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影を重ねて
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気だるい朝だった。
天井はいつものものよりも白く、豪華な照明が朝日をキラキラ反射させる。
のそのそと身支度を済ませて部屋を出ると、階段の手すり越しにニナが裏庭へ出ていく姿を見つけて、迷わずエルナもその後を追った。
「おはよう、ニナさん」
少し驚いて振り向くニナの顔は、昨日よりも一層蒼白い。
「今日も痛むの?足」
陽が沈んでいる間は痛みが和らぐ、とは昨晩伝えてくれたのだが、日に日に彼女の具合は悪くなっている気がして心配になる。いくらアーベルに言った方がいいと言っても、一向に首を縦に振らないニナには、何かエルナの知らない事情があるようだった。
大丈夫だとでも言うように笑う彼女は、明らかに大丈夫そうではないのだが…
頑なな彼女にエルナは何も言えなくなってしまった。
無言のまま、裏庭の草木に水やりをするニナを見つめていると、ニナが恥ずかしそうにこちらを見る。見ないで、ということだろうか。
「あ、ごめんなさい」
急いで目線を逸らした瞬間、ニナの残像がエルナの脳内でチカチカと光った。
この感じ。
既視感。
しかしそれが一体何のデジャヴなのか判らないまま、逸らした目線の行き場を探して空を見上げる。
すると見上げた先の二階のバルコニーに、微笑みながら二人を見下ろすアーベルの姿を見つけて少し驚いた。
「おはよう、エルナ嬢」
「おはようございます、アーベルさま」
お互いの視線がぶつかった時、アーベルに無言で手招きをされる。とりあえず言われるがまま、裏庭から邸内へ入ると、エルナは二階の客室にやってきた。
実質ニナの部屋だ。
バルコニーには先程と同じポーズで庭のニナを見下ろすアーベル。その横に人一人分だけ間をあけて、エルナも手すりに肘をついてみた。
バルコニーからは一面に広がるダークブルーの北海が一望出来る。
呼んだ割に話も始めないアーベルをいいことに、エルナも無言でその海の向こうに想いを馳せた。
あの向こうには、何が、…誰が、待っているのだろうか。
その「誰か」は、もしかしたら私が傷付けてしまったかもしれない。
エルナは昨晩の夢で得た情報から、オトが北海を越えた先の隣国の王子なのではないかと、根拠もないのに確信していた。そう、エルナの生きるこの国と、宗教的に対立している隣国の。
「…アーベルさま、」
「はい」
「王子って、大変ですね」
「はい?」
唐突にエルナが発した発言に、当然アーベルは驚く。藪から棒になんだ、とその表情が物語っている。
「…アーベルさまは、このままの状態で私と結婚して、本当に後悔しませんか…?」
何を聞きたいのか自分でも判らないまま、エルナはだらだらと言葉を続ける。アーベルはただ静かに、それを聞き続けていた。
「私は…正直、よくわかりません。あなたと結婚することで、私は隠れ蓑にはなれるけれど…本当にそれで良いのでしょうか」
思いつくままに、言葉が口から流れでていく。
「私は、アーベルさまに心の底から幸せになって欲しいと思っています、もちろん、ニナさんにも…」
真下の庭に目をやると、ニナがゆっくりと水やりを続けていた。たまにそっと、足をさすっている。
きっとアーベルも、ニナが何かを隠していることに気付いているのだ。こんなに大事にしているのだから、気付いていないはずがない。
昨晩、夜更けのニナとの時間で、エルナが初めて知ったことがあった。
それはアーベルがニナに対して、妹然と接しているということだった。
ニナの様子からは、アーベルへの恋焦がれは痛いほど感じた。そしてそれ以上に、諦めの気持ちも感じとれてしまった。なんとあろうことか、ニナはエルナのことを、本当の意味での「アーベルの妻」だと思っているのだ。
まあよくよく考えれば、自分が殿下の寵愛を受けていてエルナが仮面の妻と知っているなら、エルナにあんな風に無邪気に笑いかけてはこれないだろう、あの子の性格であれば。
つまりアーベルは、エルナには愛を返せないと告げながら、ニナには愛を告げていないのだ。
確かにエルナはたまにほんの少しだけ、この無情な現実に希望を見たくなる時があった。けれどこの三ヶ月、アーベルとニナの仲睦まじい様子を見て呆れながらも、理想の愛の姿だと憧れてもいたのである。
ていうかあんなでれでれのアーベルさま目の当たりにしてなんで気づかないの、とは口が裂けても言えないが。
「ニナさんに対して嘘は、ついて欲しくありません」
夢の中でオトに言われた言葉を思い出す。
あなたがあの王子に愛を求めているなら、それは無駄なことですよ。
そう、その言葉で気付いてしまったのだ。
エルナがアーベルに求めているのは自身へ向けた愛ではない、愛の体現だと。
自分が主人公でなくてもいい。それでもいいから、この無情な世界で、真実の愛があるということを二人に証明してほしいのだ、と。
「…アーベルさま、…ニナさんの具合…」
「…気づいているよ」
いつも柔和な話し方をするアーベルの、珍しく硬質な声音を聞いて、エルナは彼も悩んでいるのだと判った。
エルナは、もう諦めていた。小さなころから、流行りの恋愛小説みたいに誰かと想い合って添い遂げることは、貴族の自分には無理なのだと。
優しい未来の旦那様に少し希望を抱いたことがあったとしても、根底のその諦めは変わらない。だから自分の目の前で、手段を選ばず愛を守るというのなら、アーベルには最期まで貫いてほしいのだ。
「…私は以前も申した通り、この形だけの結婚を受け入れています。アーベルさまは何を怖がっておいでですか…?」
「…」
アーベルは王子らしく、淑女への身の振り方は良く心得ていた。それでも本命にはなんだか不器用で、そんな仮初の旦那様に、少しだけ笑みを浮かべてしまった。
「…今わらったね?」
その言葉にちらりとアーベルを見遣ると、少しだけ頬を染め、拗ねたように第三王子がこちらを見ていた。
今度こそエルナは吹き出してしまった。
「ちょっとエルナさん」
「…ふふっ、すみませんアーベルさま」
心外だと言わんばかりの声音にまたも笑いが飛び出る。まるでただの少年みたいに思えて、親近感が湧いてしまった。
「アーベルさまも人間なんだなって、思って」
「エルナ嬢は僕を何だと思っているのかな」
「…自己中ロリコン王子」
「エルナさん?」
あ、いけない素が。
怒ったような呆れたようなアーベルの声を聞いて、なんだか今まで自分が頑なに線を引こうとしていたことが馬鹿らしくなってしまった。
もう、変に世界を悲観するのはやめてみよう。
まずはこの二人のために、何ができるかを考えてみよう。
…そして夢の中のあの人にも、正直に向き合ってみよう。
「来月の式について相談しようと思っていたが…今日はやめておくよ」
少し清々しさを含んでアーベルはそう言った。
「はい…まずは、ニナさんのことを考えてあげてくださいませ」
二人でしばらくバルコニーで風を浴びたあと、執務があるからとアーベルは自室へ戻っていった。
エルナは水平線の向こう、見えもしない隣国のことを何となく想い馳せた後、くるりと踵を返す。
と、その時なんだか視線を感じて、首だけでバルコニーの向こうを振り返る。
そこにはただただ静かな北海。身体を乗り出して真下の庭を見るが、もうそこにはニナの姿も無かった。
気のせいか。
「風が、暖かい」
陽も高くなり、バルコニーには明るい光が射し込んでくる。
エルナは客室に入り、重厚な一人掛けソファを窓際に寄せた。
そこに座れば暖かな光とそよ吹く風に眠気を誘われる。
―――あなたは、会いに来てくれるかしら。
不安と期待がない交ぜになった複雑な気持ちのまま、エルナはゆったりと意識の底へと落ちて行った。
*****
目を開けると、そこは明るい森の中だった。
夜では見えない遠くまで視界は広がり、いつもと違う森の表情はエルナを清々しい気持ちにさせた。
その視界の一番奥、ベンチが並ぶそのひとつに、誰かが座っているのが見える。
きっとオトだ。
エルナはそのベンチに向かって歩き出すが、なかなか縮まらない距離に胸が疼いて、足を進める速度はどんどん速くなる。
近付くにつれてその人物の顔は明らかになって…
オトが、切なそうにこちらを見つめていた。
「オト」
ようやくベンチの前まで辿り着いたエルナは、息を抑えながらその名を呼ぶ。
今まで感じたことのない胸の鼓動の速さが、一向に呼吸を落ち着かせてくれない。
伏せた目は睫毛の影を頬に落として、いつもよりもオトを美しく見せた。
表情も見えないせいか、エルナの不安も大きくなる。
「オト、あの…」
「…どうぞ」
立ち尽くすエルナに、オトは自分の右側を指し示す。ポケットからハンカチを取り出してすかさずベンチに広げる仕草は、いかにも紳士だった。
「…ありがとう…」
戸惑いながらも、勧められるままに腰を降ろす。
思ったよりも近い隣の熱に、エルナの左肩はすぐに熱くなった。
「なんだか…変なかんじ、」
「…何がですか…?」
「オトが、隣に居る」
かすかに左側が揺れ動いた気がした。
「いつもは目の前でしかオトと話したことなかったもの」
なんだか新鮮で少し恥ずかしくて、エルナの心臓はまだ落ち着かない。
しかし何も言葉を発さないオトに不安を感じて、エルナはそっと左側を伺った。
そして心臓が止まりそうになる。
オトの空色の瞳が、じっとエルナを見つめていたのだ。
「…っ」
うっかり視線が合ってしまって、オトはそれを逸らさない。だからエルナも逸らせなくなった。
オトの澄んだ空色は、戸惑うエルナを映している。
―――ただ、その様子がなんだか妙にひっかかる。
何か掴めそうな、届きそうな感覚。
それが身体中に駆け巡っているのに、その糸口が見つからなくて脳内で何かがチカチカしている。
…チカチカ?
そうだ。
裏庭で見た、水に反射する光に照らされたニナの薄い空色の瞳。
オトの方が青みは深くて綺麗な色をしている。
オトが快晴の空の色とすれば、ニナは朝の空の色だろう。
「…うん、似てる…」
ニナの瞳に。腑に落ちたデジャヴに、うっかりそう呟いてしまった。
途端にオトの表情が険しくなる。
「またですか…?」
完全にこちらに身体を向けた体勢になったオトは、苦しそうに絞り出す声でそう言った。
また地雷を踏んだのだと気付き、エルナは慌てて弁明を試みる。
「違うわ、そっちじゃなくて」
「何が違うんですか、あなた今、また似てるって…」
「だから違うの、オトの瞳の色が」
「あの王子に似てると?」
「そうじゃないわ、…アーベルさまの瞳はもっと…」
「俺より綺麗?」
「違っ…」
何を言っても畳み掛けられる言葉に、エルナは空回り状態で。
違うの、アーベルさまの瞳はもっと、暗くて海の色をしている。
上手く言えなくてやるせない。
あなたを傷付けたい訳じゃないのに。
「いつまで俺とその人を重ねてるつもりなんですか?」
空色の瞳が、暗くゆがんだ。
哀しそうな顔が痛い。
まるで夢のように、その顔が霞んでいく。―――いや違う、ここは紛れもなく夢の世界だ。
「俺は俺です。どうして判ってくれない?……こんなにも、」
霞んだままの彼の顔が、ゆっくりと私に近付いてきて。
何か言わなくちゃいけないのに声が出ない。今まで彼を傷付けていたこの口が、何故今は動いてくれないのだ。
今こそ、言葉がなによりも大事だと感じているのに。
霞んでいてほとんど見えない筈の彼の表情が、急に泣き顔になったような気がした。
どうして泣いてるの?
泣かないでよ、だって、私まで哀しくなるわ。
音にならない私の声は彼の鼓膜に届くことはなく、かわりに私の唇は彼のそれに塞がれた。
もはや声を出そうとすることさえままならない。
思わず閉じてしまった瞼の奥で、黒い視界がだんだんと白く濁っていくのが判った。
そして唇の熱を感じて、また彼を傷付けてしまったのだと涙が溢れて止まらなかった。
*****
そうか。
私はこんなにも、彼を傷付けることを恐れ始めていたのか。
頭の片隅で、天啓のようにその言葉が浮かんだ。
頬に流れた涙が、客室のカーテンを揺らす風に吹かれて冷たくなる。
空はいつの間にか茜色で、空気も少し張りつめて身震いを感じた。
―――寝過ぎた。
一人掛けソファに座ったまま、ゆっくりとバルコニーの向こうの黄昏を眺める。
思えば、オトの笑顔を見たことがあっただろうか。意地悪く笑むことはあっても、幸せそうに笑う顔なんて知らない。むしろ痛そうな、苦しそうな印象ばかりある。
それに気付いた途端、なぜだか無性にオトを笑顔にしたくて堪らなくなった。
自然とそんな考えに辿り着いたエルナは、静かにソファから立ち上がる。膝には誰が掛けてくれたのか、暖かなブランケットが掛かっていた。
それを畳みながらバルコニーへと出る。眼下には赤く染まる海があって、エルナはその海の向こうを苦しいくらいに見つめた。
夢の中のあなたは、本当に隣国の王子様?
次に逢ったら、それを確かめないといけないと思った。
けれど、次に眠りについたって、逢えるかどうかはわからない。何の確証もない、ただ真夜中の夢でワルツを踊るだけの、そんな二人だ。
自分で作り出した妄想の人物の可能性だった大いにあるのだ。
そう思い至って、とてつもなくエルナは怖くなる。
―――もしも夢でしか会えないのなら、私に朝なんて来なくてもいいのに、と。
天井はいつものものよりも白く、豪華な照明が朝日をキラキラ反射させる。
のそのそと身支度を済ませて部屋を出ると、階段の手すり越しにニナが裏庭へ出ていく姿を見つけて、迷わずエルナもその後を追った。
「おはよう、ニナさん」
少し驚いて振り向くニナの顔は、昨日よりも一層蒼白い。
「今日も痛むの?足」
陽が沈んでいる間は痛みが和らぐ、とは昨晩伝えてくれたのだが、日に日に彼女の具合は悪くなっている気がして心配になる。いくらアーベルに言った方がいいと言っても、一向に首を縦に振らないニナには、何かエルナの知らない事情があるようだった。
大丈夫だとでも言うように笑う彼女は、明らかに大丈夫そうではないのだが…
頑なな彼女にエルナは何も言えなくなってしまった。
無言のまま、裏庭の草木に水やりをするニナを見つめていると、ニナが恥ずかしそうにこちらを見る。見ないで、ということだろうか。
「あ、ごめんなさい」
急いで目線を逸らした瞬間、ニナの残像がエルナの脳内でチカチカと光った。
この感じ。
既視感。
しかしそれが一体何のデジャヴなのか判らないまま、逸らした目線の行き場を探して空を見上げる。
すると見上げた先の二階のバルコニーに、微笑みながら二人を見下ろすアーベルの姿を見つけて少し驚いた。
「おはよう、エルナ嬢」
「おはようございます、アーベルさま」
お互いの視線がぶつかった時、アーベルに無言で手招きをされる。とりあえず言われるがまま、裏庭から邸内へ入ると、エルナは二階の客室にやってきた。
実質ニナの部屋だ。
バルコニーには先程と同じポーズで庭のニナを見下ろすアーベル。その横に人一人分だけ間をあけて、エルナも手すりに肘をついてみた。
バルコニーからは一面に広がるダークブルーの北海が一望出来る。
呼んだ割に話も始めないアーベルをいいことに、エルナも無言でその海の向こうに想いを馳せた。
あの向こうには、何が、…誰が、待っているのだろうか。
その「誰か」は、もしかしたら私が傷付けてしまったかもしれない。
エルナは昨晩の夢で得た情報から、オトが北海を越えた先の隣国の王子なのではないかと、根拠もないのに確信していた。そう、エルナの生きるこの国と、宗教的に対立している隣国の。
「…アーベルさま、」
「はい」
「王子って、大変ですね」
「はい?」
唐突にエルナが発した発言に、当然アーベルは驚く。藪から棒になんだ、とその表情が物語っている。
「…アーベルさまは、このままの状態で私と結婚して、本当に後悔しませんか…?」
何を聞きたいのか自分でも判らないまま、エルナはだらだらと言葉を続ける。アーベルはただ静かに、それを聞き続けていた。
「私は…正直、よくわかりません。あなたと結婚することで、私は隠れ蓑にはなれるけれど…本当にそれで良いのでしょうか」
思いつくままに、言葉が口から流れでていく。
「私は、アーベルさまに心の底から幸せになって欲しいと思っています、もちろん、ニナさんにも…」
真下の庭に目をやると、ニナがゆっくりと水やりを続けていた。たまにそっと、足をさすっている。
きっとアーベルも、ニナが何かを隠していることに気付いているのだ。こんなに大事にしているのだから、気付いていないはずがない。
昨晩、夜更けのニナとの時間で、エルナが初めて知ったことがあった。
それはアーベルがニナに対して、妹然と接しているということだった。
ニナの様子からは、アーベルへの恋焦がれは痛いほど感じた。そしてそれ以上に、諦めの気持ちも感じとれてしまった。なんとあろうことか、ニナはエルナのことを、本当の意味での「アーベルの妻」だと思っているのだ。
まあよくよく考えれば、自分が殿下の寵愛を受けていてエルナが仮面の妻と知っているなら、エルナにあんな風に無邪気に笑いかけてはこれないだろう、あの子の性格であれば。
つまりアーベルは、エルナには愛を返せないと告げながら、ニナには愛を告げていないのだ。
確かにエルナはたまにほんの少しだけ、この無情な現実に希望を見たくなる時があった。けれどこの三ヶ月、アーベルとニナの仲睦まじい様子を見て呆れながらも、理想の愛の姿だと憧れてもいたのである。
ていうかあんなでれでれのアーベルさま目の当たりにしてなんで気づかないの、とは口が裂けても言えないが。
「ニナさんに対して嘘は、ついて欲しくありません」
夢の中でオトに言われた言葉を思い出す。
あなたがあの王子に愛を求めているなら、それは無駄なことですよ。
そう、その言葉で気付いてしまったのだ。
エルナがアーベルに求めているのは自身へ向けた愛ではない、愛の体現だと。
自分が主人公でなくてもいい。それでもいいから、この無情な世界で、真実の愛があるということを二人に証明してほしいのだ、と。
「…アーベルさま、…ニナさんの具合…」
「…気づいているよ」
いつも柔和な話し方をするアーベルの、珍しく硬質な声音を聞いて、エルナは彼も悩んでいるのだと判った。
エルナは、もう諦めていた。小さなころから、流行りの恋愛小説みたいに誰かと想い合って添い遂げることは、貴族の自分には無理なのだと。
優しい未来の旦那様に少し希望を抱いたことがあったとしても、根底のその諦めは変わらない。だから自分の目の前で、手段を選ばず愛を守るというのなら、アーベルには最期まで貫いてほしいのだ。
「…私は以前も申した通り、この形だけの結婚を受け入れています。アーベルさまは何を怖がっておいでですか…?」
「…」
アーベルは王子らしく、淑女への身の振り方は良く心得ていた。それでも本命にはなんだか不器用で、そんな仮初の旦那様に、少しだけ笑みを浮かべてしまった。
「…今わらったね?」
その言葉にちらりとアーベルを見遣ると、少しだけ頬を染め、拗ねたように第三王子がこちらを見ていた。
今度こそエルナは吹き出してしまった。
「ちょっとエルナさん」
「…ふふっ、すみませんアーベルさま」
心外だと言わんばかりの声音にまたも笑いが飛び出る。まるでただの少年みたいに思えて、親近感が湧いてしまった。
「アーベルさまも人間なんだなって、思って」
「エルナ嬢は僕を何だと思っているのかな」
「…自己中ロリコン王子」
「エルナさん?」
あ、いけない素が。
怒ったような呆れたようなアーベルの声を聞いて、なんだか今まで自分が頑なに線を引こうとしていたことが馬鹿らしくなってしまった。
もう、変に世界を悲観するのはやめてみよう。
まずはこの二人のために、何ができるかを考えてみよう。
…そして夢の中のあの人にも、正直に向き合ってみよう。
「来月の式について相談しようと思っていたが…今日はやめておくよ」
少し清々しさを含んでアーベルはそう言った。
「はい…まずは、ニナさんのことを考えてあげてくださいませ」
二人でしばらくバルコニーで風を浴びたあと、執務があるからとアーベルは自室へ戻っていった。
エルナは水平線の向こう、見えもしない隣国のことを何となく想い馳せた後、くるりと踵を返す。
と、その時なんだか視線を感じて、首だけでバルコニーの向こうを振り返る。
そこにはただただ静かな北海。身体を乗り出して真下の庭を見るが、もうそこにはニナの姿も無かった。
気のせいか。
「風が、暖かい」
陽も高くなり、バルコニーには明るい光が射し込んでくる。
エルナは客室に入り、重厚な一人掛けソファを窓際に寄せた。
そこに座れば暖かな光とそよ吹く風に眠気を誘われる。
―――あなたは、会いに来てくれるかしら。
不安と期待がない交ぜになった複雑な気持ちのまま、エルナはゆったりと意識の底へと落ちて行った。
*****
目を開けると、そこは明るい森の中だった。
夜では見えない遠くまで視界は広がり、いつもと違う森の表情はエルナを清々しい気持ちにさせた。
その視界の一番奥、ベンチが並ぶそのひとつに、誰かが座っているのが見える。
きっとオトだ。
エルナはそのベンチに向かって歩き出すが、なかなか縮まらない距離に胸が疼いて、足を進める速度はどんどん速くなる。
近付くにつれてその人物の顔は明らかになって…
オトが、切なそうにこちらを見つめていた。
「オト」
ようやくベンチの前まで辿り着いたエルナは、息を抑えながらその名を呼ぶ。
今まで感じたことのない胸の鼓動の速さが、一向に呼吸を落ち着かせてくれない。
伏せた目は睫毛の影を頬に落として、いつもよりもオトを美しく見せた。
表情も見えないせいか、エルナの不安も大きくなる。
「オト、あの…」
「…どうぞ」
立ち尽くすエルナに、オトは自分の右側を指し示す。ポケットからハンカチを取り出してすかさずベンチに広げる仕草は、いかにも紳士だった。
「…ありがとう…」
戸惑いながらも、勧められるままに腰を降ろす。
思ったよりも近い隣の熱に、エルナの左肩はすぐに熱くなった。
「なんだか…変なかんじ、」
「…何がですか…?」
「オトが、隣に居る」
かすかに左側が揺れ動いた気がした。
「いつもは目の前でしかオトと話したことなかったもの」
なんだか新鮮で少し恥ずかしくて、エルナの心臓はまだ落ち着かない。
しかし何も言葉を発さないオトに不安を感じて、エルナはそっと左側を伺った。
そして心臓が止まりそうになる。
オトの空色の瞳が、じっとエルナを見つめていたのだ。
「…っ」
うっかり視線が合ってしまって、オトはそれを逸らさない。だからエルナも逸らせなくなった。
オトの澄んだ空色は、戸惑うエルナを映している。
―――ただ、その様子がなんだか妙にひっかかる。
何か掴めそうな、届きそうな感覚。
それが身体中に駆け巡っているのに、その糸口が見つからなくて脳内で何かがチカチカしている。
…チカチカ?
そうだ。
裏庭で見た、水に反射する光に照らされたニナの薄い空色の瞳。
オトの方が青みは深くて綺麗な色をしている。
オトが快晴の空の色とすれば、ニナは朝の空の色だろう。
「…うん、似てる…」
ニナの瞳に。腑に落ちたデジャヴに、うっかりそう呟いてしまった。
途端にオトの表情が険しくなる。
「またですか…?」
完全にこちらに身体を向けた体勢になったオトは、苦しそうに絞り出す声でそう言った。
また地雷を踏んだのだと気付き、エルナは慌てて弁明を試みる。
「違うわ、そっちじゃなくて」
「何が違うんですか、あなた今、また似てるって…」
「だから違うの、オトの瞳の色が」
「あの王子に似てると?」
「そうじゃないわ、…アーベルさまの瞳はもっと…」
「俺より綺麗?」
「違っ…」
何を言っても畳み掛けられる言葉に、エルナは空回り状態で。
違うの、アーベルさまの瞳はもっと、暗くて海の色をしている。
上手く言えなくてやるせない。
あなたを傷付けたい訳じゃないのに。
「いつまで俺とその人を重ねてるつもりなんですか?」
空色の瞳が、暗くゆがんだ。
哀しそうな顔が痛い。
まるで夢のように、その顔が霞んでいく。―――いや違う、ここは紛れもなく夢の世界だ。
「俺は俺です。どうして判ってくれない?……こんなにも、」
霞んだままの彼の顔が、ゆっくりと私に近付いてきて。
何か言わなくちゃいけないのに声が出ない。今まで彼を傷付けていたこの口が、何故今は動いてくれないのだ。
今こそ、言葉がなによりも大事だと感じているのに。
霞んでいてほとんど見えない筈の彼の表情が、急に泣き顔になったような気がした。
どうして泣いてるの?
泣かないでよ、だって、私まで哀しくなるわ。
音にならない私の声は彼の鼓膜に届くことはなく、かわりに私の唇は彼のそれに塞がれた。
もはや声を出そうとすることさえままならない。
思わず閉じてしまった瞼の奥で、黒い視界がだんだんと白く濁っていくのが判った。
そして唇の熱を感じて、また彼を傷付けてしまったのだと涙が溢れて止まらなかった。
*****
そうか。
私はこんなにも、彼を傷付けることを恐れ始めていたのか。
頭の片隅で、天啓のようにその言葉が浮かんだ。
頬に流れた涙が、客室のカーテンを揺らす風に吹かれて冷たくなる。
空はいつの間にか茜色で、空気も少し張りつめて身震いを感じた。
―――寝過ぎた。
一人掛けソファに座ったまま、ゆっくりとバルコニーの向こうの黄昏を眺める。
思えば、オトの笑顔を見たことがあっただろうか。意地悪く笑むことはあっても、幸せそうに笑う顔なんて知らない。むしろ痛そうな、苦しそうな印象ばかりある。
それに気付いた途端、なぜだか無性にオトを笑顔にしたくて堪らなくなった。
自然とそんな考えに辿り着いたエルナは、静かにソファから立ち上がる。膝には誰が掛けてくれたのか、暖かなブランケットが掛かっていた。
それを畳みながらバルコニーへと出る。眼下には赤く染まる海があって、エルナはその海の向こうを苦しいくらいに見つめた。
夢の中のあなたは、本当に隣国の王子様?
次に逢ったら、それを確かめないといけないと思った。
けれど、次に眠りについたって、逢えるかどうかはわからない。何の確証もない、ただ真夜中の夢でワルツを踊るだけの、そんな二人だ。
自分で作り出した妄想の人物の可能性だった大いにあるのだ。
そう思い至って、とてつもなくエルナは怖くなる。
―――もしも夢でしか会えないのなら、私に朝なんて来なくてもいいのに、と。
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私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。
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「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。
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あなたはいきなり許しを乞うてきた。
そして優しくしてくるようになった。
ーー私が想いを捨てた後で。
どうして今更なのですかーー。
*この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。
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