段を四階分昇るのはとてもつらい。
エルナは上がる息をなだめながら、ゆっくりと廊下を歩いていた。
四階は他の階と違い重厚な造りになっていて、赤い絨毯が敷き詰められている。貴重そうな調度品や有名な画家の絵が廊下を彩っていて、ここに来るのは二回目くらいだがやはり慣れない。
誰も見ていないのを良いことに、エルナは少し背を丸めながら奥へと進む。息が整ってきた所でアーベルの執務室の前に到着したので、スッと姿勢を正した。
「アーベルさま、エルナです」
二回ノックをして名乗るが、返事がない。
「アーベルさま?」
もう一度ノックするが、やはりアーベルの声は聞こえない。
「お休み中かしら」
もしかしたら少し仮眠をとっているのかもしれない。もしそうならば邪魔する訳にはいかないので出直そう、と踵を返したその時、執務室のドアがバタンと勢い良く開いた。
――中から飛び出してきたのは、顔面を蒼白にしたニナだった。
「ニナさん!?」
驚いたエルナは思わず大きな声を出す。
エルナと視線がかち合った彼女の目からは、しばらく泣き続けていたのか涙が溢れていた。目も赤く、瞼も腫れているように見える。
瞬時にただ事ではないと気付き、エルナは焦った。
声を掛けようとした瞬間、ニナは唐突に走り出す。…とはいってもまた痛むのか、その足を少し引きずりながらなので、横を通り過ぎるタイミングで容易にエルナはニナを引き止めることに成功した。
「待ってニナさん!どうしたの!?」
ニナの肩を掴んで動きを止める。
顔を覗き込むが、ニナは大粒の涙をとめどなく流しながら、首を横に激しく振るだけで何も答えない。
「何かあったの?足が痛いの?」
エルナの問いかけに、変わらず首を振る。胸の前で固く握りしめている両手は、強く力が入っているようで真っ白だ。
「アーベルさまと何かあったの?」
そう聞くと、ニナの動きが一瞬止まった。
そして見上げてきた空色の瞳には、怯えと、悲しみと、――後悔。
その刹那、ニナはエルナの手を振り切って、足を引きずりながら廊下を小走りで去っていく。
「待って、」
追いすがろうとするが、ちらりと振り返った表情には明らかに拒絶の色が含まれていて、エルナはそれ以上引き止めることが出来なかった。
去っていくニナに後ろ髪を引かれつつも、エルナは執務室を振り返る。
「失礼します」
ひとりでに閉まっていたドアをノックし、躊躇いもなく開け放った。
足を踏み入れると、正面の執務机には誰もいない。
部屋を見渡すと、執務室の端に置かれた仮眠用であろうソファの上で、呆然と身体を起こしたアーベルの姿があることに気づく。
「アーベルさま!」
アーベルはエルナに気づいたのか気づいていないのか、その呼びかけに答えずひたすら虚空を見つめている。
「何かあったのですか? 今ニナさんが飛び出して…」
大股でアーベルの方へ近寄りながらそう言った時、足が何かを蹴り飛ばして思わず言葉を切る。
足元を見れば、目を疑うものがそこにはあった。
「な…ナイフ…!?」
そこに落ちていたのは、柄に不思議な紋様が彫られた、小さなナイフだった。
「なんで…ナイフが…」
落とした視線をナイフから離せないでいると、ソファのアーベルが、ぼんやりと言葉を発した。
「夢を、見たんだ…」
「…え…」
「僕が、船で王宮へ向かった時の、…あの時の夢だった」
アーベルはぽつぽつと、思い出すように話す。それはエルナが初めて聞く話だった。
鉄道は嫌いだった。だから船を使った。天候は段々悪くなって、シェラン島につく頃には嵐になっていた。
強い風雨で周りも見えず、乗組員や護衛たちが大声で何かを言い合っていた。
少しだけ様子を見ようと甲板への扉を開けた時、一際大きな波が、眼前に壁のようにそそり立ってきて―――気付けば、王宮のアーベルの自室だった。
アーベルは波に煽られ、船から放り出されたらしかった。しかし神のお導きか、マリア様のご慈悲か、運良く浜に打ち上げられ、浜を歩いていた女性に助けられたという。
安堵の表情でそう教えてくれる王宮の者たちの話を聞きながら、しかしその時アーベルはその間の記憶が無いことに気づいた。
起きたら自室のベッドだったのだ。
それから今まで、その記憶がアーベルに戻ることは無かったのだが。
「今、夢で、確かにその時の光景が見えたんだ…」
アーベルを海から浜まで助けてくれたのは――。
アーベルはそっとエルナを見上げ、
「君では、なかったんだね」
そう、呟いた。
「…え?」
突然の問いかけに、エルナは驚く。
「…何がですか…?」
初めて聞いたアーベルの波乱万丈エピソードに驚く間もなく意味のわからない問いかけをされて、エルナは状況が掴めない。
「あの時助けてくれたのは、君ではなかったんだね」
「は、はい? あの…意味が良く、判らないのですが…」
何のことだ。
確かにエルナの実家はコペンハーゲンであるし、婚約が決まってこのエスビャウの別荘に来るまではそこに住んでいた。もちろん浜辺だって散歩したことくらいはある。
けれど、浜で男性が打ち上げられているのなんて見たことはないし、ましてや助けたこともない。
「どうして私が王子を助けただなんて…」
「…いや…ブリクセン男爵が…」
「お父様?」
寝耳に水の話だ、そこにまさかの父親の名である。そしてエルナは、最悪の筋書きに思い至ってしまったのだ。
…そういえば、この形だけの結婚の白羽の矢がなぜ自分に当たってしまったのか、明確な理由を父親から聞いたことはなかった。
別荘がエスビャウにあり、そこまで大きい力のない貴族で年頃のちょうどいい娘が自分くらいだったのだろう、というような軽い考えだったが、確かにそんな条件なら他にも対象は存在しそうなものだ。
何故、男爵位程度のブリクセン家から、王家に嫁ぐことになったのか。
――そう、おそらくエルナの父親が、虚言したのだ。
第三王子アーベルを死の淵から救ったのは我が娘のエルナだ、と。
「そんな…! だってアーベルさま、今まで一言もそんな、」
「ブリクセン男爵が、そんなつもりで助けたわけではないのにと心苦しくなるだろうから、娘にはその話は決してしないで欲しい、と」
「……なんて、こと」
エルナは、あの頃全てを諦めていた。
何故自分が選ばれたのか、不思議には思ったが正直それもどうでもよかった。ただ、その運命を受け入れるだけだった。
しかしなんということだ。
全て父親の策略だったのだ。
家的に幸運だなとは思っていたが、まさか父親がこんな大それたことを平気でするだなんて。
「…エルナさん」
アーベルが言う。
「僕を助けてくれたのは、薄い空色の瞳の少女だった」
「…!それって…」
アーベルの顔は蒼白だ。
薄い空色の瞳の少女。この国で王族以外に青い瞳の持ち主なんて、そうそういない。
――そういえば、先程去って行ったニナは何処へ行ったのか。
「そのナイフは、ニナが持っていたんだ」
「!」
―――探さなければ。
このままでは良くないことになる気がした。脳内の警鐘が鳴り止まない。
エルナは瞬時に勘で裏庭に向かった。アーベルを置いて執務室を飛び出したが、おそらく彼もこれからニナを探すだろう。
廊下を走り、階段を駆け降りながらエルナは思う。
――私は、二人に幸せになって欲しかった。けれど、私のせいで、二人は幸せを掴むことを躊躇していたのだ。
アーベルとニナ。まさしく、運命の二人だと思った。
必ず二人は、二人で幸せにならないといけない。
裏庭に到着すると、今まさに、ニナが壁を乗り越えようとしていたところだった。足元には何処から持ってきたのか、木製の踏み台が置いてある。高い木々の水やりをする時に使っていた物だろうか。
「ニナさん…っ!!」
大きな声に驚き振り向いたニナは、エルナの姿を見ると慌てて壁の向こうに――身体を投げ出した。
―――待ってその下は…っ!
懸命に走って腕を伸ばすが間に合わない。
走った勢いのまま、エルナもその踏み台を踏みしめた。
壁の向こうの眼下には、初めて目にする絶壁と、遥か下方に広がる北海。空の暗さを吸い取って、水面も暗く蠢いている。
エルナの目が、落ちていくニナの白いワンピースを捉えた。…と同時に、身体が勝手に壁を乗り越える。
身体が風に巻き上げられるような感覚がして、刹那、今度はその風がエルナに凄まじい圧力をかけてくる。
エルナの身体はそのまま下へ下へ、落ちていく。
……何もかも、諦めたつもりだった。
全て、これが運命だと、受け入れる覚悟があるつもりだった。
……だけど。
エルナの脳裏に浮かんだのは、嬉しそうに笑う、オトの笑顔。思い出すだけで、胸が締めつけられる。
そうか、私、こんなにも好きになってしまったのね。
エルナは、出来れば最期にもう一度会いたかったと、小さく小さく、願った。
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