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巻末「仕舞」
其の伍〈完〉
しおりを挟む「えっ、おるいじゃねえのか」
与太は素っ頓狂な声で叫んだ。
「ば、馬鹿野郎っ。見合いに来て別の女の名前云う奴があるかっ」
父の甚八から思いっきり頭を叩かれた。
「いってぇ……」
与太は叩かれた頭を摩る。
「この唐変木っ、恥ずかしいったらありゃしない。……お内儀さん、御免なさいましよ」
母のおふさがお内儀にぺこぺこ頭を下げる。
「いやいや、いいんだよ。この間与太には気を持たせるようなこと云っちまったからね。堪忍しとくれよ」
今度はお内儀の方が頭を下げる。
「ほら、あのときお忍びで来なすった御武家の御仁がいなすっただろ。その御仁の御付きの人——『近侍』って云ったかねぇ。
そん人がさ、おるいのことを滅法気に入っちまってさ、おるいも満更でもなさそうだったんで、とんとん拍子に嫁ぎ先が決まったんだよ。
そいで、どっか御武家さんの養女に入んなきゃ嫁げねぇってんで、おるいはすぐに店を辞めちまったのさ」
「いやぁそいつぁ、目出度ぇな。茶汲み女が御武家に嫁ぐなんざぁ、まるで『笠森お仙』じゃねぇのよ」
「与太、おなごは変わり身が早いんだかんさ、いつまでも手前のこと好いてるって思ってるなんざ、それこそ思い上がりだってんだよ」
——なんだ、おるいじゃなかったのか……
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
此の水茶屋には御用向きで数えきれないほど来ているが、与太が奥の座敷の間へ入るのは初めてだった。
座敷の中央には大きな屏風が置かれていた。
——へぇ、結構ちゃんとした見合いだったんだなぁ……
初顔合わせではまだ互いの顔を見合わせないのが、本来の「見合いの仕来り」だ。
ゆえに、隣の間があるときは仲人を介して襖や障子越しに話をする。
だが、この店の奥の座敷は一間しかないため、屏風で仕切っているのである。
すると、そのとき……
——ちりりん……
「鈴の音だ……」
何処から聞こえてくるのか、与太は辺りを見回す。
——ちりりん……
屏風の向こうから聞こえてきた。
与太は其の音に魅入られたかように屏風へと近づいていく。
そして、其の前に立ったかと思うと、いきなり屏風をがたっと持ち上げた。
「お、おい、与太っ、てめぇ何してやがんだっ。礼儀知らずにも程があるぜっ」
「きゃあ、与太、今日のあんたはおかしいよっ、一体どうしちまったんだよっ」
父も母も息子が狂気乱心したと思って、慌てて制する。
仲人の主人夫婦も与太の乱行にすっかり固まっている。
だが、与太は一向構うことなく持ち上げた屏風の蛇腹をたたんで脇へ置く。
「あぁ、畜生……せっかく身を固めてもらえるって思ってたのによぉ……これで今日の見合いは御破算だ……」
「こんな子に育てちまって……あたしゃもう……世間様に顔向けなんかできゃしないよ……」
父母はへなへなとその場へ座り込んでしまった。
与太は、屏風がすっかり取り払われて現れたおなごを見た。
尼削ぎに切り揃えられたお河童頭であるが、華奢なか細い首がすっかり見えるほど、其の髪の長さはひどく短い。
だが、その愛らしさから市松人形のごとく見えなくもない。
否や——与太が其のおなごを見るから、さように見えるのかもしれぬ。
「おすて……」
与太はおなごに向かって名を呼んだ。
だが、おなごは首を左右に振った。短すぎる髪が、其のふくりとした頬を打つ。
そして——帯に挟んだ猫の根付から「ちりりん」と鈴の音がした。
「『お捨』じゃのうて『お拾』だいねぇ」
おなごは、はっきりと告げた。訛りに対して卑屈に思う素振りなど、まったくなかった。
「あっ、お、おひろはついこの前秩父から江戸に出て来たんだってよ。けど、北町奉行所の同心・島村 勘解由様から来た縁談だかんさ。おひろの身元は島村様のお墨付きだよ」
我に返った店の主人が教えてくれる。
「——親父、おふくろ」
与太はくるりと振り返って、父と母を見た。
「おいらと、この『おひろ』を……是っ非とも夫婦にさしとくれよ」
「お、おめぇ、おひろちゃんに一目惚れしたのかっ……いや、だからって……そんないきなり……」
「そうだよ、あんたが良くったって、おひろちゃんの方があんたみてぇな乱暴者、願い下げだっ云うんだよっ」
「おひろ」
与太はおひろを見た。
「おめぇは、おいらのこと『願い下げ』か」
——もしかしたら、彦左の方が良かったんじゃねえのか。
あの火事で助け出したのは確かに与太かもしれないが、彦左が「鈴」のことを教えてくれなければ、与太には見つけだせなかった。
そして——
彦左がおすての髪を切ってくれなければ「おひろ」にはなれなかった。
きっと「羽風」として今でも久喜萬字屋で春を鬻いでいたはずだ。
それに、もし彦左が生きていたら、いつかおすてを迎えに戻ってくるかもしれない——
されども——
おひろはふるふると首を左右に振った。また短すぎる髪が、ふくりとした其の頬を打つ。
ちりりん、と鈴の音もする。
「末長うよろしゅうお願ぇするでがんす」
おひろは三つ指揃えて頭を下げた。久喜萬字屋で仕込まれた綺麗なお辞儀だ。
「えっ、こ、こんな奴でもいいってのか……」
とても江戸の町火消し「は組」の頭として、いつも若い者に発破をかけている「鯔背な男」とは思えぬ間の抜けた面で、甚八はつぶやいた。
「あんた、せっかくおひろちゃんは『末長う』っ云ってくれてんだからさ、今のうちに……」
おふさは夫の袂をぐいぐい引っ張る。
すると、甚八は振り向いて店の主人に向かって声を張り上げた。
「主人っ、祝いだ、祝い酒だっ。江戸中の酒を持ってきてくんなっ」
されど、与太は父を止めた。
「親父、ちょいと待っとくれ。一つ頼みがあんだ」
「おう、なんでも云いねぇ」
浮かれた甚八は上機嫌で応じた。
「伊作の親分が奉行所に十手を返すっ云ってて、松波様から十手持ちにならねえか、って云われてんだ。だから——」
十手を持つ、と云うことは「岡っ引きになる」ことだ。
「祝言を機に——おいらに祖父ちゃんの『辰吉』を名乗らせてくんねえか」
「江戸の番人 ~吉原髪切り捕物帖~」〈 完 〉
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wisteriaさま
最後までお読みくださりありがとうございます🙇🏻♀️
なんとか完結できました!
(大団円ではありますが約一名可哀想な人がいます。その養父は美味しいところを掻っ攫っていきましたけど笑)
そうです!関白様のエピソードにあやかりました!