上 下
69 / 75
肆の巻「謀(はかりごと)」

其の肆 〜拾〜

しおりを挟む
 
   美鶴は入り口で履き物を探した。
   逃げてきたときは何も履かずに出たのだが、くるわおんなは足袋を履かずに真冬でも裸足のまんまだ。
   素足の美しさも器量のうちの一つと云われ、美鶴も「舞ひつる」の時分にはずいぶんと気を遣ったものであった。

   されど、火事の最中に裸足で歩き回るのは酔狂である。美鶴は抜き捨ててあった男物の下駄を突っかけた。
   そして、脇目も触れず真っ直ぐ廻し部屋へと向かった。


   生まれてすぐに預けられた子ども屋から、祖母も母も世話になった久喜萬字屋に引き取られたのは十歳とおだったろうか。
   それからずっと暮らしていた此処ここは、美鶴にとっての「実家さと」である。

   されども、此度こたびの火事で、これらすべてが燃え尽くされてしまう。

   しかしながら、久喜萬字屋は幾度となく火事に見舞われてきた。
   そして、其の都度新たな見世に造られてきたのだ。しかも、図面はちゃんと別のところに置いてあるため、代々建物の間取りはほぼ同じだ。

   たとえ火事になったとしても——御公儀によって必ず「見捨てられる」吉原のくるわでは「よくあること」なのだ。

   ただ——-流石さすがに、燃えている最中さなかに飛び込んでいくのは、美鶴にとって初めてのことであるが……


   美鶴が廻し部屋に入ると、なるほど肌着である「湯文字」一つない素裸の、まだ幼さの残るいかにも「初見世」らしいおなごが、三人寄り添うようにうずすまっていた。

   廻し部屋は大部屋で、屏風などを衝立てて各々おのおのが「仕事」をするのだが、このさまでは慌てたお客がなぎ倒して逃げて行ったのがよくわかる。最前まで春をひさいでくれていた妓すら、なぎ倒して逃げたのではあるまいか。

   「苦界」と呼ばれる吉原で、生娘でいられて歌舞音曲に精進できて和漢書など学問が学べる「振袖新造」は奇跡だ。
   美鶴が舞ひつるとしてさようなことができたのは、「この」たちが美鶴の代わりにたった一つしかないその身体を張ってお客を引いてくれたお陰だ。

   だからこそ、美鶴——舞ひつるは助けに参ったのである。恩返しである。

「なにをしていなんし。早うお逃げなんし」
   美鶴はさように云いながら、まず「牛若丸」を一人のおなごに放った。

   受け取ったおなごは素早く袖を通して前を合わせると、
「姐さん、申し訳のうなんし」
とお辞儀しようとするゆえ、
「なにしていなんし、早う外にお逃げなんし。命より大事なものはありんせん。今度からは素裸でもなんでも早うお逃げなんし」
と、美鶴は叱った。

   それから、次々と紐を解いて、はらりと落ちた着物をほかの二人にも放る。

   その二人も逃して、あとは我が身が逃げるだけ、と顔を上げた美鶴に見えたのは——部屋いっぱいに広がる「火の世界」であった。

——あぁ、もはや、これまで……と云うは、かようのことを云うのか……

   美鶴の目に涙が溢れてきた。
「旦那さま……申し訳ありませぬ……」
   両のまなこから一筋、また一筋と流れていく。
「美鶴はもう……松波の御家には帰れませぬ……」

  目の前でもうもうと立ちのぼる煙に目が霞む。喉がいぶされていがいが・・・・する。
  美鶴は身体を二つ折りにして咳き込んだ。


   すると、真っ赤な炎の向こうから、真っ黒な布を被った長身の男が現れた。
   腰には長刀・短刀を二本差ししている。武家だ。

——あれは、同心の黒羽織……

   背格好は……島村 広次郎に見えた。
「だれの命をもらって、今を生きていると思うておるのだ」
   されど、声が違う。

「そないに容易たやすく諦めるな。おまえの母が泣くぞ」
   男は黒羽織の下から顔を出した。

   切れ長の目にスッと鼻筋が通っていて、ちょっと薄めの唇。かしらは粋な本多まげ——

「そ、そなたは……」

   北町奉行所 隠密廻り同心・島村 勘解由かげゆであった。

   広次郎の叔父で、今は養子先の父だ。だが、美鶴が吉原から攫われるように移されたのが、何故なぜか勘解由の屋敷であった。
   そして、兵馬との祝言の折に美鶴側の「身内」としてただ一人、席に座した。

たわけ者、水も被らずに火事場に入ってくる奴がいるか。おまえの先に入って行った御用聞きの小僧の方が、心得ておるぞ。まぁ、あれは鳶の火消しらしいがな」
   いきなり叱られてしまった。

「着物があと二枚いる。急げ」
   美鶴は慌てて二枚脱いだ。

   すると勘解由は、そのうちの一枚で美鶴を前も見えないほどすっぽりと包んだ。そのあと、我が身の濡れた黒羽織を被せる。

「裏の方はかろうじてまだ通れる道があったゆえ……されど、もうかような危ない真似はするなよ」
   また、叱られてしまった。

   勘解由は残りの一枚をすっぽりと被った。
   意を決し、我が身を盾にして美鶴をまもりながら、火の中に隙間を見つけては進んでいった。

   そうして、ようやく裏口から見世の外へと二人で出たとき——
「おてふちょう……美鶴を助けたぞ」
   微かなつぶやきが聞こえてきた。

   「おてふ」……その名は、美鶴の母、胡蝶の真名まなであった。

——あぁ、そうか……
   腑に落ちれば、おのずと口をついて出てきた。

「……父上」

   同じく、微かなつぶやきであったが……美鶴は生まれて初めて、本当まことの父をさように呼べた。

しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

陸のくじら侍 -元禄の竜-

陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた…… 

どこまでも付いていきます下駄の雪

楠乃小玉
歴史・時代
東海一の弓取りと呼ばれた三河、遠州、駿河の三国の守護、今川家の重臣として生まれた 一宮左兵衛は、勤勉で有能な君主今川義元をなんとしても今川家の国主にしようと奮闘する。 今川義元と共に生きた忠臣の物語。 今川と織田との戦いを、主に今川の視点から描いていきます。

夜に咲く花

増黒 豊
歴史・時代
2017年に書いたものの改稿版を掲載します。 幕末を駆け抜けた新撰組。 その十一番目の隊長、綾瀬久二郎の凄絶な人生を描く。 よく知られる新撰組の物語の中に、架空の設定を織り込み、彼らの生きた跡をより強く浮かび上がらせたい。

遠い昔からの物語

佐倉 蘭
歴史・時代
昭和十六年、夏。 佐伯 廣子は休暇中の婚約者に呼ばれ、ひとり汽車に乗って、彼の滞在先へ向かう。 突然の見合いの末、あわただしく婚約者となった間宮 義彦中尉は、海軍士官のパイロットである。 実は、彼の見合い相手は最初、廣子ではなく、廣子の姉だった。 姉は女学校時代、近隣の男子学生から「県女のマドンナ」と崇められていた……

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

二人の花嫁

糺ノ杜 胡瓜堂
歴史・時代
 江戸時代、下級武士の家柄から驚異の出世を遂げて、勘定奉行・南町奉行まで昇り詰めた秀才、根岸鎮衛(ねぎしやすもり)が30年余にわたって書き記した随筆「耳嚢」  その「巻之七」に二部構成で掲載されている短いお話を、軽く小説風にした二幕構成の超短編小説です。  第一幕が「女の一心群を出し事」  第二幕が「了簡をもつて悪名を除幸ひある事」 が元ネタとなっています。  江戸の大店の道楽息子、伊之助が長崎で妻をつくり、彼女を捨てて江戸へと戻ってくるところから始まるお話。  おめでたいハッピーエンドなお話です。

朝敵、まかり通る

伊賀谷
歴史・時代
これが令和の忍法帖! 時は幕末。 薩摩藩が江戸に総攻撃をするべく進軍を開始した。 江戸が焦土と化すまであと十日。 江戸を救うために、徳川慶喜の名代として山岡鉄太郎が駿府へと向かう。 守るは、清水次郎長の子分たち。 迎え撃つは、薩摩藩が放った鬼の裔と呼ばれる八瀬鬼童衆。 ここに五対五の時代伝奇バトルが開幕する。

処理中です...