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Chapter 14
お姑さまから呼び出されてます ③
しおりを挟む「う…鶯谷っ?」
マイヤさんが素っ頓狂な声で叫んだ。目の前の板さんも目を丸くしている。
いつの間にか「料理」から「にぎり」になっていて、鱚の昆布締めがきたときだった。
まだ檜の香る真新しい一枚板のカウンターには、野暮なガラスケースの「ネタ見せ」はない。タネ箱は板さんの手元にあり、お任せだ。
おかげさまで、このようなお店に来てもいっさい緊張することはない。
マイヤさんから「幼い頃から、さぞかし立派なお寿司屋さんで食べてたんでしょうね」と言われたので、「わたしの『お師匠さん』は鶯谷にいました」と言ったら、前述のとおりのレスポンスとなったのだ。
それでも、お寿司屋さんのカウンターでお寿司をつまむなんて、中学校に入るまでは考えられなかった。「大人」が連れて行ってくれなかったからである。
ただ、祖父母も交えて家族でお寿司が食べたいときは、大山町の母屋にお店の人が来てにぎってもらっていたけれど。
八歳下の弟の裕太が小児喘息を患ったため、母親がかかりきりになったこともあって、中学生になる頃の「外食」は父親と二人で行くのが定番になった。
父親はなにを思ってか、中学二年生のわたしを鶯谷の場末のきたない寿司屋に連れて行った。
「……さすがに『改札を出たら、周りは絶対見るな』とキツく言われましたけど」
と言っても、見えてしまうけれども……
十代の好奇心で、結構、ガン見しましたけれども……
陸橋を渡って少し行った先の路地裏に、その店はあった。
夏の暑い時期で、わたしはその店で、生まれて初めて鱧を食べた。
「鱧って、関西の夏の風物詩の?」
マイヤさんの問いにわたしは肯いた。
板さんもちょっと、ん?って顔をした。東京では、なかなか味わえない代物だからだ。
「滑らかな舌触りでした。実はあんなに細かい骨が多い魚で、丹念に包丁で『骨切り』しないと食べられないものだなんて、あのときは思いもしませんでした」
お酒は、奈良の風◯森になっていた。
「板さんは四十歳前後だったでしょうか。わたしが、鱧の洗いを梅肉にするか辛子酢味噌にするか、悩んでいたら両方出してくれました」
冷酒グラスの風の森を呑み干す。微発泡という感じで、適度にしゃわしゃわした感覚が喉に心地よい。
——次は、なにを呑もうかな。
「お寿司屋さんでの食べ方も教わりました。にぎりの前にまず、旬の『お料理』をいただくこととか……」
『……嬢ちゃん、軍艦は醤油を直につけちゃいけねぇよ。キュウリが刺さってっだろ?まずキュウリにつけてから、軍艦に塗るんだよ。もし、キュウリがねぇような気の利かねぇ寿司屋だったらさ、生姜につけてからそれを軍艦に塗るのさ。知ってたら、女っぷりが上がるぜ。覚えときな』
背はそれほど高くなかったけれど、鋭い目でぎろり、と客を見る、いかにも若い頃はやんちゃしてました、という風情の人だった。つまり、元ヤンだ。
思い出すと、自然と遠い目になる。
「でも、高校生になったある日、いつものように父と行ったんですけど、お店が閉まってました。予約していくようなお店じゃなかったので。……本当に突然でした」
流れ板のような人だったから、なにかでしくじったのだろう、と父親がつぶやいていた。
今にして思えば、オンナのことだったかもしれない。子ども心にも、色気のある人だな、とぼんやり思っていたから。
「腕は良かったんでしょうけどねぇ」
マイヤさんがため息とともに言った。
「……そうですね」
わたしは曖昧に笑った。
実は、全然違うことが頭をよぎっていたのだ。
中二の夏……
わたしにとっては鱧を知った夏ではあるが、それだけではない。
——海洋を「知った」夏でもあった。
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