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第三部「いつか」
第一話
しおりを挟む真夏の強い日差しを避けるために、北向きの仏間で、わたしはのめるようにして本を読んでいた。
こんなふうに本を読むようになったのは、生まれ育った東京から、父の兄である伯父一家が住む、この地へ疎開してきてからである。
女学校へ通っていた頃は、級友たちが「吉屋信子のお話もいいんだけれど、中原淳一の絵が素敵なのよ」と云って回し読みしていた「少女の友」ですら、見向きもしなかった。
そんな自分が今、伯父の本棚から勝手に引っ張り出してきてまで読んでいるなんて、だれが信じよう。
そもそも、本を読むようになったのは、ぽっかり空いた時間に、ほかにすることが見当たらなかったからである。
東京にいた頃は、昼となく夜となく空襲警報が鳴り響くと、すぐさま防空頭巾をかぶって家の裏に掘った防空壕へ飛び込む日々を送っていた。
でも、この地では、空襲警報はおろか警戒警報すらまれにしか発令されない。
この町に、天高く飛ぶB29の機列が来ないわけではない。だけど、いつもそれらはこの地をすーっと通り過ぎて行き、海軍の軍港がある呉の町へ大量の爆弾を落として去って行く。
だから、この町の人たちは暢気である。
国民学校の男の子たちなんて、ふざけて機列に向かって手を振っているくらいだ。もちろん、そのあと大人たちからこっぴどく叱られ、ゲンコツをもらっているけれど。
今、この国の中心地が——東京が、そこで暮らしている人たちが、どんな目に遭っているかなんて、想像もつかないだろう。
汽車に乗ってこの地へやってくる途中、防空により窓に打ちつけられた板の隙間から見た、名古屋も、大阪も、神戸も、どこも東京と同じく焼夷弾に焼き尽くされて、やたら遠くまで見渡せる街に変わり果てていた。
この町だけが、戦時から取り残されているような気がする。
学校を卒業しても結婚せずに家でいる娘は、隣組を通じて軍関係の事務の仕事や軍需工場などへ徴用されるが、ありがたいことに疎開者にはお呼びが掛からない。……と云っても、こちらへ移って間がないため近所には知っている者もいない。
伯母を手伝って家のことをやるにも、女二人なら昼前にはたいていのことが済んだから、夕飯の支度をするまでの昼下がりは、隣組ごとに割り当てられた、戦地へ送る慰問袋などを縫うくらいしかなにもすることがなかった。
昼間唯一の話し相手である伯母は、大日本婦人会の役を引き受けていたので、町内の防空演習などに関する寄り合いで留守がちだった。
そこで、伯父の本棚から本を抜き出して読むようになったのだ。
伯父には娘が二人いるから、本棚には吉屋信子や村岡花子など女学生が読むような本もあったし、そういうものであれば断りを入れて堂々と読むことができたが、やはり自ら読んでみたいと思うものではなかった。
わたしが興味を引かれたのは、谷崎潤一郎だった。
今読んでいるのは「痴人の愛」だが、とてもとても嫁入り前の娘が読むものではない。伯父に知られたらきっと、東京にいるわたしの父に申し訳が立たないと云われるに決まっている。
だけど、谷崎の本を読んでいるときだけは、今戦時の真っ只中にいることも、一日中お腹が空いて空いて堪らないのも、忘れられた。
徴用がない代わりに配給もない疎開者のわたしが食べる分は、伯父・伯母そして下の従姉の廣子の三人分の配給分から捻り出されている。「お腹が空きました」とは口が裂けても云えない。
わたしのせいで、余処の家よりもひもじい思いをさせているのだ。
だから、配給切符を持って並ぶのは、わたしの「仕事」だ。
手にするまでかなり時間がかかることもあるが、いつ鳴るか知れない空襲警報に怯えながら、長い行列の中でひたすら待っているのに「遅配になった。明日来とくれ」とすげなく云われる東京に比べたら、はるかにマシだった。
上の従姉の典江は、夫と子どもたちと満洲にいるので、この家にはいない。
婿養子に入った従姉の夫は、この地の名門校である廣島一中の先生だったのだが、生徒に「アカ」を教えたとかいう密告があって、憲兵に引っ張られそうになった。
だから、伯父が方々に手を回して、内地に比べて風紀の緩い満洲へ渡る手はずを整えたそうだ。
父が声を潜めて母に話していたのを聞いたことがある。
わたしはうちの親戚にそんな恐ろしい人がいるなんて、とびっくりした。
この本は、もしかしてその人が置いていったものかもしれない。国の統制下にある水産会社に勤める、お堅い気質の伯父が読む本だとはとても思えなかった。
だけど、こんな非国民の塊のような中身の本が、つい何年か前まではちゃんと出版され、本屋に並んでいたかと思うと信じられない気がする。
わたしがのんびりとこんな本を読んでいる間にも、大陸でも南方でも、たくさんの兵隊さんが外地で闘っている。もしかしたら、たった今、内地でも禍々しい米軍の空襲に曝されているところがあるかもしれない。
だが、そんな非常時にもかかわらず、わたしは谷崎の耽美な世界に引き込まれている。
不意に、玄関で訪いの声がした。
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