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第二部「さくら、さくら」
最終話
しおりを挟むそれから、廣子が望んだ旅館の裏の溝に蛍を見に行った。
夜闇に包まれた溝沿いに並んで植えられた新緑の桜の木々の下、生い茂った草むらの至るところで仄かな光が瞬いていた。
「……きれぇ……じゃね…ぇ……」
廣子は目を細め、うっとりしてつぶやいた。
蛍は、雄と雌が互いを誘い合うために光を放っていると云う。
ここには一体、どれだけ多くの蛍が相手を探していることだろう。
果たして、こいつらは自分に合う「伴侶」を見つけ出し、誘い出せるのだろうか。
わしは、蛍の光をまっすぐに見つめる廣子の横顔を見た。そこには、初めて見たときの「あの」目があった。
——わしゃ、こいつを、きしゃっと見つけ出し、誘い出したけぇのう。
心の中で蛍たちに云ってやった。
海軍の上官が「早く妻を娶れ」と口を酸っぱくして云うのが、身に沁みてわかった。
男は、身体を張って守るものがあってこそ、初めて本当の仕事ができる。自分のような、命を懸けて闘う仕事は猶更だ。
今まで、自分が軍人としていかに曖昧に「殉国」というものを考えていたかを思い知らされた。
海軍兵学校に入学したときから、わしはいつでも命を捨てる覚悟はできていると思っていたが、それは甘い感傷でしかなかった。
「廣子」というはっきりとした守るべき存在ができて、わしはやっと一人前の帝国海軍軍人として任務に打ち込めそうだ。
今こそ、胸を張って堂々と云える。
——わしゃぁ、わりゃぁ守るために、国を護るんじゃ。そのためになら、いつでも潔く、命を捧げてやろうと……
「……休暇の前には、しゃんとうちに連絡してつかぁさい」
廣子が蛍を見たまま云った。
「うち、義彦さんがおるとこなら、どこへでも参りますけぇ」
わしは廣子の小さな肩に手を置き、
「心配せんでも、必ず電報打つけぇのう」
笑いながら答えた。
「うちを呼ばんで、内緒で芸者遊びなんかせんでね」
廣子はまったく表情を変えずにさらりと云った。
わしの顔からすうーっと笑みが消えた。
「なに云うんじゃ。わしゃ、今は海軍の中では堅物じゃと云われとるんに」
わしは慌てて云った。
おそらく神谷の薫子から、なにか聞いたのだろう。確かに、奴とつるんで散々遊んだのは事実だが、それは少尉になったばかりの頃で今となっては昔の話だ。
しかし、廣子はわしの云い分を全く聞いていないようだった。
「……うち、そんとなの、許せんけぇ……」
蛍から目を離さず、そうつぶやいた廣子の声は、ゾクッとするような凄みがあった。
たとえ、敵機と空中で一騎打ちすることになっても、ここまでわしの肝は冷えないだろう。
なんとなく気まずい空気が流れ、しばらく二人とも黙りこくっていた。
だが、このままでは埒が開かないので、わしは廣子の顔を覗き込んだ。
すると、いつの間にかおまえの目はいっぱいの涙を湛えていた。
「……うち、本当は……家に去にとうなぁで……」
振り搾るような声で云い、その目から涙がぽろぽろぽろっと溢れ落ちた。
そして、顔を両手で覆い、まるで幼子のように泣きじゃくった。
わしは苦笑した。やはりまだまだ子どもである。軍人の妻になろうという女が、こんなに泣いてばかりでは困ったものだ。
——ちいっとばかり、甘やかし過ぎたんかもしれんのう。今のうちに、心構えを説いておかんと。
わしは心を鬼にして一喝してやろう、と思ったが、つい廣子をやさしく抱き寄せてしまった。
廣子はわしの腕の中で、さらに激しく声を上げて泣いた。
——甘えさすんは今夜限り、じゃけぇのう。
わしは、抱きしめた廣子の背中をさすりながら、傍らに立つ桜の木を見上げた。
溝の脇に続く桜並木は、春になればきっと見事な花が咲く、桜の花道になることだろう。
その頃にまた、廣子と一緒にここへ来て眺めたいものだ。
そのとき、ふと思った。
——わしゃ、その桜を見れるんじゃろうか。
今の現状から鑑みると、アメリカとの関係は好転の兆しは見えず、ますます悪化の一途を辿ると思われる。それに備えて、賜暇が終われば再開される飛行訓練は、さらに苛烈さを極めるであろう。
何度でも云う。
わしはいつでも廣子のために死ねる。
——だが、わしがいないともう生きていけそうにないこんな廣子を、だれが遺して逝けるものか。
「……君がため、惜しからざりし命さへ、長くもがなと思ひけるかな……」
〈きみのためなら惜しくはない命なのに(想いを遂げた今となっては)長く生きられるものならば生きたい、と思ってしまうのだ〉
わしは昔の歌人が詠んだその歌を呟いた。
そして、廣子をさらに強く抱きしめた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
*きしゃっと ー ちゃんと
第二部「さくら、さくら」〈 完 〉
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