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Chapter 5

そのときの「田中さん」⑪

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『おーいっ、市松人形っ!』
 男の子が声を限りに叫ぶ。
『いいか「あこ」!大きくなったら、絶対に迎えに行くからなっ!! ……忘れんなよっ!!』

『大地っ、おまえ、なんてこと言うんだっ!?』
 おとうさんが血相を変えて叫んだ。

『「あこ」っ、おれの名前は「大地」だっ!覚えとけよっ!……忘れんじゃねえぞっ!!』

『亜湖、忘れるんだっ!たった今、この瞬間に、とっとと忘れろっ!!』
 おとうさんは男の子を羽交い締めにして、ずるずる引きずっていた。一刻も早く亜湖の目から引き離したいらしい。

『……「だいち」』

 だが、亜湖はこくっ、と肯いて、男の子の名をつぶやいた。


 ゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜


 亜湖のくちびるから、大地が離れた。
 眠っている彼女のまぶたが震える。やがて、ゆっくりと、亜湖の両目が開いた。

「……上條さん」
 彼女はすぐ目の前に見えた人の名を呼んだ。

   会社での彼の前髪は、ヘアワックスで後ろに流してセットされていた。しかし、風呂上がりの今は無造作に前に下されていて、まるで少年のようだった。

「あなたは……『だいち』なのね?」

「……そうだ」
 男の子——今は大人になった大地が、肯いた。

「待たせたな。……迎えに来たぞ、『あこ』」


 亜湖は夢うつつの中で、その声を聞いた。
から、一瞬、どこにいるのかわからなくて、ぼんやりと目を泳がせた。
 ——リビングじゃない。

 大地の寝室のベッドの上にいた。

 しかも、バスルームから出た時にはきっちりと身に着けていたはずのトップスとフレアスカートがない。つまり、ベビーピンクのキャミソールと、同じ色のブラとショーツしか身に着けていない。

「あ、シワになるから、脱がしといた」
 亜湖をリビングからこの寝室まで、お姫さま抱っこで連れてきた大地が、さも当然のように言った。

 そして今、大地は亜湖に覆いかぶさっている。

 キャミソールはトップスのシフォンの甘さに合わせたベビードール風だった。大地の目が釘付けになっている。完全に煽ってしまっていた。

「あ、あの、上條さん……」
 亜湖はだんだんと状況を把握してきた。
「……今夜は朝まで帰さない、って言っただろ?」
 大地が亜湖の耳たぶを甘噛みしながらささやく。
「それから『大地』だ。……先刻さっき、そう呼んだじゃないか」
 そのまま、大地のくちびるが亜湖の首筋へと下りていく。時折、ちくっ、と痛みが走る。

「……イヤなの」
 思い切って、亜湖がむくっとベッドから半身を起こした。

「怖いのか?……大丈夫だから……おれに任せろ」
 大地が亜湖を腕の中にすっぽり包んだ。そして、ついばむようなキスを何回もする。

「違うの」
 キスの合間に、亜湖は必死で言った。
「このベッドがイヤなの」

「……へっ!?」
 大地が素っ頓狂な顔になる。
「寝心地が悪いのか?……日◯ベッドなんだけどな。星◯リゾートでも使ってるマットレスだぞ?」

「……そんなことじゃないの」
 ベッドはキングサイズで広々としている。マットレスはホールド感が絶妙で、寝心地はものすごくいい。きっと最高級品なんだろう。

「この部屋がイヤなの!」
 ——なんか、駄々をこねる子どもみたいに言ってしまった。

「ホテルの方がよかったのか?……でも、酒を呑んだから車も出せないし。だいたい、もうこんな時間だから、ちゃんとしたホテルはチェックインできないぞ」
 思ったとおり、亜湖の髪を撫でて機嫌を直してもらおうとしている。

「違うの!」

「だから、なにが違うんだ?……言ってくれないとわからない」
 真剣な顔で見つめる大地から、亜湖は目を逸らした。
「亜湖……なにが気に入らないんだ?」
 大地は手のひらで亜湖の頬を包み、自分の方に向けた。

「……ほかの女の人も……来てるでしょ?」
 消え入るほど、小さな声だった。  

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