大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜

佐倉 蘭

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肆の巻「謀(はかりごと)」

其の弐 〜弐〜

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   昼間はこの水茶屋で茶汲みをやっているであろう娘が、四人其々それぞれの前に置かれたさかなの膳のかたわらに盃台と酒器を置くと、一礼して座敷から下がっていく。
   ふすまがすーっと閉められ、娘の足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。


「まんまと中萬字屋へ入られおって……」
   南町奉行所 年番方与力・松波 多聞は右隣に座す壮年の男を苦々しげに見た。
「『北町』は一体いってぇなにしてやがんだか」

「もうまもなく中萬字屋へ隠密廻りの同心を潜ませると云う矢先であった。無念極まりない。
されど、言葉を返すようでござるが……」
   北町奉行所 年番方与力・佐久間さくま 帯刀たてわきは返す刀で左隣に座す多聞を睨んだ。
先達せんだって丁子屋に入られた月の当番は、確か『南町』ではなかったか」

   年番方与力とは、南北の奉行所で其々それぞれたったの一人しかおらぬ、御奉行の補佐をしながら与力・同心の総元締めも果たすと云う、誉れ高き御役目である。
   代々、北町は佐久間家、そして南町は松波家が担ってきた。

「父上、伯父おじ上……『御前様』の前でござるゆえ」
   入り口に近い左端に座す松波 兵馬が、二人をなだめる。佐久間 帯刀は母・志鶴の兄であるがゆえ、兵馬にとっては伯父にあたる。

   同じ歳に生まれついた多聞と佐久間は、若い頃からなにかと張り合ってきた。それは「義理の兄弟」になってからも、さほど変わることがない。

「まぁ、今宵は無礼講と云うか、何事も忌憚なく話し合う場であるがゆえ、一向に構わぬがな」
   床の間を背に正面に座す、多聞や佐久間より少し歳若い御前様——広島新田藩 三代藩主・浅野 近江守おうみのかみは鷹揚に告げると、目の前のさかずきを手にして、くっとあおった。

   それを「合図」に他の三人が各々おのおの盃を左手に取った。いくら「無礼講」といえども、諸藩の大名である近江守より先に酒を呑むことはできない。

   ちなみに、武家の男は必ず盃を左で持つ。右手はいつ何時賊が襲いかかってきたとてすぐさま抜刀できるよう、空けておくのだ。

「それにしても、先日の中萬字屋の件でござるが……なにゆえ申し出が遅れたのか」
   髪切りが中萬字屋に現れたのは望月満月の夜だと云うのに、れが北町の奉行所に伝わったのは次の日の昼過ぎであった。

   多聞に痛いところを突かれた佐久間の眉間に、ぐっと皺が寄る。

「中萬字屋で髪を切られたのが『吉原一の御髪みぐし』で鳴らしてきたおんなであったと聞いておる。
   その夜、いきなり自慢の『商売道具』を台無しにされた妓は、あまりのことに気が動転し、見世の者には何も云えぬまま、自分の部屋にすっこんで夜具をかぶってずっと泣いておったそうだ。
   あくる日になり、そろそろ夜見世の支度をする頃になっても一向に出てこぬゆえ、痺れを切らしたお内儀かみが妓の部屋に無理矢理入っていって、妓がかぶっていた夜具を引っぺ返したらしい。そしたら、見るも無惨な河童のごとき頭になってるじゃないか。
   それで、慌てて奉行所に知らせてきた——と云う仔細しさいでござる」

「よりによって、髪が御自慢の妓の髪をばっさり切っちまうとは、そいつぁ……ひでぇ話だな」
   流石さすがの多聞も言葉を失くす。

「髪は『おなごの命』と云うに……あいつらときたら……ばっさりぶった斬られてから嘆き悲しんだって遅いってんだ……」
   近江守の空いた盃に酒を注いで兵馬が、ぼそりとつぶやいた。

   絶対に外に知られてはならぬ話ゆえ、酒が足りなくなったときだけ店の者に持ってきてもらうようにした。ゆえに、この場で一番年少の兵馬が銚子を手に回ることになる。

   与力の御家に「御曹司」として生を受け、上げ膳据え膳の暮らしをしてはいるが、元服を終えて奉行所に見習いとして入ってすぐに「下っ端」として一通りの「使いっ走り」はさせられていた。

「誰もも囮になりたいと申すが……おなごの命である髪を、ばっさりとぶった斬られるやもしれぬのに——惜しゅうはねえのかよ」
   多聞が苦笑したあと、盃の酒をくっと空ける。

「……和佐か」
   佐久間にとっては、たった一人の姪である。しかも、我が身は息子が一人ゆえ、幼き頃より「娘」のごとく見守ってきた。
「おなごに生まれはしたが、あれだけの手練てだれだ。あれも武家である以上、なにかしらの御役目を果たしたいのであろうよ」

「可愛い子が二人もおると云うのによ」
   取り立てて反対することはなかった多聞であるが、やはり思うところはあったようだ。

「されども、一度、おのれの思うままにやらせてみろ。存外、憑き物が落ちたかのごとく大人しゅうなるやもしれぬぞ」
   佐久間はさように云うと、多聞の盃に酒を注いだ。

「あっ、伯父上、申し訳のうござる」
   慌てて兵馬が伯父の盃に向かう。
「いや、構わぬ。おまえの父と違って酒はさほど好まぬのでな。それよりも、御前様の酒を切らさないようにしろ」
 
   すると、多聞が兵馬の手からひょいと銚子を取った。
「不粋なことぬかすな、呑みやがれ」
   佐久間の盃に酒を注ぐ。

「まぁ……こうなりゃ、なんとしても南北の奉行所が力を合わせ、『囮』の身命を危うきにさらすことなく、とも『髪切り』なるとが人をとっ捕まえるしかねえわな」

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