11 / 51
第一部「運命(さだめ)の夜」
最終話
しおりを挟むお天道様が真上から西へ傾き、宵闇が迫り、夜が更け、夜半になり、そして空が白みだし、また朝がやってきても、腹の子が出てくる気配はなかった。
小夜里は積み上げた布団を背に座して、天井から吊り下げられた白い二本の紐を左右の手に持ち、ひたすら痛さに耐えていた。
「お師匠さん、息を吸うてばかりじゃいけん。吐くんじゃ」
その背をさすり続けていたおとくは、自分も一緒になって、はあぁーっと息を吐いていた。
「子ぉも早う出たい思うとるんじゃけぇ、子ぉの調子に合わせていきむんじゃ。……ほれっ」
産婆のおりきも、いきむ潮時を合図していた。
ふーっと、小夜里の気が遠くなって、握っていた白い紐が手からずるっと滑った。
「しっかりせにゃいけん。あんたぁだけじゃのうて、子ぉも辛いんじゃけぇ」
と、すぐにおりきから、ぴしゃっぴしゃっと頬を叩かれた。
腹の中の五臓六腑を、荒っぽい手で雑巾のように絞られているようだった。
息を吸っても、息を吐いても、身体をどんな向きにしても、この痛みは治まらぬ。
もう身体中が汗びっしょりで、しがみつくように握り締めている白い紐もぐずぐずだ。
竈の土間の方でも「えっとぉ難儀なお産になりんさったねぇ」と口々に云い合っていた。
「お師匠さん、大丈夫じゃろうか。……血の気も失せて、真っ青な顔しちゃったけぇ」
お湯を替えに入った者が戻ってきて、みんなにそう告げた。
「御免くださいまし……」
声がして、小夜里のいる産屋の襖が開き、女が入ってきた。
小夜里が勘当された兄の妻である千都世だった。
「……嫂上」
嫂と云えども小夜里よりも歳下で、兄に嫁いで二年ほどになるが、子にはまだ恵まれていなかった。
「うちに参った町家の者から、今朝になってもまだ子が生まれぬと聞き及んだゆえ、わたくしでお役に立てるかどうかわかりませぬが」
千都世は微笑みながら、袂から襷を取り出して身に巻きつけた。
「されども……兄上が……それに母上も……」
小夜里が目を伏せて、荒い息で呟いた。
「旦那様はなにを聞いても素知らぬ振りで……さすれども、姑上がたいそうご心配なされ取り乱されたゆえ、わたくしが参りましょうと申し上げると……」
そう云って、千都世も目を伏せた。
「自分の代わりに娘の力になってほしい、と初めて嫁のわたくしに頭をお下げに……」
あの気位の高い母が、と思うと、小夜里の目に込み上げるものが迫ってきた。
小夜里は、改めてしっかりと、白い紐を握りなおした。そして、腹の中の子の動きにだけ、気を集めた。
しばらくすると、子が自ずから外へ押し出ようとする気配が感じられるようになってきた。
その息に合わせて、小夜里もまたいきむようにした。
相変わらず、腹の中を乱暴に掻き回されたような痛みは続く。
やがて、そんな今までの痛みとは比べようがない痛みがやってきた。
五臓六腑を素手で引きちぎられるような強烈な痛みが身体じゅうを駆け巡った。
小夜里は堪らず、獣のような声で絶叫した。
「足が出たっ」
おとくが叫んだ。やはり、逆子だ。
おりきが細心の気遣いをしながらも、鮮血に染まった赤子の足を強引に引き出していく。これ以上、刻がかかると、母子ともにもたない、と判断したからだ。
つつがなく胴まで外に出てきたが、やはり腕がつっかえた。
「もうひと踏ん張りじゃっ。堪えぇよっ」
おりきはそう云って、赤子をすっかり引き出した。
ようやっとのことで表に出てきた赤子は、おりきが処置を施した直後、耳をつんざくような声をあげて泣き始めた。すぐさま臍の緒を断たれ、傍らの盥で産湯をつかわされる。
立ち込める血のにおいをものともせず、長屋の女房たちはきびきびと動いてくれた。
産湯を浴びた赤子は手拭いで身を拭われ、初衣に包まれたあと、嫂の千都世に渡された。
「……男の子じゃ。まぁ、あないにつらいめをして生まれなすったというに、なんと元気な」
手足をばたつかせた赤ん坊を少しこわごわ抱きながらも、千都世は目を細めながらそう云い、小夜里にその顔を見せた。
後産を終え、幾重にもなった布団を背にして、もたれかかって座していた小夜里は、ただただ身体が重くてだるかった。
しかし、初めて見る我が子に、知らず知らず笑みがこぼれた。
母親になれたのだ、という喜びとともに、左右の乳がさーっと張りつめた。
先刻までの激烈な痛みは、今やすべて吹き飛んでいた。
小夜里は息子の頬に指を触れ、それから打ち合わせた胸元を崩し、左の乳房を表に出した。
突き出た乳首の先には既に白い汁がにじみ出ていた。
千都世に支えられながら、赤ん坊は母の乳首をぱくっと口に含んだ。もどかしそうに幾度か、もごもごと口を動かしたあと、やがて、ちうちうと吸い出した。
生まれたての子は「赤子」という名のとおり、身体じゅうが燃えるように真っ赤だった。それに、しわだらけのくしゃくしゃの顔だった。
たった一度だけ、交わした契りの相手は、いつしか顔も姿もおぼろになっていた。
——にもかかわらず……
「この子は……父親に……よう似ておる」
小夜里はそう呟いた。
そして、目を閉じた。
第一部「運命の夜」〈 完 〉
11
お気に入りに追加
52
あなたにおすすめの小説
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。
【完結】月よりきれい
悠井すみれ
歴史・時代
職人の若者・清吾は、吉原に売られた幼馴染を探している。登楼もせずに見世の内情を探ったことで袋叩きにあった彼は、美貌に加えて慈悲深いと評判の花魁・唐織に助けられる。
清吾の事情を聞いた唐織は、彼女の情人の振りをして吉原に入り込めば良い、と提案する。客の嫉妬を煽って通わせるため、形ばかりの恋人を置くのは唐織にとっても好都合なのだという。
純心な清吾にとっては、唐織の計算高さは遠い世界のもの──その、はずだった。
嘘を重ねる花魁と、幼馴染を探す一途な若者の交流と愛憎。愛よりも真実よりも美しいものとは。
第9回歴史・時代小説大賞参加作品です。楽しんでいただけましたら投票お願いいたします。
表紙画像はぱくたそ(www.pakutaso.com)より。かんたん表紙メーカー(https://sscard.monokakitools.net/covermaker.html)で作成しました。

土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる