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参の巻「駆引」
其の参 〜伍〜
しおりを挟む与太は驚きのあまり、まったく声が出なかった。青天霹靂、吃驚仰天、驚天動地——とは、まさにこのことだ。
だが、しかし……
『金輪際、探さなくてよいぞ。そして……此れまで見聞きしたことは一切合切忘れろ』
と、兵馬が与太に告げたのは……「舞ひつるが見つかったから」に相違なかった。
しかも、我が妻として娶っていた、ときている。
——そりゃあ、もう『探さなくてよい』っ云うわけだよな……
与太はすっかり腑に落ちた。
一方、和佐もまた目を白黒させていた。
「あ、嫂上が……『舞ひつる』なる者……」
此方は与太と違って、すべてが「いきなりのこと」である。何が何だか、さっぱり訳が判らぬであろう。
「某と美鶴の縁組は『上』がお取り決めになったことであるぞ。よって、下々の我らが仔細なぞ知らずともよい。おまえたち、余計な詮索はするなよ」
兵馬が妹と与太に釘を刺した。
——おいおい、勘弁しとくれよ。なんだか、いつの間にかえれぇ処に居合わせちまってねぇか……
一介の町家でしかない与太は、心の衷で震え上がった。
されども、武家の子女である和佐は恐れることなく食い下がった。
「『上』とは……奉行所でござりまするか」
「いや、『御前様』だ」
渋々、兵馬が返す。やはり、妹の方は一筋縄では行かなかった。
ところが、流石の和佐もたちまち絶句した。
「えっ、まさか、青山緑町の——」
其処に居を構えるのは、安芸国・広島新田藩の三代藩主、浅野 近江守である。
父・多聞と畏れ多くも亡き先代——二代藩主・浅野 兵部少輔とが、まだ互いに若衆髷を結っていた時分に剣術道場が同じだった誼で、長じてからも身分の差を超えて親しんだ間柄であった。
そして、舞ひつるを探していた折に「横槍」を入れて断念させた「とある大名」もまた「青山緑町の御前様」——つまり、広島新田藩の浅野 近江守であった。
町家の与太にとって「お大名」なんて雲上人どころか天界の御仁だ。
ゆえに、初代の公方様(徳川家康)がお祀りしている日光社(日光東照宮)の「見ざる・言わざる・聞かざる」の猿三匹を心に思い浮かべ、しっかりと刻みつけた。
「……和佐殿、下賤な身の上で申し訳ありませぬ」
美鶴はいたたまれぬ思いで目を伏せた。
「我が母や祖母の生まれ育ちを鑑みれば……わたくしは、とてもとてもそなたから『嫂上』と呼ばれる謂れなぞ、なき者にてござりまする」
「美鶴の父親は武家だ。さらに、母親の父も武家の者だと聞いておる。おまえはしかと武家の血を引いておるがゆえ、さように我が身を卑下するでない」
兵馬は妻に云い聞かせるがごとく諭した。
「そ、それに『振袖新造』は廓の妓っ云っても、まだ一度も客を引いたことのねえ『見習い』でござんす」
与太も声を励まして云い添えた。
「み、見世からも云い含められてっから、そんじょそこらの町家のおなごより、ずーっと身持ちは堅いと評判でやんす」
それを聞いて、和佐はほっと胸を撫で下ろした。
子を産んだからこそ分かる、あのような閨事を——しかも、数多もの男たちを相手にさせられていたわけではなかったと知り、心底安堵した。
「ただ、父上は承知の上であるが母上は存ぜぬ」
ゆえに、家族の中では母の志鶴だけが美鶴を「諸藩の子女」と信じていくことになろう。
「兄上っ」
和佐がまたいきなり畳に手を付いて、身を投げ出すかのごとき勢いで平伏した。
「後生でござりまする。吉原での嫂上をお護りするがためにも、何卒わたくしも囮にしていただきとう存じまする」
「おまえはまだ、さように戯けたことを申すか」
兵馬はほとほと呆れた目で妹を見た。
「ならば……母上に申し上げるまでにてござりまする」
和佐の決意は並々ならぬものであった。
美鶴は目を伏せたまま唇を噛んだ。吉原で生まれ育ったことに「誇り」はあれども「恥」などありはせぬが……
やはり、「武家の女」の手本である姑には知られとうなかった。
「——相分かった」
とうとう根負けして、兵馬は云った。
「ただし……主税が『良い』と云うのであればだ。その代わり、母上には申すでないぞ」
多聞が兵馬にしたように、今度は主税へ「丸投げ」となってしまうが……
——二人の子を持つ和佐を囮になぞ、夫である主税が許すわけがなかろう。
「母上には決して申しませぬ。兄上、ありがたきことにて存じまする」
ようやく「望み」が受け入れられたと思った和佐は、兄に向かって畳に額をくっつけるほど深々と頭を下げた。
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