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望まぬ黎明
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翌日の昼過ぎ、ニナとアーベルの様子が気になったエルナは、続けざまにアーベル宅を訪れていた。
これまで連日赴いたことはなく、一泊した翌日に訪問が続いたことで、ブリクセン家はざわめいていた。もちろん歓喜で、だ。すぐに父親に使いが出されたあたり、昼過ぎにはコペンハーゲンにある本邸でも、宴並みの騒ぎになるだろうことは想像に難くない。
といっても実際には何もないし、何なら気持ち的には未来の旦那の浮気を完全推奨する覚悟が決まり、更には夢の中の、存在もあやふやな男に心を奪われかけているなんて状況である。
自分でまとめておいて何てひどい夫婦(まだ婚約中)だと、エルナは自嘲した。
さてこの事実を一体いつまで誤魔化せるだろうか。跡継ぎだなんだの問題が絶対に後々出てくる。あー面倒だ。アーベルはそのあたり、どうするつもりなのだろうか。きちんと話し合わねばならないなとエルナは決意する。
アーベル邸の玄関をくぐり、ニナはどこだろうかと周囲を見渡す。
どうやら二つ歳下のニナのことを、エルナは妹のように感じてきたらしい。らしい、という感想なのは、自身に下の兄弟がいないから想像でしかないというのが理由なのであるが、しかしエルナの兄はおそらくこんな甲斐甲斐しい感情をエルナに抱いてはいないだろう。ブリクセン家は家族であっても一定の距離を保って生活をするのが常である。
小さなころから、父は厳しく、いかにブリクセン家を繁栄させるかを一番重要視していたし、兄は淡泊で、妹が後ろですっころんでいようが、自力で立ち上がるまでじっと待っているようなタイプだった。エルナが生まれてすぐ亡くなった母は優しかったらしいと、教えてくれたのは使用人の誰かだったか。
「あ、ニナさん」
裏庭を覗くと、ベンチで日光浴をするニナの後ろ姿が見えた。まだこちらには気づいていないのか、背を向けたままだ。
近づいていくと、ベンチの半分、植木で隠れていた方に、アーベルも座っていることに気付く。
あ、お邪魔だったかしら。
そう思い歩みを止めたが、最後の一歩で草を踏みしめた音で、アーベルがこちらに気付いてしまった。
「おやエルナ嬢」
「…失礼しましたアーベルさま。…ごきげんよう」
邪魔するつもりはなかったのだと言外に挨拶するが、当の本人は気にする風でもない。
「いらっしゃい、君も日光浴をするといい」
いつもの柔らかい笑顔の隣で、ニナも身体ごと振り返りながら笑顔で会釈をしてくる。
「ニナさんもごきげんよう」
可愛い妹のようによしよししたくなる気持ちを抑え、エルナは淑女然とワンピースドレスを軽く持ち上げ挨拶をした。
それを見て何を思ったか、ニナははっとしてベンチから飛び降り、エルナと同じようにワンピースの裾を持ち上げ挨拶の真似をする。その姿にとてつもなくいとおしさがこみ上げ、ああこんな生活も悪くないなと改めてエルナは思ったのだった。
しばらく三人で日光浴をしながら取り留めもない話をしていたが、ニナがうとうとし始めたことで、一旦解散となる。ニナは自室(となっている客間)で休むことにし、アーベルとエルナは今後について話し合いをすることにした。
一階の応接間に通され、向かい合わせのソファに座り込む。メイドが紅茶を淹れ終えて部屋を出ていくのを見送ると、アーベルはふぅと一息吐き出して背もたれに身体を預けた。
「一応ニナとは、体調については話をしたよ」
アーベルは天井を見上げながらそう言う。エルナはそれを聞いて、少しだけほっとした。
「そうですか、良かった…。原因は、何なんでしょう」
「それが判らないんだ。原因については何を聞いても曖昧に笑うだけで」
両手で顔を覆っているせいで、アーベルの声はくぐもっている。ただそれを差し引いても、悲痛な声音であることに変わりはない。
「…こういう時、人間って無力だなと痛感するよ。言葉がないと、わからない」
言葉がなくても伝わる想いもあるが、言葉にしないと伝わらないこともある。
確かにアーベルの言う通り、言葉を持ってしまったからこそ、見えなくなるものも多い。
昨日の夢をエルナは反芻した。
あの時、うっかり口にした言葉が誤解を呼び、そのまま言葉が言葉を押し込んで見事違うところへ着地してしまった。あれこそ、言葉があるから心がみえなくなった例だ。
と、そこまで思い至って、エルナははた、と気づく。
待て。マテ。
そのあとなんだかとてつもなくすごいことがあったような…。
自分の気持ちの変化に気付いたことでいっぱいいっぱいで忘れていたが、あの涙の中で、たしか…
「エルナ嬢?」
「っきゃあ!」
気づくと目と鼻の先に大きな掌がどんと構えてあり、思わずエルナははしたない声を上げてしまった。
「す、すみませんびっくりして…!」
「いや、僕もすまない、驚かせてしまって」
アーベルは苦笑しながらその手を自身の膝上に戻す。どうやらぼーっとしていたせいでアーベルに心配をかけたようだ。
「大丈夫かい? 何か思い悩んでいるようだが…」
気遣いを向けられるが、今は口づけされたことを思い出したとか、あれが初めてだったのにとか、柔らかかったなとか…ええい、そんなことを考えている場合ではないのだ。
「いいえアーベルさま、私の悩みなんて些末なことです。ニナさんの具合や今後の方針の方がものすごく大事です、ですからその話をしましょう、ね!」
エルナは無理やり思考をそちらへ押しやった。アーベルは怪訝そうな顔をしながらも、とりあえず頷いて話を進めてくれるようだ。
「まあ、ニナの具合については、しばらく様子を見ながら医者を当たってみるとしよう。ひとまず今日は式についての話かな」
アーベルはいくつかの書類を並べながら、参列者について話をする。さすが王家の結婚式だけあって人数も多いし格式も高い。急に王家への輿入れが現実味を帯びてきて、エルナは少し尻込みした。
「ブリクセン家の親族一覧はこれで間違いはないかな」
書類に目を通すと、亡くなった母方の親族、父方の親族が書き連ねてあり、会った記憶もほぼないような親類まで名前が載っていた。
「あの…ここまでの遠縁も、呼ばないといけないんですね…」
正直、家族内の距離ですら遠いのに、親族との関わりなんて以ての外であったのだ。仕方ないとは判っているが、どうせこれを機に当然の顔をして関わりを深めてくるであろう。それはそれで、とても面倒だなとも感じる。
「ああ、いや、別に呼ばなくても構わないよ。規模をもっと小さめに検討しようか」
思ったよりもあっさり方向転換され、エルナは驚く。
そのままアーベルはエルナの意見を聞きながら、てきぱきと必要項目の確認を終えていく。第三王子といえども、幼少期から帝王学を学び励んできたのだろう様子が伺え、エルナはアーベルへの見解を見直した。訳あり王子だと思って申し訳なかったな、と心の中だけで謝罪したのだった。
「さてと、このへんで大丈夫かな」
式についても一息ついたところで、アーベルはメイドを呼び紅茶を淹れなおすよう指示する。ついでにニナの様子も見に行かせたようだった。
時計を見るとティータイムに差し掛かった頃だ。
「ニナさん起きてきたら、一緒にアフタヌーンティーでもしたいですね」
書類をまとめるアーベルに向かってそう提案すると、
「そうだな、思ったより早くまとまったことだし、それもいいな」
思わずOKが出たのでエルナは笑顔になる。
「そういえば聞きそびれていたんですが、アーベルさまとニナさんは何処でお知り合いに?」
メイドが戻ってくるまでの繋ぎにと話題を振ると、アーベルが一瞬固まった。
おや、聞いてはいけないことだったろうか。
「申し訳ございません、言いづらいことでしたら…」
「いや、そんなことはない」
アーベルはカップに残った紅茶を一気に飲み干すと、二人の出会いを語ってくれた。
どうやら以前メイドの噂話で仕入れていた情報は半分正解だったようだ。
アーベルがコペンハーゲンの浜辺を散歩していたところ、ニナが砂浜の上に倒れていたのだとか。体温も低くこのままではいけないと王宮まで連れ帰り、砂まみれの身体を侍女たちに任せたり、医者に見せたりなどしたそうだ。意識を取り戻したニナはアーベルの顔を見るなり泣き始めてしまい、アーベルが理由を聞いても首を横に振るばかりで何も答えない。そしてしばらくして、アーベルはこの少女が答えないのではなく答えられないのだと気づいたという。
身元もわからず帰るところもないという声なき少女を、アーベルはどうしても放ってはおけなかった。しかしそんな得体の知れない少女に執心だと何処かから噂が広がったようで、陛下や兄殿下たちに迷惑をかけないようにと、領地の中でも一番王都から遠いこのエスビャウの邸宅に連れてきたのだという。
まるで御伽噺の一説のような出来事で、エルナはただ驚き相槌を打つばかりだった。
「あの、私自身この言葉を信じてなかったのですが、なんというか『運命』ってこういうものなのかな、って…」
子供じみた感想を述べると、アーベルは照れくさそうに苦笑した。
「まあ、はじめはただ王子として、変な責任感からの行動であった気もするが。ただ、色々思う所もあってね。気づいたら離せなくなってしまっていた」
なんだかその最後の一言に、大きな愛が詰まっているような気がして、エルナはますます憧れの気持ちを強くした。
運命の出会いなんて信じられなかったけれど、ここには存在していたようだ。エルナは気持ちが軽くなった気がして、笑みを深める。どうにか幸せになってほしいと、心の底から願ったのだった。
あれから、起き出してきたニナとアフタヌーンティーを楽しみ、エルナは日が暮れきる前に家路についた。ノーラは馬車の中で終始うれしそうであったし、夕食にはいつもより三割増しに豪華なものが食卓を彩っていた。なんとなく裏切っているようで居心地が悪く、いつもより早めに自室へ引き上げてしまった。
そして寝る支度を整えてから、ベッドで一呼吸する。
すっかりニナとアーベルの馴れ初めで上書きされてしまっていたが、今から眠るということはそれすなわちオトに逢いに行くということなのである。
エルナのはじめての口づけを奪った、オトに。
思わず恥ずかしくなってシーツに潜り込む。
口づけ云々の前に、まずエルナはオトを傷つけてしまったことや誤解を招いたことを謝らなくてはならないし、なぜオトがそんなにも「アーベルと似ている」ことを嫌がるのかも聞かなければならない。そして、エルナの今の気持ちも、きちんと確かめねばならない。
やることはたくさんだが、その根底にあるのは、オトに逢いたい、そして笑顔にさせたい、という強い気持ちだった。
今まで感じたことのない気持ちで胸があたたかい気がする。
この気持ちをどうにか伝えたくて、エルナはぎゅっと目を瞑った。シーツのほどよい手触りとぬくもりに、意識が闇に溶け出していくのが判った。
*****
目を開けるともう森の真ん中だった。
目の前には前回昼間の森で見た、白いベンチが佇んでいる。そこには誰もいない。
エルナは少し不安になるが、意を決してそのベンチに座る。
と、誰もいなかったはずの眼前に、突如オトが表れてエルナは息をのんだ。
「―っ!」
その表情をどう捉えたのか、オトは浮かない表情のまま、エルナの左側に腰を下ろす。
「…こんばんは、オト」
「…こんばんは、エルナ」
いつからお互い呼び捨てになったんだろうか? ふと思ったが、これが一番しっくりくる気がしてそのままエルナは言葉を続けた。
「オト、まず話を聞いてほしいの」
少し身体をオトの方へ向けると、左手でオトの右腕の袖の端を少し掴む。現実では許可もなく異性の服に触れるだなんてはしたない行いだが、今はそれよりも、正確にエルナの気持ちを伝える方が大切だった。
「…」
しかし、いざ話し出そうとすると、頭が真っ白で何も言葉が出てこない。
オトも空白を訝しんだのか、ようやくこちらと目を合わせる。
深い空色の瞳に、エルナが映る。
『言葉を持ってしまったからこそ、見えなくなるものも多い』
昼間考えていた言葉が脳裏に浮かんだ。
言葉でないと伝わらない気がして、言葉を尽くそうと思ってここにきた。
けれど土壇場で、人は正確に言葉を紡ぐのが困難だったりもするのだ。
「…」
ただただ二人、見つめ合っている。きっとオトはエルナの言葉を待っている。
どうしよう!
ちっとも気の利いた言葉など浮かばなくなったポンコツな脳みそに、しかし突然、いつかのやりとりが思い起こされた。
―――ワルツの態勢のまま、頬を差し出してきた―――
考える間もなく、エルナの身体は動き出していた。
袖をつかんでいた手でオトの右肩を掴み、そのまま軽く引き下げる。なされるがまま態勢を崩したオトの右頬に、エルナは自身の唇をくっつけた。
触れた肌は、熱を感じる間もなくすぐに離される。
顔を真っ赤にしたエルナは少し身体を後ろに引きながら、小さな声で囁く。
「…お詫びは…これ、なんでしょう」
エルナがオトに張り手を食らわせた次の逢瀬で、オトが言っていたことだ。
オトは右に傾いたまま固まっていたが、それを思い出したのか勢いよくエルナの方を向いた。
そしてその勢いのまま、エルナをその両腕の中に閉じ込めた。
「ひゃ!」
「全くあなたは!本当にずるいひとだ!」
ぎゅうぎゅうと強く抱きしめられて、エルナはどうしていいかわからない。
「俺がどんな想いで今日…!」
しかしその声があまりにも必死で、エルナの思考は少し冷静になった。
私は、私の気持ちを伝えるために、今日ここに来たのだと。
「あの、あのね、オト…」
「…」
オトはエルナの声に耳を傾けているのか、抱きしめたままじっとしている。
「私…オトを笑顔にしたいんだけど…どうしたらいい…?」
ぴくりと、オトの腕が動いたような気がした。
「私オトを悲しませてばっかりで…。最近はね、オトとアーベルさまが似てるなって、思わなくなったのよ。昨日似てるって言ったのは、アーベルさまのおうちにいるニナさんって女の子の瞳の色が、似てるなって…、あ、でも、似てるのは空色ってだけで、オトの方が深くてきれいな…」
とにかく思いついたままに言葉を並べていると、突然オトの腕から解放される。
かち合った目は、言おうとしていた通り深くてきれいな空色だ。
でも、なぜだろうか、記憶の中のそれよりも、もっと濃くて、ゆらめいているような―――
「もう知りませんよ、エルナ」
「…え」
「覚悟しておけと、言いましたよね」
「…な」
んのこと、と尋ねようとして、続いたその音はオトの口の中に吸い込まれた。
「っ」
まるで噛みつかれたみたいに、唇で唇を覆われる。エルナは思わず目をぎゅっと閉じる。が、視界が暗くなると唇に与えられる刺激がより鮮明になってしまい、失敗したと瞬時に思う。
オトの唇はくっついては離れ、またくっついては、少し食むようにエルナの唇を挟んだりしてくる。わけがわからなくてとにかく必死に唇を結んでいたが、オトの吐息が唇に触れたとき、あ、私息できてないと気づき本能でぷは、と酸素を吸う。
するとその隙を見計らったかのように、今度は温かくて湿ったものが、エルナの唇の隙間に割って入ってきた。それに自分の舌をつつかれた瞬間、それがオトの舌だと悟って肩がびくりと動いた。
「…!…、ふ、あ、ま、」
待ってと言いたいのに意味のない音しか漏れない。
思わずオトの胸を押すが、なぜか力が入らなくてただ服を握りしめるしかできない。
そうこうしているうちに、オトの舌はエルナの上顎をなぞっていく。エルナは今まで感じたことのない感覚を全身に感じ、少し怖くなった。
オトの右手はいつの間にかエルナの頭を後ろからしっかり抱えていて、感覚から逃れたくて身じろぎするエルナを許してはくれない。
ただ、漏れる吐息を交わしながら、なされるがまま、だ。
数秒か、数分か、わからないがしばらくしてその攻撃は緩くなった。口内からオトは出ていき、その代わりに下唇をなめられ、もう一度食まれて、唇から柔らかい感触が去った。
エルナは瞼を開けたが、目が回っているのかよく見えない。ただ、まだとてつもなく近くにオトの顔があるのは判った。突然の口づけに文句を言ってやりたいが、エルナの口は酸素を取り入れるのに必死である。
「あれくらいのお詫びじゃ、俺は満足できないんで」
熱は離れたと思ったが、そう囁いたオトの吐息はまだ唇にかかってくるのでそんなに離れていないと判る。なんならまたいつ食べられてしまうかわからない。
「これで…」
言葉を区切ると、オトはもう一度、今度はゆっくりと時間をかけて、エルナの下唇を食んだ。
ほら、食べられた。
「とりあえずは、許しますよ」
ようやく回っていた目が正常になってきて、オトの目とかち合う。空色の瞳に映った自分が、見たこともないくらい真っ赤だということがありありと判ってしまった。
そんなエルナの顔を見て、オトは、今まで見たこともないような、嬉しそうな顔で、笑った。
「…夕陽みたいに真っ赤ですよ」
その笑顔を見て、エルナは、ああこれが、これが見たかったんだと、思った。
この笑顔を、ずっと傍で見ていたいと、そう願った。
しばらくクスクス笑うオトを見つめていると、はたと気づいたオトが空を見上げる。
「ああ、もう終わりですね」
その言葉で、逢瀬の時間が終わりなのだと知る。その声音は寂しそうで、エルナの胸がぎゅっと詰まった。
いやだと、夜のままでいてと、そう、強く祈った。
「…また、次の逢瀬で」
悲しそうに微笑うオトが最後にもうひとつキスを落として、エルナの視界は真っ白に染まっていった。
*****
「…」
目を開けると見慣れた天井だった。窓の向こうには黎明の兆しがあった。
いや、なに、いまの。
思い出すだけで顔に熱が集まるのがわかる。
こっちは初心者なんですけど…!
心の中で文句を投げながら、エルナはシーツを頭の上まで引き上げた。
朝が、嫌いになりそうだ。
オトの幸せそうな笑顔を思い出しながら、もう少しだけこの甘い泥濘に身をゆだねたいエルナだった。
これまで連日赴いたことはなく、一泊した翌日に訪問が続いたことで、ブリクセン家はざわめいていた。もちろん歓喜で、だ。すぐに父親に使いが出されたあたり、昼過ぎにはコペンハーゲンにある本邸でも、宴並みの騒ぎになるだろうことは想像に難くない。
といっても実際には何もないし、何なら気持ち的には未来の旦那の浮気を完全推奨する覚悟が決まり、更には夢の中の、存在もあやふやな男に心を奪われかけているなんて状況である。
自分でまとめておいて何てひどい夫婦(まだ婚約中)だと、エルナは自嘲した。
さてこの事実を一体いつまで誤魔化せるだろうか。跡継ぎだなんだの問題が絶対に後々出てくる。あー面倒だ。アーベルはそのあたり、どうするつもりなのだろうか。きちんと話し合わねばならないなとエルナは決意する。
アーベル邸の玄関をくぐり、ニナはどこだろうかと周囲を見渡す。
どうやら二つ歳下のニナのことを、エルナは妹のように感じてきたらしい。らしい、という感想なのは、自身に下の兄弟がいないから想像でしかないというのが理由なのであるが、しかしエルナの兄はおそらくこんな甲斐甲斐しい感情をエルナに抱いてはいないだろう。ブリクセン家は家族であっても一定の距離を保って生活をするのが常である。
小さなころから、父は厳しく、いかにブリクセン家を繁栄させるかを一番重要視していたし、兄は淡泊で、妹が後ろですっころんでいようが、自力で立ち上がるまでじっと待っているようなタイプだった。エルナが生まれてすぐ亡くなった母は優しかったらしいと、教えてくれたのは使用人の誰かだったか。
「あ、ニナさん」
裏庭を覗くと、ベンチで日光浴をするニナの後ろ姿が見えた。まだこちらには気づいていないのか、背を向けたままだ。
近づいていくと、ベンチの半分、植木で隠れていた方に、アーベルも座っていることに気付く。
あ、お邪魔だったかしら。
そう思い歩みを止めたが、最後の一歩で草を踏みしめた音で、アーベルがこちらに気付いてしまった。
「おやエルナ嬢」
「…失礼しましたアーベルさま。…ごきげんよう」
邪魔するつもりはなかったのだと言外に挨拶するが、当の本人は気にする風でもない。
「いらっしゃい、君も日光浴をするといい」
いつもの柔らかい笑顔の隣で、ニナも身体ごと振り返りながら笑顔で会釈をしてくる。
「ニナさんもごきげんよう」
可愛い妹のようによしよししたくなる気持ちを抑え、エルナは淑女然とワンピースドレスを軽く持ち上げ挨拶をした。
それを見て何を思ったか、ニナははっとしてベンチから飛び降り、エルナと同じようにワンピースの裾を持ち上げ挨拶の真似をする。その姿にとてつもなくいとおしさがこみ上げ、ああこんな生活も悪くないなと改めてエルナは思ったのだった。
しばらく三人で日光浴をしながら取り留めもない話をしていたが、ニナがうとうとし始めたことで、一旦解散となる。ニナは自室(となっている客間)で休むことにし、アーベルとエルナは今後について話し合いをすることにした。
一階の応接間に通され、向かい合わせのソファに座り込む。メイドが紅茶を淹れ終えて部屋を出ていくのを見送ると、アーベルはふぅと一息吐き出して背もたれに身体を預けた。
「一応ニナとは、体調については話をしたよ」
アーベルは天井を見上げながらそう言う。エルナはそれを聞いて、少しだけほっとした。
「そうですか、良かった…。原因は、何なんでしょう」
「それが判らないんだ。原因については何を聞いても曖昧に笑うだけで」
両手で顔を覆っているせいで、アーベルの声はくぐもっている。ただそれを差し引いても、悲痛な声音であることに変わりはない。
「…こういう時、人間って無力だなと痛感するよ。言葉がないと、わからない」
言葉がなくても伝わる想いもあるが、言葉にしないと伝わらないこともある。
確かにアーベルの言う通り、言葉を持ってしまったからこそ、見えなくなるものも多い。
昨日の夢をエルナは反芻した。
あの時、うっかり口にした言葉が誤解を呼び、そのまま言葉が言葉を押し込んで見事違うところへ着地してしまった。あれこそ、言葉があるから心がみえなくなった例だ。
と、そこまで思い至って、エルナははた、と気づく。
待て。マテ。
そのあとなんだかとてつもなくすごいことがあったような…。
自分の気持ちの変化に気付いたことでいっぱいいっぱいで忘れていたが、あの涙の中で、たしか…
「エルナ嬢?」
「っきゃあ!」
気づくと目と鼻の先に大きな掌がどんと構えてあり、思わずエルナははしたない声を上げてしまった。
「す、すみませんびっくりして…!」
「いや、僕もすまない、驚かせてしまって」
アーベルは苦笑しながらその手を自身の膝上に戻す。どうやらぼーっとしていたせいでアーベルに心配をかけたようだ。
「大丈夫かい? 何か思い悩んでいるようだが…」
気遣いを向けられるが、今は口づけされたことを思い出したとか、あれが初めてだったのにとか、柔らかかったなとか…ええい、そんなことを考えている場合ではないのだ。
「いいえアーベルさま、私の悩みなんて些末なことです。ニナさんの具合や今後の方針の方がものすごく大事です、ですからその話をしましょう、ね!」
エルナは無理やり思考をそちらへ押しやった。アーベルは怪訝そうな顔をしながらも、とりあえず頷いて話を進めてくれるようだ。
「まあ、ニナの具合については、しばらく様子を見ながら医者を当たってみるとしよう。ひとまず今日は式についての話かな」
アーベルはいくつかの書類を並べながら、参列者について話をする。さすが王家の結婚式だけあって人数も多いし格式も高い。急に王家への輿入れが現実味を帯びてきて、エルナは少し尻込みした。
「ブリクセン家の親族一覧はこれで間違いはないかな」
書類に目を通すと、亡くなった母方の親族、父方の親族が書き連ねてあり、会った記憶もほぼないような親類まで名前が載っていた。
「あの…ここまでの遠縁も、呼ばないといけないんですね…」
正直、家族内の距離ですら遠いのに、親族との関わりなんて以ての外であったのだ。仕方ないとは判っているが、どうせこれを機に当然の顔をして関わりを深めてくるであろう。それはそれで、とても面倒だなとも感じる。
「ああ、いや、別に呼ばなくても構わないよ。規模をもっと小さめに検討しようか」
思ったよりもあっさり方向転換され、エルナは驚く。
そのままアーベルはエルナの意見を聞きながら、てきぱきと必要項目の確認を終えていく。第三王子といえども、幼少期から帝王学を学び励んできたのだろう様子が伺え、エルナはアーベルへの見解を見直した。訳あり王子だと思って申し訳なかったな、と心の中だけで謝罪したのだった。
「さてと、このへんで大丈夫かな」
式についても一息ついたところで、アーベルはメイドを呼び紅茶を淹れなおすよう指示する。ついでにニナの様子も見に行かせたようだった。
時計を見るとティータイムに差し掛かった頃だ。
「ニナさん起きてきたら、一緒にアフタヌーンティーでもしたいですね」
書類をまとめるアーベルに向かってそう提案すると、
「そうだな、思ったより早くまとまったことだし、それもいいな」
思わずOKが出たのでエルナは笑顔になる。
「そういえば聞きそびれていたんですが、アーベルさまとニナさんは何処でお知り合いに?」
メイドが戻ってくるまでの繋ぎにと話題を振ると、アーベルが一瞬固まった。
おや、聞いてはいけないことだったろうか。
「申し訳ございません、言いづらいことでしたら…」
「いや、そんなことはない」
アーベルはカップに残った紅茶を一気に飲み干すと、二人の出会いを語ってくれた。
どうやら以前メイドの噂話で仕入れていた情報は半分正解だったようだ。
アーベルがコペンハーゲンの浜辺を散歩していたところ、ニナが砂浜の上に倒れていたのだとか。体温も低くこのままではいけないと王宮まで連れ帰り、砂まみれの身体を侍女たちに任せたり、医者に見せたりなどしたそうだ。意識を取り戻したニナはアーベルの顔を見るなり泣き始めてしまい、アーベルが理由を聞いても首を横に振るばかりで何も答えない。そしてしばらくして、アーベルはこの少女が答えないのではなく答えられないのだと気づいたという。
身元もわからず帰るところもないという声なき少女を、アーベルはどうしても放ってはおけなかった。しかしそんな得体の知れない少女に執心だと何処かから噂が広がったようで、陛下や兄殿下たちに迷惑をかけないようにと、領地の中でも一番王都から遠いこのエスビャウの邸宅に連れてきたのだという。
まるで御伽噺の一説のような出来事で、エルナはただ驚き相槌を打つばかりだった。
「あの、私自身この言葉を信じてなかったのですが、なんというか『運命』ってこういうものなのかな、って…」
子供じみた感想を述べると、アーベルは照れくさそうに苦笑した。
「まあ、はじめはただ王子として、変な責任感からの行動であった気もするが。ただ、色々思う所もあってね。気づいたら離せなくなってしまっていた」
なんだかその最後の一言に、大きな愛が詰まっているような気がして、エルナはますます憧れの気持ちを強くした。
運命の出会いなんて信じられなかったけれど、ここには存在していたようだ。エルナは気持ちが軽くなった気がして、笑みを深める。どうにか幸せになってほしいと、心の底から願ったのだった。
あれから、起き出してきたニナとアフタヌーンティーを楽しみ、エルナは日が暮れきる前に家路についた。ノーラは馬車の中で終始うれしそうであったし、夕食にはいつもより三割増しに豪華なものが食卓を彩っていた。なんとなく裏切っているようで居心地が悪く、いつもより早めに自室へ引き上げてしまった。
そして寝る支度を整えてから、ベッドで一呼吸する。
すっかりニナとアーベルの馴れ初めで上書きされてしまっていたが、今から眠るということはそれすなわちオトに逢いに行くということなのである。
エルナのはじめての口づけを奪った、オトに。
思わず恥ずかしくなってシーツに潜り込む。
口づけ云々の前に、まずエルナはオトを傷つけてしまったことや誤解を招いたことを謝らなくてはならないし、なぜオトがそんなにも「アーベルと似ている」ことを嫌がるのかも聞かなければならない。そして、エルナの今の気持ちも、きちんと確かめねばならない。
やることはたくさんだが、その根底にあるのは、オトに逢いたい、そして笑顔にさせたい、という強い気持ちだった。
今まで感じたことのない気持ちで胸があたたかい気がする。
この気持ちをどうにか伝えたくて、エルナはぎゅっと目を瞑った。シーツのほどよい手触りとぬくもりに、意識が闇に溶け出していくのが判った。
*****
目を開けるともう森の真ん中だった。
目の前には前回昼間の森で見た、白いベンチが佇んでいる。そこには誰もいない。
エルナは少し不安になるが、意を決してそのベンチに座る。
と、誰もいなかったはずの眼前に、突如オトが表れてエルナは息をのんだ。
「―っ!」
その表情をどう捉えたのか、オトは浮かない表情のまま、エルナの左側に腰を下ろす。
「…こんばんは、オト」
「…こんばんは、エルナ」
いつからお互い呼び捨てになったんだろうか? ふと思ったが、これが一番しっくりくる気がしてそのままエルナは言葉を続けた。
「オト、まず話を聞いてほしいの」
少し身体をオトの方へ向けると、左手でオトの右腕の袖の端を少し掴む。現実では許可もなく異性の服に触れるだなんてはしたない行いだが、今はそれよりも、正確にエルナの気持ちを伝える方が大切だった。
「…」
しかし、いざ話し出そうとすると、頭が真っ白で何も言葉が出てこない。
オトも空白を訝しんだのか、ようやくこちらと目を合わせる。
深い空色の瞳に、エルナが映る。
『言葉を持ってしまったからこそ、見えなくなるものも多い』
昼間考えていた言葉が脳裏に浮かんだ。
言葉でないと伝わらない気がして、言葉を尽くそうと思ってここにきた。
けれど土壇場で、人は正確に言葉を紡ぐのが困難だったりもするのだ。
「…」
ただただ二人、見つめ合っている。きっとオトはエルナの言葉を待っている。
どうしよう!
ちっとも気の利いた言葉など浮かばなくなったポンコツな脳みそに、しかし突然、いつかのやりとりが思い起こされた。
―――ワルツの態勢のまま、頬を差し出してきた―――
考える間もなく、エルナの身体は動き出していた。
袖をつかんでいた手でオトの右肩を掴み、そのまま軽く引き下げる。なされるがまま態勢を崩したオトの右頬に、エルナは自身の唇をくっつけた。
触れた肌は、熱を感じる間もなくすぐに離される。
顔を真っ赤にしたエルナは少し身体を後ろに引きながら、小さな声で囁く。
「…お詫びは…これ、なんでしょう」
エルナがオトに張り手を食らわせた次の逢瀬で、オトが言っていたことだ。
オトは右に傾いたまま固まっていたが、それを思い出したのか勢いよくエルナの方を向いた。
そしてその勢いのまま、エルナをその両腕の中に閉じ込めた。
「ひゃ!」
「全くあなたは!本当にずるいひとだ!」
ぎゅうぎゅうと強く抱きしめられて、エルナはどうしていいかわからない。
「俺がどんな想いで今日…!」
しかしその声があまりにも必死で、エルナの思考は少し冷静になった。
私は、私の気持ちを伝えるために、今日ここに来たのだと。
「あの、あのね、オト…」
「…」
オトはエルナの声に耳を傾けているのか、抱きしめたままじっとしている。
「私…オトを笑顔にしたいんだけど…どうしたらいい…?」
ぴくりと、オトの腕が動いたような気がした。
「私オトを悲しませてばっかりで…。最近はね、オトとアーベルさまが似てるなって、思わなくなったのよ。昨日似てるって言ったのは、アーベルさまのおうちにいるニナさんって女の子の瞳の色が、似てるなって…、あ、でも、似てるのは空色ってだけで、オトの方が深くてきれいな…」
とにかく思いついたままに言葉を並べていると、突然オトの腕から解放される。
かち合った目は、言おうとしていた通り深くてきれいな空色だ。
でも、なぜだろうか、記憶の中のそれよりも、もっと濃くて、ゆらめいているような―――
「もう知りませんよ、エルナ」
「…え」
「覚悟しておけと、言いましたよね」
「…な」
んのこと、と尋ねようとして、続いたその音はオトの口の中に吸い込まれた。
「っ」
まるで噛みつかれたみたいに、唇で唇を覆われる。エルナは思わず目をぎゅっと閉じる。が、視界が暗くなると唇に与えられる刺激がより鮮明になってしまい、失敗したと瞬時に思う。
オトの唇はくっついては離れ、またくっついては、少し食むようにエルナの唇を挟んだりしてくる。わけがわからなくてとにかく必死に唇を結んでいたが、オトの吐息が唇に触れたとき、あ、私息できてないと気づき本能でぷは、と酸素を吸う。
するとその隙を見計らったかのように、今度は温かくて湿ったものが、エルナの唇の隙間に割って入ってきた。それに自分の舌をつつかれた瞬間、それがオトの舌だと悟って肩がびくりと動いた。
「…!…、ふ、あ、ま、」
待ってと言いたいのに意味のない音しか漏れない。
思わずオトの胸を押すが、なぜか力が入らなくてただ服を握りしめるしかできない。
そうこうしているうちに、オトの舌はエルナの上顎をなぞっていく。エルナは今まで感じたことのない感覚を全身に感じ、少し怖くなった。
オトの右手はいつの間にかエルナの頭を後ろからしっかり抱えていて、感覚から逃れたくて身じろぎするエルナを許してはくれない。
ただ、漏れる吐息を交わしながら、なされるがまま、だ。
数秒か、数分か、わからないがしばらくしてその攻撃は緩くなった。口内からオトは出ていき、その代わりに下唇をなめられ、もう一度食まれて、唇から柔らかい感触が去った。
エルナは瞼を開けたが、目が回っているのかよく見えない。ただ、まだとてつもなく近くにオトの顔があるのは判った。突然の口づけに文句を言ってやりたいが、エルナの口は酸素を取り入れるのに必死である。
「あれくらいのお詫びじゃ、俺は満足できないんで」
熱は離れたと思ったが、そう囁いたオトの吐息はまだ唇にかかってくるのでそんなに離れていないと判る。なんならまたいつ食べられてしまうかわからない。
「これで…」
言葉を区切ると、オトはもう一度、今度はゆっくりと時間をかけて、エルナの下唇を食んだ。
ほら、食べられた。
「とりあえずは、許しますよ」
ようやく回っていた目が正常になってきて、オトの目とかち合う。空色の瞳に映った自分が、見たこともないくらい真っ赤だということがありありと判ってしまった。
そんなエルナの顔を見て、オトは、今まで見たこともないような、嬉しそうな顔で、笑った。
「…夕陽みたいに真っ赤ですよ」
その笑顔を見て、エルナは、ああこれが、これが見たかったんだと、思った。
この笑顔を、ずっと傍で見ていたいと、そう願った。
しばらくクスクス笑うオトを見つめていると、はたと気づいたオトが空を見上げる。
「ああ、もう終わりですね」
その言葉で、逢瀬の時間が終わりなのだと知る。その声音は寂しそうで、エルナの胸がぎゅっと詰まった。
いやだと、夜のままでいてと、そう、強く祈った。
「…また、次の逢瀬で」
悲しそうに微笑うオトが最後にもうひとつキスを落として、エルナの視界は真っ白に染まっていった。
*****
「…」
目を開けると見慣れた天井だった。窓の向こうには黎明の兆しがあった。
いや、なに、いまの。
思い出すだけで顔に熱が集まるのがわかる。
こっちは初心者なんですけど…!
心の中で文句を投げながら、エルナはシーツを頭の上まで引き上げた。
朝が、嫌いになりそうだ。
オトの幸せそうな笑顔を思い出しながら、もう少しだけこの甘い泥濘に身をゆだねたいエルナだった。
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