82 / 128
Chapter 13
彼の家から出て行きます ①
しおりを挟むわたしが訊きたかったことの……
——これが、答えだ。
そう、思った。
「……ここは、わたしが使わせてもらってる部屋です」
わたしの声は冷静だった。ただ、奈落の底を這いずるような低い声だったけれど。
「そういうことをするのであれば、ご自分のお部屋でなさったらいかがでしょう?」
将吾さんがかばっ、と起き上がって振り向き、わたしの方を信じられない顔で見ている。「顔面蒼白」っていうのは、こういう顔を言うんだな、と思った。
「あ…彩乃……なんで……もっと遅いのかと……」
——早く帰ってきて、申し訳ありませんでしたね。
「わかばちゃん、わたしの部屋から出て行ってもらえる?」
彼女を見据えて告げる。
彼女は跳ねるように飛び起きたと同時に、モヘアのニットセーターを下ろした。
そして、顔を伏せて、なにも言わず、小走りでわたしの部屋を出て行った。
将吾さんもわかばちゃんも、一応、服は着ていた。
——もう少し遅かったら、最悪だったな。
わたしは隣のパウダールームから、いつも海外旅行に持って行っているハン◯プラスの赤いスーツケースと、国内旅行で使うマイクロモノグラムのキャリーバッグを持ってくる。
赤いスーツケースは、壊れやすいキャスターが日本のトップメーカーのものなのに、東◯ハ◯ズのPBだけあってコスパがすこぶるよい。
海外旅行なんて、いつ何時スーツケースだけが世界の果てへ旅立つかもしれないから、こういうスーツケースで充分だ。
——なんて、言ってる場合ではない。
わたしはフレンチカントリーの白木で猫脚のクローゼットから、スーツやワンピなどを次々と取り出して、赤いスーツケースに入れる。
同じシリーズのチェストからもニットや……下着類だって、将吾さんには目もくれずどんどん取り出して、マイクロモノグラムのキャリーバッグに詰める。
「……あとは、後日、家の者に取りに来させますから」
パッキングを終えたわたしは立ち上がった。
「……彩乃」
後ろで茫然自失のまま、固唾をのんで見ていた将吾さんが、やっと口を開いた。
「おれの話を聞いてくれ」
——今さら、言い訳なんか聞きたくない。
「将吾さん、お義父さまやお義母さまだったら、家柄とかそんなこと気になさらないと思う」
今のわたしは、戦国の世に敵に塩を送ったという上杉謙信の気持ちだ。
「おまえ……なに言ってんだ?」
——戦国武将なんて興味のカケラもないけれど、あなたたちのために「今だけ歴女」になってやるわ。
「わたしのことはまだ挙式前だから、なんとでもなるわ。お義父さまやお義母さまとしっかり話し合って、本当に愛する人を認めてもらって、政略結婚じゃない幸せな結婚をして」
——そう、まさしくそれが「正しい結婚」だ。
「……おまえはまだ、おれとの結婚を『政略結婚』だと思っているのか?」
——そうよ。
わたしたちの間に、お互いの会社の利益のため以外に、なにがあるっていうの?
わかばちゃんを愛するあなたこそ、そう思ってるんじゃない?
わたしは静かに肯いた。
欲のないわたしがかつて唯一望んだ——幼い夢。
“海洋と結婚して、子どもを産み、育てること”
それを失ったあのとき、わたしにはもう必要とするものがなくなってしまった。だから、それからは必要とされるものに身を任そうと決意した。
もし、将吾さんがわかばさんを思う気持ちが、かつてのわたしが海洋を思う気持ちと同じようなものであるなら……
彼が本当に望んでいるのは、わかばさんだ。
——だったら、わたしはあなたに必要とされていないということでしょう?
自分の気持ちに、素直に生きてほしい。
わたしがあのときにしたあんな思いを、ほかのだれにも……
いいえ——将吾さんだけには、してもらいたくないから。
0
お気に入りに追加
166
あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【完結】お飾りの妻からの挑戦状
おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。
「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」
しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ……
◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています
◇全18話で完結予定

五歳の時から、側にいた
田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。
それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。
グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。
前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。

麗しのラシェール
真弓りの
恋愛
「僕の麗しのラシェール、君は今日も綺麗だ」
わたくしの旦那様は今日も愛の言葉を投げかける。でも、その言葉は美しい姉に捧げられるものだと知っているの。
ねえ、わたくし、貴方の子供を授かったの。……喜んで、くれる?
これは、誤解が元ですれ違った夫婦のお話です。
…………………………………………………………………………………………
短いお話ですが、珍しく冒頭鬱展開ですので、読む方はお気をつけて。
私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。
自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。
そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。
好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。
この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる