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肆の巻「謀(はかりごと)」
其の肆 〜拾壱〜
しおりを挟む与太は途方に暮れていた。
「どこだ……どこにいるんだ……おすて……っ」
火事場の久喜萬字屋の中に飛び込んだのはいいが、右も左もわからなかった。
久喜萬字屋へは一月と少し前、奉行所の伝手で入らせてもらったが、与太が若い男で見場も良いゆえ、見世の妓たちがそわそわして浮き足立っては困ると云う由で、お内儀の目がとんでもなく厳しかった。
今日なんか、天下の吉原の大籬に臭いが流れてきては台無しだと、わざとうんと離れた処に造られた厩で馬の世話や掃除をさせられていたくらいだ。
——頼む、おすて……声でも、なんでもいいから……どこにいるのか、知らせてくれ……
居ても立っても居られなくて、来てしまったが、もっとちゃんと彦左に確かめてからにするんだった……と思っても、もう遅い。
火事場に慣れている与太であっても、生身の人間だ。熱いものは熱いし、いつまでもいられるものではない。
そのとき——与太の横を疾風がすり抜けた。
——なんだっ、火事場風か。
咄嗟に身構える。
火事場風とは、火事の起こった場処でしばしば吹く旋風である。火事場風が吹くと一気に炎が燃え上がるため、厄介なのだ。其れこそ命に関わる。
されども、「風」ではなかった。先刻まで、与太の周りにはだれもいなかったのに、いきなり目の前に現れた。
そして、いっさい躊躇うことなく、どんどん進んでいく。
「お、おいっ、これ以上進むと危ねえぞっ」
そのとき、前を行く者が振り向いた。
……彦左であった。
与太は我が目を疑った。ごしごしと擦ってみる。
「ひ、彦左っ、おめぇ——逃亡てきたのかっ」
今、久喜萬字屋の前には南北の奉行所で御役目を担う与力・同心など、錚々たる「町方役人」たちが集結しているはずである。
——あの中から……一体どうやって……
振り向いた彦左が一言、つぶやいた。
「……鈴」
「すず、って……あの、ちりりん、云って鳴る『鈴』かい」
だが、彦左からの返事はない。
——もう、人が変わっちまったからな……
だから、与太はうーんと腕を組んで考えてみた。
そして、ぱっと顔を上げた。
すると——目の前には、もうだれもいなかった。
「おいっ、彦左っ。もっと先に進んじまったのかよ、危ねえっ云ってんだろ」
与太は辺りを見回して大声で呼ぶが、その所為でとんでもなく煙を吸い込んでしまった。焦げ付く臭いも酷い。思わず、身を二つ折りして激しく咳き込む。
辺りはさらに煙がひどくなっていく。もうすぐ一間先——畳一枚向こうだって見えなくなってしまうだろう。
「畜生、いろんな物が燃えてんのに……鈴の音なんて聞こえねえよっ」
また咳き込んでしまうのに、それでも与太は大声を出さずにいられなかった。
——ちりりん……
其れは微かな響きであったが……
「聞こえる……鈴の音が……」
——ちりりん……
与太は其の微かな響きに導かれるままに、一階の奥にある納戸の前にたどり着いた。
この辺りはまだ炎も煙もほかに比べると少なくて、しかも裏口がすぐそこだ。
与太は被っていた「牛若丸」を外して、板戸を覆った。直に板戸を触ると火傷してしまうかもしれないためだ。井戸水で濡らして持ってきた島村の黒羽織だが、ほとんど乾いていた。
建物自体が壊れて柱が歪んでいるため、板戸はなかなか開かない。それに「牛若丸」越しでも熱い。何回か、がたがたがた…と揺らしながらやると、やっとからりと開いた。
お客に出す茶器や酒器が並んでいて、火は回っていないため焼けてはいないが、処々倒れて割れているのがあった。
「おすて……」
名を呼ぶと、ちりりん、と今までになくはっきりと聞こえてきた。
「おすて」
もう一度、しっかりと名を呼ぶと……
「……与太さ」
おすての微かな声が聞こえた。
与太は弾かれたように、駆け寄った。
おすては納戸の一番奥に閉じ込められていた。もう少し遅ければ、やはり此処も火が回ってしまって危なかった。
だが、しかし——
「髪が……おすての髪が……髪が……」
おすての髪は無惨にも、髷の根元からざっくりと刃物のようなものでぶった斬られていた。
「与太さ……」
おすては微かにつぶやいたあと、目を閉じた。
ちりりん……と鳴りながら、おすての手のひらから猫の根付がすべり落ちた。
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