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巻末「仕舞」

其の弐

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「ところで旦那さま、羽衣姐さんは息災でござったか」

   美鶴が「舞ひつる」であったときの姉女郎・羽衣は広島新田しんでん藩主・浅野 近江守の側室となり、青山緑町の浅野屋敷に移った。今は羽衣の真名まなから「千景ちかげの方」と呼ばれている。
   羽衣は「捨てた名ゆえ」と云って、だれにも其の真名を明かさなかった。ゆえに、近江守ですら知ったのは我が側室に迎えてからである。

「息災ではあろう。御前様が奥に引っ込めておるだけで」
   羽衣だって格子はないが「座敷牢」だった。ただ、納戸のごとき三畳間に一日中いても平気の平左な人である。周囲が案じるほどのことではないかもしれぬ。

「——それでだな、此度の件は本日で一句切りでござろうと思うのだが……」
   急に兵馬の歯切れが悪うなった。

「さようでござりましょうが、何か」
   美鶴はきょとんとする。

「いや、その……以前に『そなたに、三年の猶予を与える』と申したことについてだが……」
   兵馬が時折口ごもりながら云えば、美鶴が「あぁ」と合点がいった顔になる。

「まだ、さようなことを仰せでござりまするか」
   美鶴はあっさりと返した。

   此れから「武家の女」として生きていく美鶴にとっては渡りに船の話である。

「わたくしもそろそろ、松波家の嫁としての務めを果たさずば、肩身がせもうござりまする。
   特に、和佐殿は嫁入って立て続けに子を上げてござるのに、このままでは舅上ちちうえ様にも姑上ははうえ様にも申し訳が立ちませぬ」

   男子おのこであろうと女子おなごであろうと、子を産まねばいずれ兵馬から離縁を云いわたされるやもしれぬ。
——または、旦那さまが余所よそでこしらえた子を育てねばならぬかも……
   いずれも、絶対に避けねばならぬ。

「そ、そうであったか……そ、それは悪いことをした……」

   今までの美鶴であらば、「はしたなき女、やはりくるわおんなか」と思われるのがいやでなにも云えなかった。
   だが、しかし——

   あのような火事場の炎と煙の中から、実の父親に救い出されて……
   そして、松波家に帰ってこられたのだ。
   なにも恐れるものはなかった。

「武家の妻女は旦那さまに呼ばれませぬとお部屋に参れぬ、と聞いておりまする。旦那さま、どうか今宵からでもわたくしをお部屋にお召しくださいませ」
   美鶴は三つ指をついて平伏した。

「そ、そうか、相分あいわかった。だが……良いのか……その……あの同心とは……」

「『同心』とは………」
   美鶴はしばし首を傾いだが、やがて——

「まさか……島村の家の広次郎ひろじろう殿のことでござりまするか」
   さように云うと、袖先で口元を隠して笑い出した。

「な、なんだ、何がおかしい」

「わたくしはもう松波家の者にてござりまする。確かに、前に広次郎殿からお話がござったが、向こうもいつまでも人の妻のことなぞ思うてはおりませぬ。
   ……あぁ、おかしゅうござりまする」

——いや、おかしゅうはないぞ。あの同心は今でもおまえを思い続けてると思うが……

「とにかく、旦那さま」
   美鶴は居住まいを正し、表情を改めた。
「末長く、よろしゅうお頼み申しまするゆえ」
   そして、再び三つ指ついて平伏した。


゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚


   和佐は、畳に額を擦り付けて平伏していた。
「旦那さま、たいへん申し訳のうござりまする」

   目の前の夫は、今までに見たことのないほど立腹していた。
「『髪切り』の捕物のあとは何処どこせわしゅうしておったものゆえ、本日、久しぶりにおまえの兄とすれ違って話をしたならば……」

   和佐はこうべを下げたままだ。

「子ども二人と松波の実家さとで厄介になっているものとばかり思うておったのに…… 
   まさか、おまえがみずから『おとり』となって……よ、吉原の……く、廓なんぞに入っていたとは……」

   夫の本田 主税ちからは奉行所勤めといえども、松波の家とは違い市井に出て町家の者と関わることがないゆえ、「吉原」だの「廓」だのは話にしか聞いたことがないのだ。

「もともと覚悟の上で、しかも兄に無理を申して参った次第でござりまする。……さすれば」
   和佐はようやくおもてを上げて夫を見た。

「わたくしを……離縁してくださりませ」

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