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肆の巻「謀(はかりごと)」
其の壱 〜参〜
しおりを挟む「あっ……『いてなさるなんし』」
おすては云い直した。
「初見世までには、なんとしても廓言葉を話せるようになる……なんし」
そして、恥ずかしそうに気まずそうに下を向く。ぷくりとしたその頬が、ほんのりと朱に染まっている。
——『初見世』……
そのとき与太の心の臓が、ぎりり、と軋んだ。息が苦しくなって、思わず着物の胸をぐしゃりと掴んだ。
「こないだは……お内儀さんから初見世のこと、いきなり云われ……なんして……それに、内所には……なしてか、与太さもいて……おらぁ……すっかりおったまげちまった……なんし……」
見世の客に茶を供するときに使う廓言葉は、お内儀から厳しく云われて「丸覚え」していたが、平生は慣れ親しんだお故郷言葉を消そうとするあまり、どうしても訥々とした話しぶりになる。
初見世が決まった今、お内儀はお故郷言葉が一向に抜け切らぬおすてに業を煮やし、ますます厳しく当たっていた。
「だけんど……」
下に向けていた顔を、おすてはすっと上げる。
「故郷から、此の吉原に出てきたあの日より……下働きのままではおられんことも……いつか必ず初見世が来ることも……『女郎』になって負い目を返していく覚悟も……」
そして、おすては笑った。
「とっくの昔にできて……おりなんし」
されども、その笑顔は涙こそ出てはいまいが……
だれがどう見ても——「泣き笑い」だった。
なんだか曇天の下しとしとと降りそぼる雨の方が、まるでおすての「身代わり」になって涙を流しているみたいだ。
「——おすて……」
まだ年端のいかぬ娘らしく桃の花が咲いたかのごとき「桃割れ」に結われた髪も……見世から下働きの娘として渡された着古した木綿の小袖も……
見納めになる日は、もうすぐそこに迫っている。
やりきれない心持ちになった与太は、思わず手を差し伸ばした——
「——哥さん、其処までだ」
突然、鋭い声が飛んできた。
その方へ目を遣ると、明石稲荷の入り口に番傘を差した彦左が立っていた。
見世の使いで外に出たおすてだが、途中で雨に降られてなかなか帰ってこられないと気づいたお内儀が、彦左を迎えにやらせたのだ。
初見世が決まり、これからどんどん稼いでもらわねばならぬおすてに何かあらば、久喜萬字屋にとって大損だからだ。
大股でずんずんと軒先までやってきた彦左は、持ってきた番傘をおすてに差し出した。
「おすて、とっとと帰るぞ」
「彦左っ、違うんだべ、与太さは……」
番傘を受け取りながら、おすては必死で云いつのった。
「お内儀さんに告げ口されたくなきゃ、おめぇは黙ってな」
彦左は与太に向き直ると、氷のごとく凍てついた目でぎらりと睨んだ。
「……あっしは前にも云ったはずでやす。約束は、きっちりと守ってもらわねぇといけねえ。それに、おすてに何ぞあっちゃ、見世としてはあんたらから請け負った『仕事』にも出せねぇようになっちまいやすぜ」
髪結いの件での「囮」のことを云っているのだ。見世の「用心棒」の一人でもある彦左には「護衛役」としてお内儀から知らされていた。
「——それでも、いいんでやすかい」
彦左が、ぐっ、と目に力を込めて与太を見た。
その有無を言わせぬ目力に、与太は負けた。すっ、と我が目を逸らしてしまったのだ。
ほんの刹那、彦左は鼻で与太を笑った。
そして、彦左はおすての袂を掴んでぐいと手許に引き寄せたかと思うと、そのまま御堂の外へと引っ張って行ってしまった。
まだまだ降り続く雨の中、与太はなにも云えずにいた。
ただ、二人の姿が曲がり角の向こうへと消えていくのを、じっと見つめることしかできなかった。
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