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Secret 1
③
しおりを挟むわたしは生まれて初めて「立ってるのがやっと」という状態に陥った。
あわてて、背後の壁に背中を預ける。それでもしっかり踏ん張ってないと、足元からずるずるずる…と崩れ落ちて、リノリウムの硬くて冷たい床にへたり込みそうだ。
突然、耳がぼわんと膜が張ったようになり、たった独り「外界」から遠く離れたところに置き去りにされたみたいになる。
そのくせ、どっ、どっ、どっ…と心臓を叩く鼓動なのか、それとも全身を駆け巡る血流なのか、この身の「内界」から聞こえてくる音が姦しい。
——なんで……なんで、七海なの?
「……下の娘は、上と違ってなんでも一人でやれるような自立したタイプじゃないから、どうにも先々が心配でね。待望の二人目だったのに、切迫早産でかなりの未熟児で生まれてきたこともあって、私も家内もついつい甘くなってしまってな。多少、聞き分けのないところがあるんだが。
それでももし君さえ良ければ、一度会ってみてくれないか?」
父の声がはるか遠くから聞こえてくる。
「あぁ……無理にとは言わないからな。別に私の立場を使って頼んでいるわけじゃないんだ。イヤならほかのヤツをあたるから、遠慮なくそう言ってくれ。それに君のように優秀な者であれば、なにもうちの娘じゃなくても……」
「お嬢さんはなにをされているんですか?」
父の声を田中が遮った。
「あぁ、家内の実家の伝手でね、TOMITAの持株会社に勤めているんだ。……これが、七海の経歴等を記した釣書だ」
父が書類を差し出して、田中が受け取る気配がした。
母方の祖父が三鷹でグループ企業のTOMITA自動車の販売店を経営しているので、妹はTOMITAホールディングスに就職し秘書室で勤務していた。
「正直言って勉強には向かない娘でね。お世辞にも君のような相手を望めるような経歴ではないのだが」
父の声がくぐもった。田中が中身に目を通しているのだろう。
確かにわたしたちのような御三家・女子御三家と呼ばれる超進学校からT大法学部というほどではないが、妹だって「お嬢さん学校」と言われる女子校の中学入試を経て「お嫁さんにしたい」と言われるT女子大を卒業している。
——おかあさんが教頭を務める女子校に入って、女子大には指定校推薦をもらって面接と小論文で進学したけどね。
「僕の妹と同じですね」
田中の声が聞こえてきた。
わたしはいつだったかの呑み会で、彼が妹のことを話していたのを思い出した。
——そういえば、女子校育ちの妹がコンパで呑み過ぎて「悪い虫」にお持ち帰りされないように、二十歳になるとすぐに父親と一緒に「鍛え上げた」とかって、怖ろしいことをさらりと言ってたな。
聞くところによると、その妹はもうすでに成人になって何年か経つというにもかかわらず、その風貌は市松人形のような「美少女」らしい。
「写真を拝見できますか?」
田中が父に尋ねている。
「あ、あぁ……そこに一緒に入ってないか?家内は入れておいたと言っていたんだがな」
しかし、がさがさ音が聞こえてきて中を探しているようだが、どうやら入っていなかったようだ。
——おかあさん、しっかりしてそうで、そそっかしいところがあるからなぁ……
「ないか?弱ったなぁ。肝心の写真がないんじゃ……あ、待てよ」
そう言って、父がごそごそする気配がした。
「GWに家族旅行で伊豆の温泉に行ったんだがな、そこで私が撮った写真があったはずだ」
しばらく間が空く。スマホを操作しているのだ。
「あ、これだ、これだ。この写真が私の一番のお気に入りでね。七海らしさがもっとも表れたベストショットなんだよ」
誇らしげに弾む父の声は、紛れもなく「家での声」だった。部下たちから影で「鬼の事務局長」と怖れられている人と同一人物とは、とても思えない。
——げっ、もしかして、おとうさん、「あの写真」を見せるんじゃないでしょうね?
その写真は、母親似である妹の屈託のない大きな笑顔が印象的な一枚だった。「あぁ、両親や周囲の人たちからかわいがられて大切に育てられてきたお嬢さんなんだな」と思わせるものだった。
だがしかし、海辺で強い潮風に吹かれため、妹のクセのあるふわっとしたセミロングの髪の毛は、無残にも渦巻くように逆立ち、ばっさばさになっていた。
よって、妹からは「速攻でデータ消去」するように「厳命」されていたはずなのに……
どうせだったら、姉妹なかよく満面の笑みで写ってる写真にすればいいのに……
それなら、妹の「ばっさばさ」もマシなのに……
(ちなみに父親似のわたしは、長いストレートの髪をポニーテールにしていたからノープロブレムだ。)
そして、なにより——
たとえ七海の隣でも……せめて「わたしの笑顔」も写ってる写真を彼に見せてよ、おとうさん。
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