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肆の巻「謀(はかりごと)」
其の肆 〜玖〜
しおりを挟む「島村の旦那が此処にいなさるんだ。……ね、旦那、『娼方』の妓とは一緒に見世を出たんでやんしょ」
与太が島村を見た。
「いや、そもそも今日は一度も姿を見ておらぬぞ」
——な、な、なんだってぇ……
「お、おいっ、どういうことでいっ」
与太は炎の上がる久喜萬字屋を見た。火元の見られる二階はもうだめだ。
あの燃え盛る建物の中に、おすてがいる——
——何のための「鳶の火消し」だ。
与太は井戸へ向かって走った。水を汲み、全身にその水をぶっ掛けた。
「お、おい、与太。なにをしておる」
追いかけてきた島村に、
「旦那、その羽織、ちょいと貸しておくんなせぇ」
と云うや否や、同心の黒羽織を引ったくった。
そして、それも桶の水の中にじゃばじゃば濡らすと、五条大橋の牛若丸よろしく頭からすっぽり被った。
あっと驚く韋駄天脚で、燃え盛る久喜萬字屋へ一目散に駆けて行った。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
和佐と二人で下駄も履かず慌てて外に出た美鶴は、今し方奉行所へ向かうのであろう我が夫をそっと見送った。
いくら歴とした「奥」であろうと、今の姿は「吉原の遊女」である。町方役人がすらりと居並ぶ中へ、顔をだすわけにはいかぬ。
其れは「番頭新造」の和佐も同じだ。しかも美鶴よりも見知った顔が多い身とあって、いつの間にか傍らから離れて姿が見えなくなった。
夫に今度会えるときは松波の御家であろうが、吟味が始まり宿直の日々が続くであろう。
——会えるのは、いつになることやら……
「えっ、二階にいたのは皆んな逃げなんしたのに……」
「一階の妓たちの方が早う逃げられしなんし。なにゆえ……」
羽衣と玉菊の禿たちが身を寄せて合って話をしている。平生はそれぞれの姉女郎贔屓から、喧嘩ばかりしているのだが、何のかの云いつつもやはり気の置けぬ相手なのだろう。
「なにかありんしたかえ」
美鶴が禿たちの話の輪に入る。
「あ、舞ひ……胡蝶姐さん」
羽おとが縋るような目で見てきた。
「一階の廻し部屋の妓が……」
羽おりも泣きそうな顔で云う。
「今宵初見世の『廻し』の妓が……」
「着物がないゆえ、外に出られなんしって……」
玉菊の禿・たまゑとたま乃が声を詰まらせる。
「仕事」に慣れた妓なら、恥より命で裸であろうとなんだろうと飛び出してくるであろう。
美鶴は周囲を見渡してお内儀を探した。おそらく、方々駆けずり回っているに違いない。
「それに、羽風ちゃんもおりんせん」
「そもそも、夜見世で見た者はだれもおらでなんし」
「二階の部屋は皆んなで手分けして、すべて見なんしたけど」
「羽風ちゃんだけが消えてしもうてなんし……」
——羽風も初見世の妓でありまするが……
刻が迫っている。火元の二階はもうだめだ。
——されども、一階であらば、まだ……
そのとき、頭から真っ黒な布を被った「牛若丸」が見世の中に入っていくのが見えた。
美鶴は我が姿を見た。本日は、振袖新造ではなく「遊女」だ。何枚も重ね着をしていた。
いきなり、重い前帯をばさりと外した。先刻、彦左の手を縛るために一本解いて兵馬に渡したため、一番上の着物がはらりと落ちた。
そして、美鶴は自らもまた「牛若丸」になりて、見世の入り口へと向かった。
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