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弐の巻「矜持」

其の壱 〜参〜

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   兵馬は直ちにおもてを上げて身を引き締めた。
   市井しせいの者にかような姿を見られては、武士もののふの沽券に関わる。幸い、妻が辞する際に障子をきちっと閉めてくれていたため、情けない姿をさらすことはなかった。

「おう、与太か。構いやしねぇから、へぇってきな」
   兵馬は縁側に上がってくるよう、与太に促した。

   即座に「へぇ」と応じる声がして、しばらくするとすーっと障子が開いた。
「松波様、夜分だっうのに藪から棒に恐れ入りやす」
   障子の向こうから、膝を合わせて正座した与太がおずおずと顔を出した。

「おい、もしかして『髪切り』の、なにか手掛かりを掴んだっうことかい」
   兵馬は身を乗り出すようにして、与太に尋ねた。知らず識らず、その目には鋭い光が宿っていた。

「い、いや、今日参ったのは、そないなことじゃねえんでさ」
   与太はあわてて両手を左右に振った。残念ながら「髪切り」に関しては、相変わらずの梨のつぶてだった。
「実は、『北町』の同心の旦那から、妙なことを持ちかけられやして……」

「北町の同心がおめぇにかよ」
   兵馬がいぶかしげな面持ちになる。
「そんで『妙なこと』って、何だってんだ」

「それが……」
   与太は云いよどみながらも、意を決して告げた。
「『北町の方の御用聞き手先もやってみぬか』と誘われちまいまして……」

「なんだと」
   兵馬の声がおのずと荒くなる。
「北町の同心は、おめえがすでに南町の御用聞き手先だと知って云ってやがんのか」

「へぇ、おいらが町火消し伝馬町・は組に属す、鳶の与太っうことも、知っておいででござんした」
   岡っ引きにしても下っ引きにしても、北町奉行所かあるいは南町奉行所かどちらかの同心の下で「御用聞き手先」となるのが暗黙の「おきて」だった。
一体いってぇ何処どこのどいつだってんだ。その掟破りの北町の同心ってのはよっ」

「へぇ、島村様という名でやす」
   その名を聞いて、兵馬の勢いが潮が引くように削がれていった。

「……通り名は、何と申す」
   奉行所での御役目といえども町家の者を相手にする町方役人は、心を開かせるために敢えて砕けた物云いをしている。
   ところが、兵馬は武家言葉になっていた。

「へぇ、それが、通り名まではお名乗りにならねぇでやしたんで……」
   町家のもんに武家がわざわざ名乗る義理はないゆえ無理もない。名字を名乗っただけでも上等だ。
「そいで、島村の旦那は深編笠を下ろして顔を半分覆ってなすってたんで、口元だけしか見えやしやせんでやんしたが……ありゃあ、確かにわけぇ者の声でござんした」
   与太はきっばりと云った。

「さすれば……父親の方ではあるまいな」
   兵馬は噛み締めるように低い声でつぶやいた。
其奴そやつの名は『島村 広次郎ひろじろう』で間違いないであろう」

   の名は——
   もし三年経って、我が妻・美鶴が松波家から離縁された暁には……我が身兵馬に代わって娶りたい、とこいねがう男のものであった。

   そして——
   初夜のねやの間で、その日兵馬の妻になったばかりの美鶴が呼んだ、男の名でもあった。

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