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巻末「仕舞」

其の壱

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「……旦那さま、お帰りなされませ。夕餉はお召し上がりと伺っておるゆえ、御酒ごしゅにてござりまする」
   美鶴は座敷の入り口できちっと正座し、平伏した。

「あぁ、入れ」
   松波 兵馬ひょうまは妻女を座敷の中へ招じた。

「御無礼つかまつりまする」
   美鶴はたおやかに立ち上がり、酒を携えて座敷に入ってきた。


   そして、酌をして兵馬がくっと一杯って人心地ついた頃、尋ねた。
「……御前様は何と」

   本日、兵馬は広島新田しんでん藩 三代藩主である浅野 近江守おうみのかみに招ばれて、青山緑町にある御屋敷へ参っていた。
   先般よりちまたを賑わせてきた「髪切り」に関して、近江守の「預かり」になっていた一部始終を聞いてきたのだ。

「今から申すことは他言無用であるぞ。必ず、墓場まで持って行け。よいな」
   美鶴はしかと肯いた。平生は町家の砕けた言葉である夫が、武家の言葉で話したときからわかっていたことだ。

「……やはり、奥方様が命じてござったことであった」
   回りくどいことを好まぬ夫らしく、単刀直入に告げた。
「岡っ引きの伊作の女房もまた、やはり奥方様が安芸国から青山緑町に輿入れの際に侍女として連れてきた『加代かよ』と云う女であった。
   安芸国・広島藩の藩士の娘だ。青山緑町の御屋敷を出て、三ノ輪で小間物屋を始めたのも奥方様の指図だ」

   また酒をる。今宵の酒は御前様より賜った安芸国の西条酒である。灘や伏見と並び称されてもおかしくはないほどの銘酒であるが、残念ながら江戸では滅多にお目にかかれない。

「彦左なる者の素性もわかったぞ。
   母親はおまえも知ってのとおり、吉原のくるわで昼三だったおんなだ。その『娼方あいかた』であったのが、御前様近江守の奥方様の父だったそうだ。広島藩主の親戚筋で家老だ」

「と云うことは……彦左が『あの方』と申していたのはやはり……」
「奥方様であるな。奥方様は末娘らしいから彦左の母よりも歳は下であろうから『叔母』にあたる」

「されど、いくら『叔母と甥』であろうと、彦左は吉原におりまする。どのように知り合えたのでござろうか」
   美鶴は盃に酒を注ぎつつ尋ねる。

「彦左が廓の妓たちと『ねんごろ』にしていたのは、何も今に始まったことではあらぬ。妓たちは『間夫』となった彦左に『外』でさまざまな物を買うてきてもらっておったそうだ」
   間夫とは、廓の妓が「まごころ」を差し出した相手である。妓たちは我が身が彦左の「唯一」だと信じて疑わずに差し出していたことだろう。

「さような中で知り合ったのが、三ノ輪にある加代の小間物屋だが……ところも吉原に近いし、やはり奥方様が初めから彦左に繋がるために、加代に其処そこで店を出させたとしか思えんな……」
   兵馬は酒を口に含みつつ、つぶやいた。
「彦左は加代とも懇ろになっておった」

「まあっ」
   思わず声を上げてしまった。
「なんと節操のない……」
   美鶴には邪気のない少年のごとき笑顔を向けていたと云うのに……

「あの器量であるからな。女の方も放っておくわけがなかろう。初めて見たときは歌舞伎の役者かと思うたぞ」
「さようでござりまするか。わたくしは子ども屋の時分から彦左を見ておりますゆえ、わかりかねまするが」
   廓で生まれた子が生まれてすぐに預けられるのが、子ども屋だ。
「そうか、其れは良かった」
   何故か上機嫌で兵馬はくーっと一杯った。

「それにしても……何故、彦左は『髪切り』になってしもうたのでござりましょう」

「其れも、奥方様にいんがあった。……覚えておるか。奥方様が懐妊された御子をはかなくされたことがあったであろう」
   美鶴は肯いた。あれはまだ「舞ひつる」であったとき、近江守の娼方であった羽衣の御座敷に上がっていた頃だ。

「奥方様は男子誕生を強く望まれるあまり加持祈祷に熱心になり、僧侶や祈祷師を手当たり次第に御屋敷へとお呼びになるそうだ」

「御前様はお止めになられませぬのか」
「そもそも御家おいえのための縁組だ。御前様の御心は羽衣にあるしな」
「だからこそ、嫡子となる男子を望まれたのでござりましょうぞ」

「だが、御前様は先代が遺された若様に渡す意志が強い。亡き先代との約束であるからな」
   広島新田藩の四代藩主は、今はまだ元服前ではあるが浅野 粂之助で揺るがない。とは云え、家臣の中には近江守の子に願いを託す者もいて、奥方様を惑わすのであろう。

「ある日、奥方様が特に傾倒していた祈祷師が、御子が儚くなったのは羽衣に因があると云いだしたらしい。それで、羽衣の髪をせば羽衣の生命力が失せて、すべてはうまくいくようになると」

「まぁ、さようなことで生命力が……なんて怖ろしい……」
   美鶴の顔がさーっと色を失くす。
「迷信だ、信じるな。さようなことができるはずがないであろう。祈祷料をせしめるための方便だ」
   兵馬は一刀両断した。

「では……ほかの見世の妓たちの髪はなにゆえ断ち切られたのでござりまするか」
   美鶴は首をかしいだ。

「其れが目眩しだと云うのだ。いきなり羽衣の髪をばっさりとやってしまえば、羽衣に恨みを持つ者、となり奥方様にたどり着く」

「さすれば、髪を切られた妓は切られ損と云うわけでござりまするね……」
   美鶴はため息を吐いた。
みなそれぞれ、彦左が迎えに来るのを首をなごうして待っておったであろうに……」 

   久喜萬字屋の火事の折に、彦左は忽然と消えた。あないに町方役人たちに囲まれていたと云うのに、いつの間にかいなくなっていた。
  「生け捕り」にして配下の同心たちに引き渡し奉行所へ向かった兵馬の怒りは並々ならぬものであった。

   しかし、奉行所の「失態」は表には出ない。「とが人の彦左は火事場に取り残されて死んだ」と云うことになっている。

   ところが、すっかり焼き尽くされた久喜萬字屋の跡地で遺されたものは何もなかった。
   ゆえに、巷では今でも「やはり狐か……はたまた物の怪もののけ、或いはあやかしの仕業か」と噂していた。

「加代というおなごも、彦左を待っておるのでござりましょうか。それとも……」

「加代をお縄にすらば奥方様の悪行にたどり着くゆえ、町方では捕縛できぬ。よって、無罪放免となるが、御前様は故郷くにに戻すと仰せであった。
   亭主の伊作にはかなり厳しく吟味を取りおこなったが、加代がやったことについてはなにも知らず、それどころか加代とはできればこれからも夫婦でいたいとも申しておった。されど、今回の件で、伊作は奉行所に十手を返すと申しておる。
   加代の方は伊作が岡っ引きだと知って奉行所の動きを得るために所帯を持ったと申しておったゆえ、すんなり故郷に帰るであろう」

「奥方様は如何いかがなされるのでござりましょうか」

「表沙汰にならば、御公儀よりお咎めがあるやもしれぬゆえ、病気平癒のため国許くにもとの御実家預かりと相成あいなった」
   実の処は「永蟄居」——格子の嵌まった座敷牢に移され、其処から出されるときは死んだときだ。

「彦左も、加代と云うおなごも、我が人生を棒に振ってまで心酔して云いなりになるほどのお方でござりますのに……」

「加代のことはわからぬが……彦左は『血の繋がった家族』を欲していたのではあるまいか」

   彦左の『なのに……『あの方』とおれは……血が繋がってんだぜ……』と云った声が思い出される。

——もしかすると、彦左は奥方様に「母」を見ていたのかもしれぬ……

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