大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜

佐倉 蘭

文字の大きさ
上 下
17 / 75
弐の巻「矜持」

其の壱 〜弐〜

しおりを挟む

   武家では夫と妻とは寝間が別である。
   ゆえに、その夜夫から同衾するよう申しつけられた妻が夫の寝間へ赴き、事が済めば夜が明ける前に我が身の寝間に戻る、と云うのが常であった。
   つまり、夫の方が妻に告げぬ限り同衾することはないのだ。

   にもかかわらず……兵馬はおのずから美鶴の寝間に行こうとしていた。

   祝言を挙げて一年ほど経った今でも、いまだ子はない。
   それもそのはず——これまで二人がねやを共にしたのはたったの一度、しかも初夜だけであった。

   その夜妻となった美鶴を、兵馬はまるで手篭てごめにするかのごとく手荒く抱いてしまった。
   まだ夜も明けぬうちに兵馬に呼び出され、寝屋に入った年嵩の女中頭は声を失った。
   真っ白な羽二重の夜具には、花嫁の破瓜はかあかしである鮮血がべっとりと付いていた。

   兵馬にしてみれば、閨の間で美鶴が他の男の名を呼んだゆえであったのだが——

   さすれども、それには決して表沙汰にはできぬ仔細しさいがあった。それゆえの行き違いだったのだが、そのわだかまりを解いた際に、兵馬は美鶴に約束した。

『そなたに、三年の猶予を与える』

   そして、三年経てばこのまま妻女のままでいても良いし、他の者のもとに嫁ぎたければ去り状(離縁状)をしたためる、とまで告げてしまった。兵馬としては、生娘だった美鶴に無体を働いてしまったせめてものつぐないのつもりであった。

   とは云え……今となっては、なぜあのとき、そのようなことまで云ってしまったのか。
   されども、それこそ今となっては——あとの祭りである。

   武家にとっての婚姻は嗣子あとつぎとなる「子をす」ためにある。
   瞬く間に一年が過ぎた今、父母は美鶴に気を遣ってか、表立ってはなにも云わぬ。
   されど、奉行所内の口さがない者たちからは「子はまだか」と尋ねられた。さらに、松波の家に縁付く一族郎党からも、そろそろ云いだされかねない。

   それに子をもうければ、美鶴とて産んだ子どもかわいさに、もしかして三年経てども兵馬の妻女として松波家に残ってくれるやもしれぬ。
——案外、子さえ生まれればこれ幸いと懸念していたことがすっきりと片付くのではあるまいか……

   されども、武家の「仕来しきたり」どおりにいけしゃあしゃあ・・・・・・・・と美鶴を我が寝間に呼び出すことなぞ、あのような真似を為出しでかした兵馬の身ではできぬ。
——さすれば、今宵こそは……そなたの寝屋に参ろうぞ。

   だが、しかし——

「……いや、何もあらぬ。もう下がってよい」
   兵馬は妻から目を逸らした。そして再び盃を持つと、くいっとあおった。

「さようでござりまするか」
   美鶴は腑に落ちぬ面持おももちとなるが、夫が『もう下がってよい』と云うのなら従わざるを得ない。
「……それでは旦那さま、おやすみなされませ」
   美鶴は一礼したのち、今度こそ夫の部屋から辞去した。


   妻の姿が見えなくなったあと、兵馬は傍らに置いた脇息に倒れ込むようにうずくまり、全身から「はあぁーっ」とため息を吐いた。
「美鶴の部屋が、おれの部屋から遠過ぎんのがいけねえ。父上と母上の部屋はどういうわけか、隣り合わせっうってんのによ」
   兵馬は手前の意気地のなさを棚に上げ、明後日あさっての方を向いてごちった。
   すると、そのとき——

「松波様……与太でやんす。ちょいとばっか、よろしゅうござんすか」
   縁側の向こうにある庭先から、抑えた声が聞こえてきた。

しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

紅花の煙

戸沢一平
歴史・時代
 江戸期、紅花の商いで大儲けした、実在の紅花商人の豪快な逸話を元にした物語である。  出羽尾花沢で「島田屋」の看板を掲げて紅花商をしている鈴木七右衛門は、地元で紅花を仕入れて江戸や京で売り利益を得ていた。七右衛門には心を寄せる女がいた。吉原の遊女で、高尾太夫を襲名したたかである。  花を仕入れて江戸に来た七右衛門は、競を行ったが問屋は一人も来なかった。  七右衛門が吉原で遊ぶことを快く思わない問屋達が嫌がらせをして、示し合わせて行かなかったのだ。  事情を知った七右衛門は怒り、持って来た紅花を品川の海岸で燃やすと宣言する。  

夜に咲く花

増黒 豊
歴史・時代
2017年に書いたものの改稿版を掲載します。 幕末を駆け抜けた新撰組。 その十一番目の隊長、綾瀬久二郎の凄絶な人生を描く。 よく知られる新撰組の物語の中に、架空の設定を織り込み、彼らの生きた跡をより強く浮かび上がらせたい。

殿軍<しんがり>~小説越南元寇録~

平井敦史
歴史・時代
1257年冬。モンゴル帝国の大軍が、当時のベトナム――陳朝大越に侵攻した。 大越皇帝太宗は、自ら軍を率いてこれを迎え撃つも、精強なモンゴル軍の前に、大越軍は崩壊寸前。 太宗はついに全軍撤退を決意。大越の命運は、殿軍を任された御史中将・黎秦(レ・タン)の双肩に委ねられた――。 拙作『ベルトラム王国物語』の男主人公・タリアン=レロイのモデルとなったベトナムの武将・黎輔陳(レ・フー・チャン)こと黎秦の活躍をお楽しみください。 ※本作は「カクヨム」の短編賞創作フェスお題「危機一髪」向けに書き下ろしたものの転載です。「小説家になろう」にも掲載しています。

伊藤とサトウ

海野 次朗
歴史・時代
 幕末に来日したイギリス人外交官アーネスト・サトウと、後に初代総理大臣となる伊藤博文こと伊藤俊輔の活動を描いた物語です。終盤には坂本龍馬も登場します。概ね史実をもとに描いておりますが、小説ですからもちろんフィクションも含まれます。モットーは「目指せ、司馬遼太郎」です(笑)。   基本参考文献は萩原延壽先生の『遠い崖』(朝日新聞社)です。  もちろんサトウが書いた『A Diplomat in Japan』を坂田精一氏が日本語訳した『一外交官の見た明治維新』(岩波書店)も参考にしてますが、こちらは戦前に翻訳された『維新日本外交秘録』も同時に参考にしてます。さらに『図説アーネスト・サトウ』(有隣堂、横浜開港資料館編)も参考にしています。  他にもいくつかの史料をもとにしておりますが、明記するのは難しいので必要に応じて明記するようにします。そのまま引用する場合はもちろん本文の中に出典を書いておきます。最終回の巻末にまとめて百冊ほど参考資料を載せておきました。 (※この作品は「NOVEL DAYS」「小説家になろう」「カクヨム」にも転載してます)

処理中です...