65 / 75
肆の巻「謀(はかりごと)」
其の肆 〜陸〜
しおりを挟む「咎人がなにかしちめんどくせえことをするときにはよ、手前に護りてぇもんがあるときって相場が決まってんのよ」
さように云うと、兵馬は部屋の中へずかずか入っていった。腰にはしっかり大小の刀を手挟んでいる。
「おい、その物騒なもんはこっちによこしな」
だが、彦左にとっては多勢に無勢な中、匕首は正真正銘の「懐刀」だ。手放すことはできぬ。
「そんじゃ、せめて羽衣からは退いてくれ」
すると、羽衣からは離れた。和佐がすぐに向かって、羽衣を抱きかかえるようにして出入り口の板戸まで連れてくる。
「何の騒ぎか……羽衣は何処におる」
なんと、近江守までが痺れを切らして、かような処にまでやってきた。
「ぬ、主さん……いえ、左京さま……」
羽衣が弱々しく近江守を呼んだ。二人だけのときにの呼び名であった。
「は、羽衣か……如何した、その形は……だれにやられた……」
先刻までの引手茶屋にいたときとはあまりにも変わり果てた姿に、驚いた近江守が羽衣に駆け寄った。
広島新田藩の藩主が狭い三畳間の床に膝を付き、吉原の遊女を胸に搔き抱く。
「身請けの金くらい、いくらでも出すと云うておるのに……
手薄になった見世のため、世話になったお内儀のため、年季が明けるまではと申すゆえ、好きにさせておいたが……」
近江守はおのれの甘さを痛感した。
「もう一日たりとも、かような処におまえを置いておくことは罷りならん。即刻、我が屋敷に連れ帰り側室にする。おまえの生家は武家であるゆえ、案じることはないぞ」
「だ、だめだ……そないなことになったら、『あの方』が……」
皆の目が声の先に走った。
いつの間にか、匕首を持った彦左が虚な目になって突っ立っていた。
「落ち着け……なにが『だめ』なのだ。『あの方』とはだれのことだ」
兵馬は彦左に尋ねた。だが……
——なんだか、様子がおかしいぞ。まるで人が変わったみたいになっておる。
そして、他の者を三畳間から出して、我が身一人だけが残るように謀る。
——できれば、出入り口の板戸を閉めて、あいつを閉じ込められれば……
江戸の天下を騒がせてきた、あの「髪切り」を「生け捕り」できる。
それから、南北の奉行所を挙げて、何のためにかようなことをしでかしたのか、吟味し尽くすのだ。
「『あの方』のお名前を出すなんて、この下賎なおれができるわけないだろう」
彦左はうっとりと、まるで歌うがごとく「あの方」のことであろうか、ぶつぶつと語り出した。されど、はっきりとせず、処々しか聞き取れぬ。
「なのに……『あの方』とおれは……血が繋がってんだぜ……」
——血が繋がっている、だと……
「おい、美鶴。あいつのことは知ってるのか」
顔は部屋の中に残したまま、廊下に出た美鶴に背中で聞く。
「『子ども屋』に預けられた頃より存じておりまする」
「……ってぇことは、母親は廓の妓か」
「父親は武家であったとは聞いておりまするが、だれかは存じませぬ」
「嫂上、確かあの者から筆を買うてござったのでは……」
この中で、彦左から物を買ったのは美鶴だけだった。
「熊野筆と云う、たいそう良うできた筆でござりまする。山間の土地で上方へ出稼ぎする者が多いと申しておったゆえ、熊野詣での辺りの名産でござりましょうか」
「『熊野筆』だと……」
近江守が顔色を変えた。
「我が芸州で作られている筆ではないか。手間が掛かるゆえ量が少なく、江戸ではほとんど見かけたことがないぞ」
「えっ、彦左は三ノ輪の小間物屋から仕入れておると……」
「『三ノ輪の小間物屋』だと」
兵馬が美鶴の言葉を遮る。
「岡っ引きの伊作の女房の店も、三ノ輪の小間物屋だぜ。以前、歳の離れた女房がいると申しておったな……名前は確か……」
「——おかよ、ではあるまいか」
近江守がぼそりとつぶやく。
皆の目が近江守に集まった。
「我が奥の——侍女であった者かもしれぬ」
途端に、近江守の眉間にぐっと深く縦皺が寄り、苦悶の面持ちになった。
「うちは国許に領地を持たぬ江戸定府の新田藩ゆえ、奉公人も少なくだいたいの者は覚えておる。
あれが輿入れと共に故郷の広島藩から連れてきた女であろう。中でも可愛がられて熱心に仕えておったゆえ、ある日歳の離れた身分違いの町家の男と一緒になりたいから申して、青山緑町の屋敷を出て行ったときには驚いた。
されど、亭主と小間物屋を始めて芸州産の物を扱っておるため、それこそ江戸では手に入らぬ熊野筆など屋敷で入用な物があれば、その店を使っておる」
——伊作の奴も関わっておるのであろうか……
兵馬の本意ではないが、奉行所としては糺すため、早急に番所にしょっ引く手配をせねばならなかった。
ただ……町家のことは奉行所で吟味できるが、大名の奥方様となると——
「内向きのことは、此方で預かる」
やはり、近江守はさように判じた。
すると、そのとき……
「兄上っ、後ろっ」
和佐が金切り声をあげた。
すぐさま振り向くと、彦左が匕首を振りかざしていた。近江守と話をするのに背を向けていたのが仇となった。
「……そうだ……そうなんだよ……『あの方』にとって邪魔者は……消えちまえばいいんだ……」
虚な目で何やらぶつぶつ唱えていたはずの彦左の目が、また光を取り戻している。
だが、それは澱んだ光で——やはり、尋常ではなかった。
彦左の匕首が、兵馬めがけて振り下ろされた。
女たちの悲鳴があがる。
すんでのところで、兵馬は躱した。
「皆の者、下がっておれ」
形勢を整えた兵馬は、今度こそ、迷わず腰の太刀を抜いた。
匕首など、難なく兵馬の刀によって撥ねられた。納戸の方へひらりと飛んでいき、扉の板戸にぶすり、と刺さる。
「だ、旦那さま……」
安堵した美鶴が涙目で夫を見た。兵馬も妻に微笑み返す。
ところが——
次の刹那、丸腰になった彦左が、足元にあった火のついた行燈を蹴飛ばした。
0
お気に入りに追加
35
あなたにおすすめの小説
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

陣借り狙撃やくざ無情譚(時代小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品)
牛馬走
歴史・時代
(時代小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品)猟師として生きている栄助。ありきたりな日常がいつまでも続くと思っていた。
だが、陣借り無宿というやくざ者たちの出入り――戦に、陣借りする一種の傭兵に従兄弟に誘われる。
その後、栄助は陣借り無宿のひとりとして従兄弟に付き従う。たどりついた宿場で陣借り無宿としての働き、その魔力に栄助は魅入られる。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。

軟弱絵師と堅物同心〜大江戸怪奇譚~
水葉
歴史・時代
江戸の町外れの長屋に暮らす生真面目すぎる同心・十兵衛はひょんな事に出会った謎の自称天才絵師である青年・与平を住まわせる事になった。そんな与平は人には見えないものが見えるがそれを絵にして売るのを生業にしており、何か秘密を持っているようで……町の人と交流をしながら少し不思議な日常を送る二人。懐かれてしまった不思議な黒猫の黒太郎と共に様々な事件?に向き合っていく
三十路を過ぎた堅物な同心と謎で軟弱な絵師の青年による日常と事件と珍道中
「ほんま相変わらず真面目やなぁ」
「そういう与平、お前は怠けすぎだ」
(やれやれ、また始まったよ……)
また二人と一匹の日常が始まる
浅葱色の桜
初音
歴史・時代
新選組の局長、近藤勇がその剣術の腕を磨いた道場・試衛館。
近藤勇は、子宝にめぐまれなかった道場主・周助によって養子に迎えられる…というのが史実ですが、もしその周助に娘がいたら?というIfから始まる物語。
「女のくせに」そんな呪いのような言葉と向き合いながら、剣術の鍛錬に励む主人公・さくらの成長記です。
時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦書読みを推奨しています。縦書きで読みやすいよう、行間を詰めています。
小説家になろう、カクヨム、エブリスタでも載せてます。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―
三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】
明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。
維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。
密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。
武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。
※エブリスタでも連載中
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる