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第三部「運命(さだめ)の愛」
第二話
しおりを挟む初音とおふくが表の方を見ると、男が一人立っていた。
「まぁまぁ、湧玄さん……こりゃぁ、お邪魔さまだね。あたしゃ失礼すっよ」
おふくは含み笑いをして、家を出て行った。
初音は気づかれないように、一つため息を吐いた。
「……お嬢、ちょいと話を聞いてもらいたいんだが」
初音は、上がり框にある三畳ほどの畳の間に湧玄を促した。元は店をしていた仕舞屋には、入り口にちょっとした応接のための間がある。
ほんの一瞬、奥の座敷に通すべきかと思案したがやめておいた。
湧玄は雪駄履きのまま、上がり框に腰をかけた。
「……もう『お嬢』ではございませぬ」
初音はお茶を供しながら、湧玄に云った。そもそも、初音は湧玄より三つは歳上であったはずだ。
「それは、もう『先生の娘』として見なくてもいい、ってことかい?」
湧玄は、はにかんだ笑顔を見せた。
初音は、云い方を間違えた、と思った。
稲田 湧玄は、多摩の裕福な名主の息子だった。だから、百姓であっても名字帯刀が許されている。
だが、家は長男である兄が継ぐため、幼い頃より学問ができた湧玄は医師を目指した。
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にもかかわらず、湧玄は諦めなかった。
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そして、九十九日目の深草少将のごとく、やがて湧玄も高熱を発してぶっ倒れてしまった。
しかしながら、想いを果たせず事切れた深草少将とは異なり、湧玄は玄丞の診立てによって事なきを得た。
しかも、根負けした玄丞に弟子入りを認められたのだ。
結局、玄丞の弟子になったのは、あとにも先にも湧玄だけとなった。
「……お嬢……初音さんは、これからどうするんだい」
湧玄が問うてきた。
「まだ父上が亡くなったばかりゆえ、なにも考えておりませぬ」
初音は目を伏せた。
湧玄に対しては、町家の人たちには絶対にせぬ武家の言葉で話した。一応、見習いとはいえ「医師」に対する敬意である。
だが、その物云いに、湧玄は一つため息を吐いた。
「もうちいっとばかし、砕けてくんねぇかな」
そして、意を決したように初音をみた。
「この先、おれは先生のように長崎へ行って、蘭方を学ぼうと思ってんだけど……」
湧玄の実家は豪農だと聞く。学問のことであれば、いくらでも思い通りにさせてくれるのだろう。
「……初音さん、一緒に来てくんないか」
湧玄の申し出に、初音は目を伏せたまま、
「今はまだ、先のことは考えられぬゆえ……」
先刻と同じ云い分を繰り返す。
すると、湧玄はその言葉に、
「じゃあ、いずれは……」
と目を輝かせた。
「いえ」
されども、強い口調で初音が遮る。
「これから、他郷で命がけで学問せねばならぬそなたに、おなごなぞ無用でござりましょう」
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜
まだ気疲れが残っているから、と云って、裏店に住む湧玄には早々に帰ってもらった。
弟子になった時分には、住み込みにしてほしいとかなり粘っていた湧玄だったが、嫁き遅れたとはいえ娘がいるので到底無理だと云って、父が突っぱねていた。
——これからのことは、いずれは考えねばならぬ。
供した茶器を片しながら、初音はもの思いに沈む。
いつまでも、大家や差配や町家の人たちに甘えてばかりはおられぬのはわかっていた。
初音はまた一つ、ため息をついた。
家の外を見ると、いつの間にか夜の帳が下り、ぽつぽつと、雨が降り始めていた。
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