遠い昔からの物語

佐倉 蘭

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第一部「初めて」

第二話

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  今まで——と云ってもまだ二度しか会っていないが、うちは軍服姿の間宮中尉しか見たことがなかった。見合いの日も、結納の日も、真っ白な海軍の軍服を着て、軍帽を身につけていた。

   だから、部屋の中にいる着流し姿の中尉が、首をこちらへ向けたとき、一瞬だれだかわからなくて、反射的に後ずさりしてしまった。

   仲居から笑いながら促されたので、うちは部屋の中へ入った。部屋には既に御膳が置かれていた。
   窓の外を見ると、もう宵が迫っていた。

   うちは間宮中尉の対面の座蒲団に腰を下ろした。仲居が茶の用意を始めたので、
「うちがやりますけぇ」
と云って引き取った。
気兼きがねなことですのう。ほいじゃぁ、邪魔者はぬるけぇ、ゆっくらしてつかぁさいよう」
   仲居は「どっこらしょ」と腰を上げて、部屋を出て行った。

「わしゃぁ、もう呑んどるけぇ、茶はえぇぞ」
   間宮中尉はそう云って猪口ちょこをひょいと上げた。
   うちは慌てて、銚子を取ってその猪口に酒を注いだ。
   中尉は注がれた猪口をぐっと一息で飲み干し、パッパッと猪口を二振りほどしてから、それをうちに渡そうとした。

「……うちはお酒は呑めんけぇ」
   うちは俯いて小さな声で云った。

「ほうか。ほいじゃぁ、なんでも好きなもん喰えや」
   中尉はそう云って手酌で酒を注ごうとしたので、うちはまた慌てて、銚子を取って注いだ。


   初めて会った見合いの日、間宮中尉はうちの顔を見るなり軍帽を取って脇に挟み、足をピシッと揃えたと思ったら、直立不動の体勢から、いきなりカクッと腰を垂直に折ってこうべを垂れた。
   それは、頭を下げているのにもかかわらず、全く卑屈さを感じさせない、惚れ惚れするほど美しい「最敬礼」だった。
   そして、海軍士官ともあろう人が、初対面の、しかも女学校を出たばかりの自分のような者に最敬礼するのは考えられないことだったので、ものすごく驚いた。

   だけど、軍服姿の間宮中尉は年齢よりもずっと上に見えて近寄りがたく、うちには怖い人に思えた。
   だから、見合いの日も、結納の日も、顔すらまともに見ることができなかった。

   今、目の前にいる中尉は、涼やかな麻の白縞を身に纏っている。それを爽やかに着こなす、二十代半ばの若々しい青年がそこにいた。
   軍服のときはオールバックに髪を撫でつけていたが、今はポマードをつけていないらしく、さらさらした前髪が額にかかっていた。軍人というよりは、大学生か文士といった風情であった。

   怖い人にはとても見えない。

   それでも、結局、中尉の顔をまっすぐには見られなかった。


「箸が進んどらんのう。口に合わんか」
   俯きがちなうち・・の顔を覗き込むようにして間宮中尉は云った。

   うちはぶんぶんと頭を振った。

   日支事変が始まった当初は、内地の生活はほとんど変わらなかったから、遠い大陸での話だと思っていた。ところが、長引くにつれて、だんだん物が出回らなくなってきて、木綿などの生活必需品の統制が始まった。そして、とうとうこの春、大都市から順に米までもが配給になった。
   御膳にあるのは、今では手に入りにくくなった「御馳走」ばかりだ。都市まちに住んでいるとは云え、海のそばにあるから魚は比較的手に入るが、ここに並んだ魚はそれとは別格だ。魚のような海の幸だけではない。山の幸も用意されていた。
   これが「軍の力」なのだろう。


   なんとか夕飯を終えた。

   間宮中尉は食事の前にすでに一風呂浴びているというので、うちは風呂へ行くための支度をして、部屋の外へ出た。
   とたんに、ふーっと身体からだ中の力が抜けるような息を吐いた。相当、気づまりだったらしい。

——こがぁな按配あんばいで、ほんまにあんなぁあの人と夫婦になって一緒に暮らせるんじゃろか。

   そう思うと、気が重くなった。


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*きがねな ー 申し訳ない・遠慮する
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