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弐の巻「矜持」

其の壱 〜伍〜

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   その後、奉行所の下知げじによって兵馬と美鶴は祝言を挙げて夫婦になった。
   ところが、行き違いから初夜のねやで美鶴が広次郎の名を呼んだことがあだとなり、兵馬が御役目から帰ってこなくなった。
   それでも、武家の女としてじっとこらえて耐え忍んでいた美鶴であったが、さすがに疲れ切ってしまい、しばし松波の家を出ることにした。

   すると、すぐさま広次郎が美鶴のもとに訪ねてきて、かように告げた。
『そなたが離縁して、松波の御家を出られたとしても、すぐさま再嫁は難しゅうこざる』
   さようなことがあらば、世間からは美鶴と広次郎に「不義密通」の疑いが掛けられるやもしれぬゆえだ。

『されども……三年経てば……』

   恐らく世間の目も緩み、むしろ「武家の女」としては一刻も早く再び嫁いで、今度こそ必ずや婚家に対して御役目を果たさねばならぬ。
   そして再び嫁する際には、うんと歳の離れた御仁の後妻のちぞえでも、もしくは、与力のような立派な士分でもなかろうとも——

『今度こそ、そなたを……それがしの妻に迎えることができる』


゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚


「……与太、おめぇはどうするつもりでぃ」
   兵馬の物云いが元に戻った。

   与太の顔がとたんに曇っていく。それに伴って、こうべも垂れていく。
   島村から告げられて以来、兵馬に云うか云うまいかとずるずる考えあぐね、いつしか一回り(一週間)も過ぎていた。
   何故なぜか「雇い主」の同心・杉山 新九郎しんくろうにも「親分」である伊作にも話す気にはなれなかった。たとえ話したとて、はなから断るより他に道はなかろう。「南町」に属する身であるのだから、至極当たり前のことだ。

「もし、迷ってんだったらよ、引き受けてみねぇか」
    いきなり兵馬から云われて、与太はがばりと顔を上げた。

「いや、でも、そいつぁ……」
    そのつらは、思いっきり間の抜けたものになっている。

「おれにはよ、島村の野郎がなにを考えてやがんのか、開目見当がつかねぇのよ」
   その端正な面差おもざしを歪めつつ、万筋の着流し姿の兵馬が懐手をする。
「だからよ——おめぇにそいつを探ってきてもらいてぇんだ」

——そいだったら……

   兵馬のめいによって「北町を探る」ために「北町の御用聞き手先」を引き受けるのであらば……万が一それが露見ばれたとしても、「南町」の連中に対して「掟破り」にはならぬかもしれない。
   与太は「身内」の南町から「裏切り者」と後ろ指を差されることだけは、真っ平ごめんだった。
 
「だが、おめぇはあくまでも『南町の御用聞き手先』だっうのを忘れるな。このことは北町・南町問わず他言無用だかんな。おめぇも島村にゃ口止めしろよ。おれの名を出しても構わねえ。もし、奴が反故ほごなんぞにしやがってみろ。そんときゃあ、おれが直々じきじきに出てってやる」
    兵馬はきっぱりと云いきった。

   同心の身分である島村は、与力の兵馬には頭が上がらぬ。それどころか与力を怒らせた同心なぞ、下手すると養父の島村 勘解由ともども奉行所の御役目を召し上げられる羽目になるやもしれぬ。

   呆けていた与太のつらが、今やすっかり引き締まっていた。
「松波様、合点承知しやした。おいらは『南町』のために『北町の御用聞き手先』をお引き受けしやす」
   さようにこたえると、兵馬に向かって深々と平伏した。

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