遠い昔からの物語

佐倉 蘭

文字の大きさ
上 下
18 / 46
第二部「さくら、さくら」

最終話

しおりを挟む

   それから、廣子が望んだ旅館の裏のみぞに蛍を見に行った。

   夜闇に包まれた溝沿いに並んで植えられた新緑の桜の木々の下、生い茂った草むらの至るところで仄かな光が瞬いていた。

「……きれぇ……じゃね…ぇ……」
   廣子は目を細め、うっとりしてつぶやいた。

   蛍は、雄と雌が互いを誘い合うために光を放っていると云う。
   ここには一体、どれだけ多くの蛍が相手を探していることだろう。
   果たして、こいつらは自分に合う「伴侶」を見つけ出し、誘い出せるのだろうか。

   わしは、蛍の光をまっすぐに見つめる廣子の横顔を見た。そこには、初めて見たときの「あの」目があった。

——わしゃ、こいつを、きしゃっと見つけ出し、誘い出したけぇのう。

   心の中で蛍たちに云ってやった。


   海軍の上官が「早く妻を娶れ」と口を酸っぱくして云うのが、身に沁みてわかった。
   男は、身体からだを張って守るものがあってこそ、初めて本当の仕事ができる。自分のような、命を懸けて闘う仕事は猶更なおさらだ。

   今まで、自分が軍人としていかに曖昧に「殉国」というものを考えていたかを思い知らされた。
   海軍兵学校海兵に入学したときから、わしはいつでも命を捨てる覚悟はできていると思っていたが、それは甘い感傷でしかなかった。
   「廣子」というはっきりとした守るべき存在ができて、わしはやっと一人前の帝国海軍軍人として任務に打ち込めそうだ。

    今こそ、胸を張って堂々と云える。

——わしゃぁ、わりゃぁ守るために、国をまもるんじゃ。そのためになら、いつでも潔く、命を捧げてやろうと……


「……休暇の前には、しゃんとうち・・に連絡してつかぁさい」
   廣子が蛍を見たまま云った。
「うち、義彦さんがおるとこなら、どこへでも参りますけぇ」

   わしは廣子の小さな肩に手を置き、
「心配せんでも、必ず電報打つけぇのう」
   笑いながら答えた。

「うちを呼ばんで、内緒で芸者遊びなんかせんでね」
   廣子はまったく表情を変えずにさらりと云った。

   わしの顔からすうーっと笑みが消えた。

「なに云うんじゃ。わしゃ、今は海軍の中では堅物じゃと云われとるんに」
   わしは慌てて云った。

   おそらく神谷の薫子エンゲから、なにか聞いたのだろう。確かに、奴とつるんで散々遊んだのは事実だが、それは少尉になったばかりの頃で今となっては昔の話だ。

   しかし、廣子はわしの云い分を全く聞いていないようだった。

「……うち、そんとなの、許せんけぇ……」

   蛍から目を離さず、そうつぶやいた廣子の声は、ゾクッとするような凄みがあった。
   たとえ、敵機と空中で一騎打ちすることになっても、ここまでわしの肝は冷えないだろう。


   なんとなく気まずい空気が流れ、しばらく二人とも黙りこくっていた。

   だが、このままではらちが開かないので、わしは廣子の顔を覗き込んだ。
   すると、いつの間にかおまえの目はいっぱいの涙をたたえていた。

「……うち、本当ほんまは……家ににとうなぁで……」

   振り搾るような声で云い、その目から涙がぽろぽろぽろっとこぼれ落ちた。
   そして、顔を両手で覆い、まるで幼子のように泣きじゃくった。

   わしは苦笑した。やはりまだまだ子どもである。軍人の妻になろうという女が、こんなに泣いてばかりでは困ったものだ。

——ちいっとばかり、甘やかし過ぎたんかもしれんのう。今のうちに、心構えを説いておかんと。

   わしは心を鬼にして一喝してやろう、と思ったが、つい廣子をやさしく抱き寄せてしまった。
   廣子はわしの腕の中で、さらに激しく声を上げて泣いた。

——甘えさすんは今夜限り、じゃけぇのう。

   わしは、抱きしめた廣子の背中をさすりながら、傍らに立つ桜の木を見上げた。
   みぞの脇に続く桜並木は、春になればきっと見事な花が咲く、桜の花道になることだろう。
   その頃にまた、廣子と一緒にここへ来て眺めたいものだ。

   そのとき、ふと思った。

——わしゃ、その桜を見れるんじゃろうか。


   今の現状からかんがみると、アメリカとの関係は好転の兆しは見えず、ますます悪化の一途を辿ると思われる。それに備えて、賜暇ほうかが終われば再開される飛行訓練は、さらに苛烈さを極めるであろう。

   何度でも云う。

   わしはいつでも廣子のために死ねる。

——だが、わしがいないともう生きていけそうにないこんな廣子を、だれが遺して逝けるものか。

「……君がため、惜しからざりし命さへ、長くもがなと思ひけるかな……」
〈きみのためなら惜しくはない命なのに(想いを遂げた今となっては)長く生きられるものならば生きたい、と思ってしまうのだ〉

   わしは昔の歌人が詠んだその歌を呟いた。

   そして、廣子をさらに強く抱きしめた。




┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
*きしゃっと ー ちゃんと


第二部「さくら、さくら」〈 完 〉
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

鄧禹

橘誠治
歴史・時代
再掲になります。 約二千年前、古代中国初の長期統一王朝・前漢を簒奪して誕生した新帝国。 だが新も短命に終わると、群雄割拠の乱世に突入。 挫折と成功を繰り返しながら後漢帝国を建国する光武帝・劉秀の若き軍師・鄧禹の物語。 -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 歴史小説家では宮城谷昌光さんや司馬遼太郎さんが好きです。 歴史上の人物のことを知るにはやっぱり物語がある方が覚えやすい。 上記のお二人の他にもいろんな作家さんや、大和和紀さんの「あさきゆめみし」に代表される漫画家さんにぼくもたくさんお世話になりました。 ぼくは特に古代中国史が好きなので題材はそこに求めることが多いですが、その恩返しの気持ちも込めて、自分もいろんな人に、あまり詳しく知られていない歴史上の人物について物語を通して伝えてゆきたい。 そんな風に思いながら書いています。

バッサリ〜由紀子の決意

S.H.L
青春
バレー部に入部した由紀子が自慢のロングヘアをバッサリ刈り上げる物語

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

13歳女子は男友達のためヌードモデルになる

矢木羽研
青春
写真が趣味の男の子への「プレゼント」として、自らを被写体にする女の子の決意。「脱ぐ」までの過程の描写に力を入れました。裸体描写を含むのでR15にしましたが、性的な接触はありません。

虹ノ像

おくむらなをし
歴史・時代
明治中期、商家の娘トモと、大火で住処を失ったハルは出逢う。 おっちょこちょいなハルと、どこか冷めているトモは、次第に心を通わせていく。 ふたりの大切なひとときのお話。 ◇この物語はフィクションです。全21話、完結済み。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

明日の海

山本五十六の孫
歴史・時代
4月7日、天一号作戦の下、大和は坊ノ岬沖海戦を行う。多数の爆撃や魚雷が大和を襲う。そして、一発の爆弾が弾薬庫に被弾し、大和は乗組員と共に轟沈する、はずだった。しかし大和は2015年、戦後70年の世へとタイムスリップしてしまう。大和は現代の艦艇、航空機、そして日本国に翻弄される。そしてそんな中、中国が尖閣諸島への攻撃を行い、その動乱に艦長の江熊たちと共に大和も巻き込まれていく。 世界最大の戦艦と呼ばれた戦艦と、艦長江熊をはじめとした乗組員が現代と戦う、逆ジパング的なストーリー←これを言って良かったのか 主な登場人物 艦長 江熊 副長兼砲雷長 尾崎 船務長 須田 航海長 嶋田 機関長 池田

処理中です...