今宵は遣らずの雨

佐倉 蘭

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第二部「運命(さだめ)の子」

第一話

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   手習所の子どもたちをうちに帰した小夜里さよりは、へっついのある土間で夕餉ゆうげの支度をしようとしていたおみつ・・・に、
「……小太郎こたろうがどこにも見当たらぬが、おまえ知らないか」
と問いかけた。

「若さまじゃったら、半とき(一時間)ほど前に、木刀を持って外へ出て行きんさったよ」
   おみつがこともなげに答える。いつものことだからだ。

   裏の長屋に住む、おとくの二番目の娘である。姉のおきみ・・・が幼なじみの大工と所帯を持ったので、今度は妹のおみつ・・・が小夜里のうちの下働きをしてくれることになった。
   姉と同じく、器量の方はそう良いとは云えぬが、明るくきびきびと動いてくれる。

   腕白さが増してきた一人息子の小太郎に手が掛かる上に、小夜里にはたった一人で切り盛りしている、界隈の子どもたちに書を教える手習所もある。
   今ではおみつ・・・の助けがなければ、すっかり立ち行かなくなっていた。

   小夜里は青筋の立つ顳顬こめかみに手を当てた。
——今日こそは、論語の素読をせぬままに外へ出て行ってはいかぬと、あれほど強う云うたのに……

   「のたまはく…」で始まる、からの国の儒教の租・孔子の論語は、武家に生まれたからには必須の書である。
   特に、父親のいない小太郎は継ぐものがなく、自分の力で道を切り開いていかねばならぬ。

   今になって嫡子が生まれない兄の佐伯さえき 忠之進ただのしんが、小太郎を引き取って養嗣子あととりにしたいとしきりに云ってくるのだが、小夜里はきっぱりと断っていた。
   腹の中の小太郎ともども文字どおり一刀両断にされかかったあの恐怖を、忘れてはいないからである。

   小夜里はたった一人の息子には、将来は江戸へ出て、湯島の学問所で勉学に励んでもらい、学問で身を立ててほしかった。

   五代の公方くぼう様(徳川綱吉)がおつくりになった湯島には孔子をお祀りした大成殿があるくらいなので、身に馴染ませるためにも、小夜里は小太郎がまだ赤子の時分から子守唄代わりに論語を素読していた。


——にもかかわらず……

   小太郎は孔子先生にまったく興味を持つ気配がなかった。それどころか、文机ふづくえに向かうことさえ、むずがった。隙あらば、木刀を持って外へ飛び出して行く。

   幼き頃から、兄の横で和書にも漢書にも親しんできた小夜里にとっては、青天の霹靂へきれきで、信じられないし、考えられないことだった。学問好きの我が身から、まさか、こんな真反対の嗜好しこうを持つ子どもが生まれようとは……

   実際、小太郎は小夜里にまったく似ていなかった。それどころか、小夜里の兄にも母親にも、身のまわりにいるだれにも、似ても似つかなかった。
   小柄な小夜里の子にしては、小太郎はすでに界隈の同じ頃に生まれた子どもたちより、頭一つ大きかった。

——やはり、父親に似たのであろうか。

   小夜里の胸の中に、どんよりとした雲がかかる。


   そんな小太郎であったが、妙に身体からだが弱い性質たちがあった。季節の変わり目には必ず風邪をひき、思いのほか長引いた。

   うしどき、高熱のために、弱り切って荒い息を吐く、たった一人の我が子。額においた手拭いが、すぐに熱を帯びる。

「……この母を独り、置いていく気か」

   平生は、母一人子一人で気を張って生きている小夜里の目に、涙が込み上げる。熱を帯びた手拭いを、すぐさま手桶の水にくぐらせる。

——この子は、絶対に、死なせやしない。

   小夜里は歯を喰いしばる。

   そうやって、この子が数え七つになるまで、二人きりで暮らしてきたのだ。


「……母上っ、ただ今戻り申したっ」
   息を弾ませて、竈のある土間へ小太郎が入ってきた。手には木刀を持ち、剣術やっとうの道場で思い存分打ち合ってきたのか、汗をかいて頬を紅潮させている。

「小太郎っ、そなたはまた、わたくしとの約束を破って、外へ参られたな」
   小夜里が目を吊り上げて、小太郎に迫った。

   手習所に通う子どもたちには、根気よく教えさとす小夜里も、我が子には違った。つい、初めから、気を詰めてしまう。

「まぁまぁ、お師匠、気をお鎮めなされ」
   すらりとした背丈の男が、戸口に立っていた。

   小夜里が小太郎を身籠ったのを診立てた、町医の竹内たけうち 玄胤げんいんには息子がいた。
「お師匠、今日はそなたに断りもなく、小太郎を連れ出してしまって申し訳ない」
   竹内 玄丞げんしょうは、落ち着いた微笑みで詫びた。

   小夜里の目が一瞬、玄丞に移った隙を突いて、
「母上っ、論語の素読をして参りますっ」
   小太郎がすぐさま下駄を脱ぎ、土間から畳に上がった。水を張ったたらいと手拭いを用意したおみつが「またか」と呆れた笑いを浮かべる。

「そなたっ、足を洗うたかっ。畳が土で汚れるではないかっ。これっ、待たれよっ」
   母親の金切り声なぞ、どこ吹く風で、小太郎の姿はもうふすまの向こうへ消えていた。

   小夜里は全身からため息を吐き出した。女親だけでは立ち行かぬことを、まざまざと思い知らされるときだ。

   玄丞がくすり、と笑った。

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