40 / 75
参の巻「駆引」
其の弐 〜陸〜
しおりを挟むおすては三つ指揃えて見世仕込みのお辞儀をすると、ゆったりと面を上げた。
そのとき、目に飛び込んできたのは与太の姿だった。思わず「なぜ此処に……」とばかりに、団栗のごとき大きな眼が真ん丸になる。
されど、次の刹那にはすっと真顔になり、盆を手にしてふわりと立ち上がる。そのまま、客人である与太の許へと進み、しずしずと茶の支度を始めた。
故郷の方言はなかなか抜けぬおすてであったが、流石に半年もいれば「吉原の大籬」がゆえの座敷での所作くらいは身に付きつつあった。
与太は、傍らで茶を給仕するおすてから莨盆の向こうにいるおつたの方へと目を戻した。
「お内儀、おいらは鳶をやってる与太ってんだ。
そいでもって、火事んときゃあ『火消し』もやってんのさ」
「へぇ……おまえさん、平生は『鳶の火消し』だってんのかい……道理でねぇ……」
おつたは「ようやっと納得がいった」と云うふうに呟いた。
鳶も火消しも、日々身体を張る仕事だ。
しかも火消しとあらば、日々我が身の命を賭して此の大江戸を護っているはずだ。
「……で、何処の組の者なのさ」
「伝馬町の『は組』だ」
おつたの細い目がばっと開いた。
「『伝馬町のは組』って……っ云うことは、おまえさんもしや……辰吉親分の……」
その口から岡っ引きだった祖父の名が出た。
「おう、おいらは辰吉の孫だってんでぃ」
与太はこのときとばかりに胸を張った。
見世に教えられたとおり丁寧に茶を淹れたおすては、茶托の上に湯呑み茶碗を乗せると与太の前にすーっと置いた。
されども、与太の方はおすての顔から目を逸らし、べこっと頭だけを下げた。お内儀に「顔馴染み」だと知られれば、おすてにとって都合が悪かろうと思ったがゆえだ。
それから、おつたの方へと進んだおすては、莨盆の上にお内儀がいつも使う湯呑みをそっと置いた。
「……そうかい、おまえさんが辰吉の親分さんの孫だったとはねぇ。親分さんが亡くなってしばらく経つが、そりゃあさ、天寿を全うしなすったって頭じゃあ理解っちゃいるけどさ。……惜しい人だったねぇ」
おつたはしみじみと云うと、おすてが置いた湯呑みを手にし、中の茶を一口含む。
与太も茶を飲んだ。馥郁とした茶の香りがまず鼻をくすぐり、そのあと渋みのまったくない深い味わいが口の中いっぱいに広がった。
「親分さんにゃ、うちの見世もずいぶんと目をかけてもらったからね。その御仁の孫の頼みだってんなら、頰被りはできゃあしないさ」
祖父の辰吉は、南北の奉行所がまだ犬猿の仲で一切行き来のなかったあの時分に、双方ともに「伝手」のあった稀有な人だった。吉原では同心や岡っ引きたちがいる面番所に、本職の合間を縫ってよく詰めていたと聞く。
おつたはさらに一口含んで喉を潤すと、与太にきっぱりと告げた。
「良うござんす。おまえさんの話、お引き受けしやしょう」
与太の顔がパッと輝き、熱を帯びた眼がぎらりと眩い光を放った。
一方、なんだか込み入った話になりそうだと察したおすては、盆を抱えるとお辞儀をして座敷を出るために腰を浮かせた。
「おすて、ちょいとお待ち」
ところが、おつたによって制される。おすては盆を脇に置いて、再びきちっと座り直した。
おつたは与太に向かって告げた。
「ちょうどよかった。この下働きの娘に先日、目出度く『初潮』が来てね。いよいよ『初見世』を考えなきゃいけなくなっちまった処だったのさ。……この子に『助太刀』させるよ」
それは、おすてが「囮」になる、と云うことだ。
つまり——おすてが、とうとう「女郎」になってしまうことでもあった。
——し、しまった……
今の今まで喜色を滲ませていた与太の顔から、すーっとその色が抜けていく。
0
お気に入りに追加
36
あなたにおすすめの小説
13歳女子は男友達のためヌードモデルになる
矢木羽研
青春
写真が趣味の男の子への「プレゼント」として、自らを被写体にする女の子の決意。「脱ぐ」までの過程の描写に力を入れました。裸体描写を含むのでR15にしましたが、性的な接触はありません。
鄧禹
橘誠治
歴史・時代
再掲になります。
約二千年前、古代中国初の長期統一王朝・前漢を簒奪して誕生した新帝国。
だが新も短命に終わると、群雄割拠の乱世に突入。
挫折と成功を繰り返しながら後漢帝国を建国する光武帝・劉秀の若き軍師・鄧禹の物語。
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
歴史小説家では宮城谷昌光さんや司馬遼太郎さんが好きです。
歴史上の人物のことを知るにはやっぱり物語がある方が覚えやすい。
上記のお二人の他にもいろんな作家さんや、大和和紀さんの「あさきゆめみし」に代表される漫画家さんにぼくもたくさんお世話になりました。
ぼくは特に古代中国史が好きなので題材はそこに求めることが多いですが、その恩返しの気持ちも込めて、自分もいろんな人に、あまり詳しく知られていない歴史上の人物について物語を通して伝えてゆきたい。
そんな風に思いながら書いています。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
真夏の温泉物語
矢木羽研
青春
山奥の温泉にのんびり浸かっていた俺の前に現れた謎の少女は何者……?ちょっとエッチ(R15)で切ない、真夏の白昼夢。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
虹ノ像
おくむらなをし
歴史・時代
明治中期、商家の娘トモと、大火で住処を失ったハルは出逢う。
おっちょこちょいなハルと、どこか冷めているトモは、次第に心を通わせていく。
ふたりの大切なひとときのお話。
◇この物語はフィクションです。全21話、完結済み。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる