大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜

佐倉 蘭

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肆の巻「謀(はかりごと)」

其の肆 〜陸〜

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とが人がなにかしちめんどくせえことをするときにはよ、手前てめぇまもりてぇもんがあるときって相場が決まってんのよ」
   さように云うと、兵馬は部屋の中へずかずか入っていった。腰にはしっかり大小の刀を手挟んでいる。
「おい、その物騒なもんはこっちによこしな」

   だが、彦左にとっては多勢に無勢な中、匕首あいくちは正真正銘の「懐刀」だ。手放すことはできぬ。
「そんじゃ、せめて羽衣からは退いてくれ」

   すると、羽衣からは離れた。和佐がすぐに向かって、羽衣を抱きかかえるようにして出入り口の板戸まで連れてくる。


「何の騒ぎか……羽衣は何処どこにおる」
   なんと、近江守までが痺れを切らして、かようなところにまでやってきた。

「ぬ、主さん……いえ、左京さきょうさま……」
   羽衣が弱々しく近江守を呼んだ。二人だけのときにの呼び名であった。

「は、羽衣か……如何いかがした、そのなりは……だれにやられた……」
   先刻までの引手茶屋にいたときとはあまりにも変わり果てた姿に、驚いた近江守が羽衣に駆け寄った。

   広島新田藩の藩主が狭い三畳間の床に膝を付き、吉原の遊女を胸にいだく。
「身請けの金くらい、いくらでも出すと云うておるのに……
手薄になった見世のため、世話になったお内儀かみのため、年季が明けるまではと申すゆえ、好きにさせておいたが……」
   近江守はおのれの甘さを痛感した。

「もう一日たりとも、かような処におまえを置いておくことはまかりならん。即刻、我が屋敷に連れ帰り側室にする。おまえの生家は武家であるゆえ、案じることはないぞ」


「だ、だめだ……そないなことになったら、『あの方』が……」
   皆の目が声の先に走った。

   いつの間にか、匕首を持った彦左が虚な目になって突っ立っていた。

「落ち着け……なにが『だめ』なのだ。『あの方』とはだれのことだ」
   兵馬は彦左に尋ねた。だが……
——なんだか、様子がおかしいぞ。まるで人が変わったみたいになっておる。

   そして、他の者を三畳間から出して、我が身一人だけが残るようにはかる。
——できれば、出入り口の板戸を閉めて、あいつを閉じ込められれば……

   江戸の天下を騒がせてきた、あの「髪切り」を「生け捕り」できる。
   それから、南北の奉行所を挙げて、何のためにかようなことをしでかしたのか、吟味し尽くすのだ。

「『あの方』のお名前を出すなんて、この下賎なおれができるわけないだろう」
   彦左はうっとりと、まるで歌うがごとく「あの方」のことであろうか、ぶつぶつと語り出した。されど、はっきりとせず、処々しか聞き取れぬ。

「なのに……『あの方』とおれは……血が繋がってんだぜ……」
——血が繋がっている、だと……

「おい、美鶴。あいつのことは知ってるのか」
   顔は部屋の中に残したまま、廊下に出た美鶴に背中で聞く。
「『子ども屋』に預けられた頃より存じておりまする」
「……ってぇことは、母親はくるわおんなか」
「父親は武家であったとは聞いておりまするが、だれかは存じませぬ」

嫂上あねうえ、確かあの者から筆を買うてござったのでは……」
   この中で、彦左から物を買ったのは美鶴だけだった。

「熊野筆と云う、たいそう良うできた筆でござりまする。山間やまあいの土地で上方へ出稼ぎする者が多いと申しておったゆえ、熊野もうでの辺りの名産でござりましょうか」

「『熊野筆』だと……」
   近江守が顔色を変えた。
「我が芸州で作られている筆ではないか。手間が掛かるゆえ量が少なく、江戸ではほとんど見かけたことがないぞ」

「えっ、彦左は三ノ輪の小間物屋から仕入れておると……」
「『三ノ輪の小間物屋』だと」
   兵馬が美鶴の言葉を遮る。

「岡っ引きの伊作の女房の店も、三ノ輪の小間物屋だぜ。以前、歳の離れた女房がいると申しておったな……名前は確か……」

「——おかよ、ではあるまいか」
   近江守がぼそりとつぶやく。

   皆の目が近江守に集まった。

「我が奥の——侍女であった者かもしれぬ」
   途端に、近江守の眉間にぐっと深く縦皺が寄り、苦悶の面持おももちになった。

「うちは国許くにもとに領地を持たぬ江戸定府の新田しんでん藩ゆえ、奉公人も少なくだいたいの者は覚えておる。
   あれが輿入れと共に故郷くにの広島藩から連れてきた女であろう。中でも可愛がられて熱心に仕えておったゆえ、ある日歳の離れた身分違いの町家の男と一緒になりたいから申して、青山緑町の屋敷を出て行ったときには驚いた。
   されど、亭主と小間物屋を始めて芸州産の物を扱っておるため、それこそ江戸では手に入らぬ熊野筆など屋敷で入用な物があれば、その店を使っておる」

——伊作の奴も関わっておるのであろうか……

   兵馬の本意ほいではないが、奉行所としてはただすため、早急に番所にしょっ引く手配をせねばならなかった。
   ただ……町家のことは奉行所で吟味できるが、大名の奥方様となると——

「内向きのことは、此方で預かる」
やはり、近江守はさように判じた。

   すると、そのとき……

「兄上っ、後ろっ」
   和佐が金切り声をあげた。
   すぐさま振り向くと、彦左が匕首を振りかざしていた。近江守と話をするのに背を向けていたのが仇となった。

「……そうだ……そうなんだよ……『あの方』にとって邪魔者は……消えちまえばいいんだ……」
   虚な目で何やらぶつぶつ唱えていたはずの彦左の目が、また光を取り戻している。
   だが、それは澱んだ光で——やはり、尋常ではなかった。

   彦左の匕首が、兵馬めがけて振り下ろされた。
   女たちの悲鳴があがる。 
   すんでのところで、兵馬はかわした。

「皆の者、下がっておれ」
   形勢を整えた兵馬は、今度こそ、迷わず腰の太刀を抜いた。

   匕首など、難なく兵馬の刀によってねられた。納戸の方へひらりと飛んでいき、扉の板戸にぶすり、と刺さる。

「だ、旦那さま……」
   安堵した美鶴が涙目で夫を見た。兵馬も妻に微笑み返す。

   ところが——

  次の刹那、丸腰になった彦左が、足元にあった火のついた行燈を蹴飛ばした。

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