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第三部「いつか」
第九話
しおりを挟む伯母が伯父の介抱を終えて、座敷に戻ってきた。
「そうじゃ、今日はもう一つ、用があったんじゃ」
彼は思い出したように云った。
「小母さん、竹内先生が置いて行きんさった本を借りたいんじゃが、えぇですか」
と、伯母に頼んだ。
「久しぶりに帰ってきても、旧友たちはみな出征してしもうとるけぇ、暇を持て余しとるんです」
伯母は少し表情を曇らせた。
「護さんの本って……大丈夫じゃろうか」
憲兵に睨まれてこの地にいられなくなり満洲へ渡った、上の娘の典江の夫の本ということで、伯母は躊躇していた。
「心配無用ですよ。当り障りのない本を選んで、借りて行くんじゃけぇ」
彼は平然と答えた。
そのとき、寝間の方から伯父の「おうい、水をくれ」という声がしてきたので、
「ほいじゃあ、なんでも好きなんを持ってってつかぁさい。どうせ、うちゃぁだれも読まんのんじゃけぇ」
と云い残して、伯母はいそいそと台所へ向かった。
「本当に大丈夫ですの。……だって『アカ』の本なんでしょう」
わたしは眉を顰めた。
彼は初めてムッとした顔をした。
「竹内先生は共産主義者じゃないよ。自由主義者だ」
わたしが、どちらでも同じじゃないの、という顔をしたら、
「共産主義はソ連の考えで、自由主義は米英の考え方さ。女子供や憲兵連中にゃ違いがわからねぇだろうが」
彼にしてはめずらしく、ぞんざいな物云いをした。
「日本はソ連とは中立関係だけど、米英とは戦争中じゃありませんか。そんな国の考えなんて、アカよりなお恐ろしいわ」
わたしは身震いして見せた。
「でも、この前きみが読んでいた『谷崎』は、竹内先生の本だぜ」
彼は鬼の首でも取ったかのように、ニヤリと笑った。
——それを云われると、二の句が告げない。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
わたしは彼を伯父の本棚へ案内した。
「典江姉さんの旦那さんのことを、ご存知なの」
早速、何冊かの本を抜き出して、パラパラ捲っている彼に訊ねた。
「ああ、一中で習ったんだ。若くて熱心で、いい先生だったよ。そのときはまさか、親戚になるとは思わなかったけど」
そして、一瞬、遠い目をして、
「戦に征きたくなければ理科系へ進め、って云われてね。一応、そのとおりにしたけど。……結局、征く羽目になったな」
と云って、自嘲気味に笑った。
「お兄さんは海軍兵学校に進まれて、海軍士官になられたのでしょう。あなたは軍人になろうとは思わなかったの」
わたしはさらに訊ねた。
「長兄も僕も、軍人なんてまっぴらだった。次兄だけが、どういうわけか子どもの頃から憧れててね」
彼は捲っていた本を閉じた。
「物怖じしない性格で押しが強いんだけど、なんだか憎めないところがあって、確かに軍人向きの人だったな。子どもの時分から妙に堂々としてて、将来大物になるって周りから云われてたし、両親は一番期待していたと思うよ」
亡き次兄のことを語る彼の表情は、しみじみとしていた。
「でも、兵学校に入ってからは、ほとんど家に寄りつかなくなってね。おふくろは親父のいないとこで、なんであんな学校へやったんだろうってぼやいていた」
それから、パッと笑顔になった。
「そうだ、きみ、知ってるかい。義彦兄貴の……彦兄の見合い相手は最初、典江さんだったんだよ」
——知らなかった。
「ところが、見合い写真を見た彦兄が、たまたま隣に写っていた廣子さんを気に入っちゃってね。一度云い出したら退かない人だから、どうしても廣子さんだって云い張るんだ。親父は、先に妹をもらうなんて非常識だ、って烈火のごとく怒ってね。もう、家中揉めに揉めたよ」
——そんなことがあったんだ。
「結局、典江さんが竹内先生と結婚することになって、望みどおり彦兄は廣子さんを得たわけだけど」
——でも、廣ちゃんの旦那さんは……結婚して間もなく戦死してしまった。
「……工専を卒業したら、旦那さんに先立たれた廣ちゃんと、結婚するはずだったんでしょう」
わたしは、静かに訊いた。
彼は驚いた目でわたしを見た。
それから、目を本棚の方に戻して、
「……そうだよ」
と、同じように静かに答えた。
「廣子さんを初めて見たとき、彦兄が惚れた気持ちがよくわかった。僕も、同じ気持ちになったからね。だから、彼女から離れるために東京の学校へ進学した」
彼は目を瞑った。
「彦兄には悪いけど、代わりに今度は自分が彼女を引き受けることになったときは、正直、うれしかったよ」
彼は目を開けて、うっすらと微笑んだ。
「……でも、廣子さんにはそんな気はなかった。彼女は、一生、彦兄の妻であることを選んだんだ」
寂しげな微笑みだった。
わたしの心がザラッとした。聞かなければよかった。
——こんなふうに後悔したのは、生まれて初めてだった。
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