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第一部「運命(さだめ)の夜」
最終話
しおりを挟むお天道様が真上から西へ傾き、宵闇が迫り、夜が更け、夜半になり、そして空が白みだし、また朝がやってきても、腹の子が出てくる気配はなかった。
小夜里は積み上げた布団を背に座して、天井から吊り下げられた白い二本の紐を左右の手に持ち、ひたすら痛さに耐えていた。
「お師匠さん、息を吸うてばかりじゃいけん。吐くんじゃ」
その背をさすり続けていたおとくは、自分も一緒になって、はあぁーっと息を吐いていた。
「子ぉも早う出たい思うとるんじゃけぇ、子ぉの調子に合わせていきむんじゃ。……ほれっ」
産婆のおりきも、いきむ潮時を合図していた。
ふーっと、小夜里の気が遠くなって、握っていた白い紐が手からずるっと滑った。
「しっかりせにゃいけん。あんたぁだけじゃのうて、子ぉも辛いんじゃけぇ」
と、すぐにおりきから、ぴしゃっぴしゃっと頬を叩かれた。
腹の中の五臓六腑を、荒っぽい手で雑巾のように絞られているようだった。
息を吸っても、息を吐いても、身体をどんな向きにしても、この痛みは治まらぬ。
もう身体中が汗びっしょりで、しがみつくように握り締めている白い紐もぐずぐずだ。
竈の土間の方でも「えっとぉ難儀なお産になりんさったねぇ」と口々に云い合っていた。
「お師匠さん、大丈夫じゃろうか。……血の気も失せて、真っ青な顔しちゃったけぇ」
お湯を替えに入った者が戻ってきて、みんなにそう告げた。
「御免くださいまし……」
声がして、小夜里のいる産屋の襖が開き、女が入ってきた。
小夜里が勘当された兄の妻である千都世だった。
「……嫂上」
嫂と云えども小夜里よりも歳下で、兄に嫁いで二年ほどになるが、子にはまだ恵まれていなかった。
「うちに参った町家の者から、今朝になってもまだ子が生まれぬと聞き及んだゆえ、わたくしでお役に立てるかどうかわかりませぬが」
千都世は微笑みながら、袂から襷を取り出して身に巻きつけた。
「されども……兄上が……それに母上も……」
小夜里が目を伏せて、荒い息で呟いた。
「旦那様はなにを聞いても素知らぬ振りで……さすれども、姑上がたいそうご心配なされ取り乱されたゆえ、わたくしが参りましょうと申し上げると……」
そう云って、千都世も目を伏せた。
「自分の代わりに娘の力になってほしい、と初めて嫁のわたくしに頭をお下げに……」
あの気位の高い母が、と思うと、小夜里の目に込み上げるものが迫ってきた。
小夜里は、改めてしっかりと、白い紐を握りなおした。そして、腹の中の子の動きにだけ、気を集めた。
しばらくすると、子が自ずから外へ押し出ようとする気配が感じられるようになってきた。
その息に合わせて、小夜里もまたいきむようにした。
相変わらず、腹の中を乱暴に掻き回されたような痛みは続く。
やがて、そんな今までの痛みとは比べようがない痛みがやってきた。
五臓六腑を素手で引きちぎられるような強烈な痛みが身体じゅうを駆け巡った。
小夜里は堪らず、獣のような声で絶叫した。
「足が出たっ」
おとくが叫んだ。やはり、逆子だ。
おりきが細心の気遣いをしながらも、鮮血に染まった赤子の足を強引に引き出していく。これ以上、刻がかかると、母子ともにもたない、と判断したからだ。
つつがなく胴まで外に出てきたが、やはり腕がつっかえた。
「もうひと踏ん張りじゃっ。堪えぇよっ」
おりきはそう云って、赤子をすっかり引き出した。
ようやっとのことで表に出てきた赤子は、おりきが処置を施した直後、耳をつんざくような声をあげて泣き始めた。すぐさま臍の緒を断たれ、傍らの盥で産湯をつかわされる。
立ち込める血のにおいをものともせず、長屋の女房たちはきびきびと動いてくれた。
産湯を浴びた赤子は手拭いで身を拭われ、初衣に包まれたあと、嫂の千都世に渡された。
「……男の子じゃ。まぁ、あないにつらいめをして生まれなすったというに、なんと元気な」
手足をばたつかせた赤ん坊を少しこわごわ抱きながらも、千都世は目を細めながらそう云い、小夜里にその顔を見せた。
後産を終え、幾重にもなった布団を背にして、もたれかかって座していた小夜里は、ただただ身体が重くてだるかった。
しかし、初めて見る我が子に、知らず知らず笑みがこぼれた。
母親になれたのだ、という喜びとともに、左右の乳がさーっと張りつめた。
先刻までの激烈な痛みは、今やすべて吹き飛んでいた。
小夜里は息子の頬に指を触れ、それから打ち合わせた胸元を崩し、左の乳房を表に出した。
突き出た乳首の先には既に白い汁がにじみ出ていた。
千都世に支えられながら、赤ん坊は母の乳首をぱくっと口に含んだ。もどかしそうに幾度か、もごもごと口を動かしたあと、やがて、ちうちうと吸い出した。
生まれたての子は「赤子」という名のとおり、身体じゅうが燃えるように真っ赤だった。それに、しわだらけのくしゃくしゃの顔だった。
たった一度だけ、交わした契りの相手は、いつしか顔も姿もおぼろになっていた。
——にもかかわらず……
「この子は……父親に……よう似ておる」
小夜里はそう呟いた。
そして、目を閉じた。
第一部「運命の夜」〈 完 〉
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