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御前様の懐刀
しおりを挟む本多髷の頭で縞の着物に平袴の男が、座敷の内に入ってきた。
「——だ、旦那様……なにゆえ、此処に……」
御新造の夫で、安芸国広島新田藩の藩士だった。名を青井 清二郎と云う。
袴姿の青井は武家の形ではあったが、町家の往来で目立たぬよう羽織を脱いだ略装である。
「お嬢——いんや、御新造様、申し訳ねえ。旦那様に告げ口したのは、あたいでやんす」
座敷の外の板間に下女がひれ伏した。下女の注進によって妻の「企て」を知った青井は、近くの水茶屋で此の刻を待っていたのだ。
「——おうめ、まさか……おまえがわたくしを裏切るなぞ……」
御新造がわなわなと無念の唇を噛む。
「御新造様、水茶屋で待っていなすった旦那様を呼びに行ったのはあっしでさ」
後ろで中間の男が同じくひれ伏す。御新造から座敷の外に出されたのを渡りに船とばかりに仕舞屋を飛び出し、青井を呼びに走った。
「なんと、太七まで……」
御新造は絶句した。
「おまえたちに……そないなことをさせるために実家より連れて参ったのではござらんわ」
「——八千代、もうよい」
青井は妻の名を呼んで制した。
「おまえが……其処まで子について思い悩んでおるとは思わなんだ」
「……御武家様、何のお構いもできゃしねぇが立ったまんまじゃなんだ、おい、およね。座布団っ」
見かねた茂三が口を挟んだ。
「あ、あいよ」
女房のおよねが弾かれたように立ち上がって座敷の角にあった座布団を取り、御新造の右隣に置いた。一等ふかっとした座布団はすでに御新造に供したから二番目の物になるが仕方ない。
「かたじけない」
青井は妻の隣に腰を下ろして胡座をかいた。およねは其れを見届けると、茶支度のために座敷から下がった。
夫に向き直った八千代は、滔々と告げた。
「旦那様の下に嫁して三年、されど未だに子の一人も生せず、わたくしは婚家にとっても実家にとっても恥以外の何物でもござらぬ」
青井は懐手をして目を瞑った。
「どうか、わたくしを離縁して新しき嫁御を娶られ、今度こそ嗣子となる御子をもうけなされませ」
八千代は三つ指をつき深々と平伏した。
しばらくして、青井は目を開けて告げた。
「——相分かった」
「旦那様っ」「お待ちくだせぇっ」
下女のおうめと中間の太七が声を揃えて叫んだ。
「黙っておれ」
すかさず一喝される。落ち着いた口調ながらも青井に鋭き目で咎められ、おうめも太七もたちまちのうちに震え上がって項垂れた。
青井が仕える広島新田藩は、安芸国の大藩・広島藩の支藩として今から十年ほど前に立藩が赦された。
支藩を治める藩主には、次男や三男があてられることが多い。本藩に世継ぎが生まれない際には、支藩から供することを求められたゆえだ。
御公儀(江戸幕府)の公方様(将軍)も世継ぎに恵まれない折には、尾張・水戸・紀伊の「御三家」から次の公方様が選ばれる。現に、八代の公方様(徳川吉宗)が紀伊国和歌山藩より千代田のお城に迎えられていた。
広島新田藩もまた、本藩である広島藩の前藩主の三男・浅野 宮内少輔 長賢が初代藩主の座に就いた。
今でこそ初代藩主まで登りつめた浅野 宮内少輔だが、常に長兄や次兄などとの御家騒動の火種になる恐れがあった。それゆえ、生まれてまもなく物心つくまで密かに乳兄弟二人とともに百姓家に預けられていたくらいだ。その乳兄弟のうちの片方が青井だ。
実は「新田藩」は知行(治める土地)を持たず、本藩の広島藩から蔵米三万石を与えられる形をとるため、一年ごとに江戸と領地を往復する御役目(参勤交代)は免れるが、その代わり藩主とその家族は江戸に定府せねばならなかった。
つまり、家臣ともどもいったん江戸へ移ればもう芸州広島の地には戻ってこられない。
さようなこともあり、青井は妻を故郷から連れていくことはしなかった。敢えて江戸府内で生まれ育った八千代を妻として迎えた。
自らはいっさい迷うことなく生まれ育った安芸国を出て江戸へやってきた青井は、そうして浅野 宮内少輔にひたすら付き従っていくうちに、いつしか「御前様(藩主)の懐刀」と呼ばれるようになっていた。
「ちょ、ちょいと、丑丸っ、こんなとこで何してんだえっ。まだ布団の中で寝てなきゃだめじゃねぇかっ」
座敷の外からおよねの金切り声が飛んできた。
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