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御新造さんの心積り

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「……なんだか、ここんとこ『御武家』さんに頭を下げられるねぇ」
   およねが苦笑いする。丑丸に次いで二人目だ。
「さあさ、御新造さん、おもてを上げておくんなせぇ。そんでもって、茶でも飲んでおくんなましよ。珍しい京からののぼり茶でさ」

「かたじけのうござりまする」
   御新造は云われるまま湯呑みを手に取ると、煎じ茶を一口含んだ。かすかな渋みとともに、えも云われぬ香りがすっと鼻に抜ける。

「御新造さんよ、りぃがあっしにゃどうにもせねぇことがあってす」
   茂三も湯呑みに手を伸ばした。
「おめぇさんは先刻さっき、淡路屋の旦那に口止めまでして御家おいえもんには知られとうないっっておいでやしたが……」
   茶をごくりと飲む。正直申せば、かような気取った茶の味はようわからぬ。ただ、渋いだけだ。
「——したら、丑丸を手前てめぇき取って、一体いってぇ何処どこへ連れて行きなさるつもりなんでさ」

   御新造は手にした湯呑みを畳の上に戻した。
「……離縁したらば、嫁ぎ先を出ても兄に代替わりした実家へは戻れませぬ」
   男余りの江戸ではおなごが再嫁するのは至極あたりまえのことである。現におよねも茂三が二人目の連れ合いだ。
   されど、御武家は違う。武家にとっての婚姻は家と家との繋がりだ。よって、其れが絶たれて出戻ってくるなぞ「御家の恥」以外の何物でもない。
 
「わたくしは、昔なじみの淡路屋さんの伝手つてを頼って町家に居を構えとう存じまする。その際おなごの一人住まいは侘しいゆえ、親の居らぬ子を世話してもらって引き取り、我が子同然に育てる心づもりにてござりまする。
   淡路屋さんには其れも含めてさまざまな話を聞いてもらっておりまする」
   いくら昔なじみとは云え、おおよそ交わることのない武家の御新造と廻船問屋の淡路屋が、道理で心やすうしていたわけだ。

   さすれども——

「離縁なすっても実家を頼らず町家で住むってのは、口で云うのはたやすいが……」
   裏店を任されて日々店子たちを見ている茂三の目からは、如何いかにも世間知らずの御武家の娘が戯言たわごとを夢見ているごとく映ってしまう。
「女手しとつで子を抱えての日々の暮らしなんぞ、よっぽどの手に職でもなけりゃ成り立たねえでやんすよ」

   されど、御新造はさような茂三のげんを気にも止めなかった。
「今のわたくしは夫の伝手で、広島新田藩の御前様(藩主)が安芸国より連れてござった奥方様の侍女をしておりまする。
   奥方様は故郷くにに居られた折には、武家でありながらも町家で子どもたちを集めて手習い所を開いておられたそうでござりまする。今も青山緑町の御屋敷で武家の子女を募り、手習い並びに行儀作法を指南されてござりまするゆえ、わたくしもお手伝いしておりまする。
   つきましては離縁して町家へ移った暁には、わたくしもかつての奥方様のように手習い所を開き、町家の子たちを教えて暮らしを立てとう存じまする」

   そして、ふっとわらった。
直参じきさんの娘として生まれても——しがない無役の小普請ゆえ貧乏侍でござんす。表店おもてだなに住む町家の娘の方がずっと、美味しい物を食べ綺麗な着物を着て育ってござるわ」

   旗本や御家人である「直参」(幕臣)は、ほぼ孫子の代に引き継いでやれるとは云うものの、小普請では家禄が三千石に届かぬ上に、無役であらば御公儀より任ぜられる御役目がないゆえ其れに伴う禄もありはせぬ。
   おまけに御公儀からの俸禄は米で賜るため、蔵前に店を構える札差で銭に替えねばならぬが、商売上手の口八丁手八丁ゆえ思いっきり買い叩かれた。

「……なるほどな。さようなことでござったか」
   座敷の出入り口から声がしたかと思えば、すーっとふすまが開いた。

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