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肆の巻「謀(はかりごと)」
其の壱 〜壱〜
しおりを挟む「——そりゃあ良うござんした。おまえさんもご苦労だったね」
久喜萬字屋のお内儀であるおつたはさように云って煙管から莨をひとくち呑み、吸った煙を肺の腑にしっかり満たすとふーっと口から吐き出した。
そして「してやったり」と、満面の笑みを浮かべる。
——さすが、あの辰吉親分の孫だけあるねぇ……
町家の岡っ引き風情が、同心ならともかく与力なんて「上つ方」に面通しできるだけでも考えられないと云うのに……与太は、おつたが言伝たことをしっかりと果たしてこの久喜萬字屋に戻ってきた。
ところが——上機嫌のお内儀とは裏腹に、与太は滅法界もなく苦りきった渋面だった。
「お内儀、此の見世で御武家の御新造さんを二人も預かるんでぃ。おめぇさん、其れ相応の『覚悟』はできてんだろな。……二人とも、天下の与力様の『恋女房』だぜ」
意外にも、和佐の夫・本田 主税は妻が「囮」になることを許したと云う。
妹からそれを聞かされた松波 兵馬は、思いがけぬことに歯噛みした。
兵馬と和佐にとっては父、美鶴にとっては舅になる松波 多聞は、
『其々の亭主が良い、っ云ってんのを何でおれが止める義理があるってんだ。
まぁ……おれだったらよ、どこの大名であろうと、たとえ公方様や京の天子様であろうともよ、己の女房にゃ絶対にさような下知は受けさせねぇけどよ』
と告げて、若い頃の「浮世絵与力」さながら、にやりと不敵に笑った。
そして、和佐が吉原で「御役目」に就いている間、二人の子たちはそのまま松波家で面倒をみることと相成った。
兵馬と和佐にとっては母、美鶴にとっては姑になる志鶴には、吉原へ赴くことは伏せつつも「女手の要る特別な御役目」と伝えた。
すると志鶴は、
『子どもたちや御家のことはいっさい心配せずともよいゆえ、御公儀や奉行所のために悔いのなきよう御奉公してきなされ』
と、いつものごとく穏やかに微笑みながら娘と嫁を励ました。
「……そうだねぇ。『舞ひつる』が戻ってくるってことは、また羽衣の御座敷に出そうかね」
かつて「舞ひつる」だった美鶴は「昼三」を務める羽衣の下、妹女郎として夜見世に出ていた。
「したら……おすても一緒に、羽衣に任せようかね。
そいでもって、も一人の御武家の奥方もさ、番頭新造のおしげに付けて『見習い』にすりゃあ都合が良いやね」
「呼出」のいない今の久喜萬字屋では最高位になる「昼三」が二人いて、そのうちの一人が舞ひつるの姉女郎であった羽衣だ。
「姉女郎」ともなると、我の仕事だけをすれば良いというわけにはいかぬ。
世話になっている見世への恩返しのためにも、初見世後に人気になりそうな「上玉」を「妹女郎」として側に置いて、一人前の遊女にせねばならぬ任も加わる。
しかも、年端の行かぬ女子たちに、遊女らしいしゃなりとした所作を叩き込むのは元より、唄に三味線に舞にと歌舞音曲の稽古をつけ、さらには身に纏う着物や簪、喰い扶持の面倒までもみてやらねばならぬ。
加えて「番頭新造」の分もある。
番頭新造とは、年季奉公の十年が明けても何処にも行く当てがなかったりして、廓に留まった女郎だ。
おのれ自身がもう客をとることはないが、その代わり世話になっている遊女のために日々の雑事を一手に引き受けるゆえ、「遣り手」とも云われる。
海千山千の番頭新造は、面倒な客相手でも遊女に代わってあしらうことなんか朝飯前なものだから、口さがない客からは腹立ち紛れに「遣り手婆ぁ」などと呼ばれていた。
さようなことから——たとえ昼三になって我が身の稼げる揚代が跳ね上がったとしても、出て行く金が半端なかった。
「——だけど、それじゃあまりにも羽衣の『荷』が重うなっちまって、あの子一人だけが割に合わないやねぇ……」
おつたが遠い目をして紫煙を燻らせる。
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