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参の巻「駆引」

其の参 〜壱〜

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   本日もまた、和佐が畳に手を付いて身を投げ出すかのごとき勢いで平伏する。
「兄上、後生にてござりまする。どうか、わたくしの願いをお聞き入れくだされ」
   畳に額がくっついてしまうほど、和佐の頭が下がる。

   だがしかし、本日もまた兄・兵馬ひょうまは許しはしなかった。
「何度も同じことを云わせるな。駄目なものは駄目だ」

「兄上はひどうごさりまするっ。父上は、兄上のお許しが得られさえすれば好きにするが良い、と仰せになっていると云うに……」
   がばりとおもてを上げた和佐は、無念極まれりと唇を噛んだ。

——あの親父……厄介ごとは全部こっちに押し付けやがって……
   それもこれも、父が我が妻・志鶴に瓜二つの和佐に、嫌われたくなくて強く出られないがためであるしかも、今の和佐には我が腹を痛めて産んだ、千晶と太郎丸と云う「切り札」もある。

   ゆえに、江戸じゅうの猫の手を借りたいほどの忙しさの中であっても、南町奉行所 年番方与力・松波 多聞たもんはなんとか時を捻り出して、孫たちが待つ八丁堀の組屋敷我が家へと帰ってきた。きっと今頃、嬉々として孫たちと遊びに興じているに相違ない。

   兵馬とて、宿直とのいが続きようやく屋敷に戻れたと云うのに——帰ってくるなり和佐の「これ」である。
「起っきゃがれっ、たわけ者っ、おめぇみてぇなもんを『おとり』になぞ、使えるわきゃなかろうがっ」
   武家言葉と町家言葉がごった煮になった怒鳴り声が響いた。

   いつもであらばこの辺りでまた後日、と相成あいなったが、今日の和佐は引き下がらなかった。
   和佐とて、いつまでも子を連れたまま実家さとにいるわけにもいかない。しかも、息子はいずれ本田家の家督を継ぐ身である。
   もうそろそろ、組屋敷界隈世間の目が気になってきた。

   それに加えて、あの千賀のことである。婚家を蔑ろにする嫁なぞいらぬ、とばかりに今頃いそいそと主税後妻のちぞえを探し始めているやもしれぬ。
——なんとしても、急がねばならぬ……


゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚


   兄にくっついて剣術やっとう道場に通い始めた幼き頃、和佐は本田 主税と出会った。
   稽古の邪魔にならぬよう少年のごとく若衆まげを結っていた和佐は「松波の跳ねっ返り」だの「松波の次男」だの「松波の女剣士」と呼ばれていた。
   さような和佐をきちんと扱ってくれた唯一の人が——主税であった。

   主税だけは道場のほかの者たちと違って、「女だてらに」どんどん腕を上げていく和佐を妬んだり疎んじたりすることはなかった。
   美人と名高い母親譲りの涼やかで整った面持おももちをやや崩しながら微笑みつつ、「ようがんばったな」とばかりに和佐の頭に手を乗せて「ぽんぽん」とねぎらってくれた。
   和佐はいつしか……淡い恋心を抱くようになっていった。

   されども、親戚筋の同じ与力の御家おいえであっても、和佐の松波家は代々「同心支配役」を仰せつかる「不浄役人」だった。
   本田家が代々御公儀より賜る赦帳撰要方しゃちょうせんようがたのごとき文机に座っての「内向き」の御役目ではない。朝から晩まで、市井の安寧がために泥臭く駆けずり回る「外向き」の御役目だ。

   ゆえに、本田家が我が身を嫁に願うことなぞ、万に一つもあらぬと和佐は思っていた。
   そしてどんどん育ってゆくこの恋心をしっかりと封じて、やがて父が決めるであろう御家へ愚痴一つこぼさずに嫁ぐ覚悟をしていた。

   其れが、武家の御家に生まれた娘の——歩むべき道であった。

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