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母の行方〈完〉
しおりを挟む町の寄合の帰り、ついでに古巣である廻船問屋の淡路屋へ寄って話し込んでしまった。すっかり陽の陰る頃となっている。
裏筋から表通りに出た茂三は、早速我が家である仕舞屋の方へ目を遣った。
すると、門口でなにやらおなごが二人揉めている。もしや女房のおよねに何かあったかとあわてて足を早めると、おなごの一人が振り返った。
「あぁ、よござんした。家守さんのお帰りだ」
茂三が淡路屋から任されている裏店の店子のおいくであった。
「こないな往来で、一体どうしたってんだ」
茂三が訝しげに訊ねると、もう一人のおなごがおずおずと顔を上げた。
「——おめぇ……お、おすみじゃねえか」
数年前、亡き父の弟である広島新田藩の藩士が養親となり、青山緑町の藩邸へ引き取っていった丑丸の——母親である。
「運良く御武家の引き取り手があったから良かったってなもんで、お父っつぁんを亡くしたとたん、おっ母さんまで家を出ちまってよ。丑丸はあやうく無宿者になるとこだったんだぜ。
しかも、裏店の連中がなけなしの金を叩いて出し合った線香代まで持ち逃げしやがって。
——今さら、どの面さげて出てきやがった」
茂三の剣幕に、おすみはただただ其の身を縮こませるばかりである。
「あたしはおよねさんに用があって来たんだけど留守でさ。もしかしたら行き違いになったんじゃねぇかって思って踵を返したら、門口の陰におすみさんがいたんだよ。
したらいきなり、家守さんに此れを返しといておくれって渡されてさ」
おいくは三徳袋を持ち上げた。茂三には見覚えがある。弔いの夜におすみに渡した線香代の袋だ。
「あの節はお世話になりっぱなしで、ほんにすまんこってす。……そいじゃ、皆々様どうかお達者で」
おすみは顔を袂で隠すと、くるりと背を向けた。
「あっ、待ちなって。せっかく家守さんが帰ってきたんだからさ。銭はおまえさんの手で返さねぇと」
おいくがおすみの手に三徳袋を握らせた。
そして、ようやくおすみから茂三へと三徳袋が渡されると、
「おいく、悪りぃがおよねを探してきとくれ」
「あいよ、入れ違いでうちに来てっかもしんないね」
おいくは小走りで裏店へと急いだ。
いくら暮れなずんできたとは云え、やはり門口で話していては往来の目につく。茂三はおすみを中へ招き入れようとした。
されども、おすみは頑として戸口までしか立ち入ろうとしない。
「おめぇさん、暮らし向きは大丈夫なのかい」
受け取った三徳袋はずしりと重かった。
「……元いた処に戻りなんしたゆえ。おかげでなんとか抜けた廓言葉もすっかり元どおりになりなんしたが」
おすみは寂しげに微笑んだ。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
おすみの故郷は秩父で、水呑み百姓の家に生まれた。
父も母も夜明けから日が沈むまで畑仕事をして、日が暮れてからも夜なべして働けども、負い目(借金)ばかりが膨れ上がり、ついに娘を女衒に売ることになってしまった。
田舎ではなかなかの器量良しと云われていたおすみは、吉原の大見世「久喜萬字屋」に連れてこられた。
されど、久喜萬字屋ともなればおすみほどの器量良しなぞ掃いて捨てるほどいる。
ゆえに、おすみは通りに面した張見世に座って客引きをし、客がついたら廻し部屋と云う大部屋で春を売る、見世では底辺の「女郎」になった。
廻し部屋では仕切るための屏風が置かれ、その陰で各々の女郎が各々の客に春を売る。
さらに、せっかく引いた客であっても決まった刻が過ぎれば帰らされるため、また張見世に出て客を引かねばならない。
よって、一晩で何人もの客を相手にした。
さような荒んだ暮らしの中で客としてやってきたのが——御武家崩れの山口であった。
故郷の藩を飛び出して来たと云う山口は、どういうわけか大金を持っていた。寝物語に尋ねてみると「養子の縁組を解かれたときの『手切れ金』ゆえ」と嗤っていた。
だが、おすみを身請けするために使ったら、すっからかんになってしまい、御武家でありながらどん底の裏店暮らしをする羽目になった。
日当たり悪しくじめじめと湿気った裏店の片隅で板間の上に座し「子どもの頃は主君に付き従って百姓家に預けられていたゆえ」と云って傘の張り替えや虫籠作りを器用にこなす山口の傍らで、不器用なおすみは繕い物から始まり、浴衣、単、袷と順々に針仕事を覚えていった。
かような中で生まれたのが、一粒種の丑丸だった。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
「おめぇさん、『なんし』っ云うことは……大見世の久喜萬字屋に身を寄せてんのかい」
吉原の廓の大見世には独特の云い回しがあり、中見世や小見世のような「ありんす」言葉はあまり使われぬ。
大見世は語尾に付ける言葉がそれぞれの見世で異なり、松葉屋は「おす」、扇屋は「だんす」、丁字屋は「ざんす」、中萬字屋は「まし」、そして久喜萬字屋が「なんし」と決まっている。
「弔いの夜、久喜萬字屋の男衆に迎えにきてもらいなんした」
其れを裏店の木戸番に見られていたのだ。
「なにゆえ吉原になんぞ……丑丸を置いてけぼりにしてまで……」
苦界と云われる吉原に——今は亡き夫に身請けされて出られた吉原に——自ら舞い戻っていくのが、茂三にはどうしても解せなかった。
「久喜萬字屋ではもう客は取っておらでなんし。わっちは針仕事をしとりんす」
吉原の妓たちにとって指先を傷つけるかもしれぬ針仕事は御法度ゆえ、おすみは久喜萬字屋のお内儀の伝手で住み込みのお針子をしていた。お内儀にしても勝手知ったる元女郎のおすみは重宝だ。
「あの子は……丑丸は……こないな下賎なわっちの胎から生まれるには過ぎた子でなんし。
あの子は——御武家として生きなんし子でありんす」
「だがよ……」
茂三はおすみをじっと見る。
「丑丸が熱を出してこの家で三日ばかり伏せってたときによ、うわごとでさ、
『おっ母さん、なんでおいらを一緒に連れてってくれなかったんだよう』っ云って啜り泣いてたんだぜ」
その刹那、おすみは膝から泣き崩れた。
「およねがいくら親身になって夜通し看てたってさ、本当のおっ母さんにゃあ敵わねえのよ。
きっと御武家の御新造さんだってそうだろうよ」
茂三はさように云うと三和土を上がって家の奥に入って行った。
そしてしばらくすると、一枚の漆喰紙を手に戻ってきた。
「丑丸が八つのときに書いたもんだ。しっかりとした立派な字だ。持って行きな」
止めどなく流れる涙を袖の先で拭うと、おすみは恭しく紙を受け取り、その字をじっくりと眺めた。
「ととさん、かかさん、もとめたし」
「父さん 母さん 求めたし」〈 完 〉
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大林和正さま
本作を最後までお読みくださり、そしてそれぞれの回にご感想を寄せていただき誠にありがとうございましたm(_ _)m
母として、父を亡くした丑丸が武家として生きていくためにはどうすればよいかを考えた末での行動であったとご理解いただければ幸いです笑
私がこれを書きたかったので「ネタバレ」表示をつけさせていただきました(^人^)
えむ3さま
いつも拙作をお読みいただき本当にありがとうございますm(_ _)m
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大林和正さま
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