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弐の巻「矜持」
其の壱 〜壱〜
しおりを挟むゆうに三百坪はあろうかと云う松波家には、腕利きの職人たちによって丹精込められた四季折々の花々はもちろん、当家の名をほしいままに模られた立派な「松」の「波」が広がる中庭があった。
宵闇の今、まるで絵巻物に描かれているかのごとき弓張月の光に照らされ、それらが眼前に微かに浮かび上がる。
その有様を、松波 兵馬は座敷の内から縁側越しに眺めていた。
されども、なに一つ音のしない静寂の中にあっても、兵馬の心の裡は一向に鎮まることなく騒めいていた。
——まったく「手掛かり」がありゃしねえ。
今月は南町奉行所が当番月であるのだが、先月当番だった北町奉行所同様、杳として「髪切り」の行方はわからなかった。
早うお縄にしてしょっ引かないと、噂好きな町家連中が証もないままに「やっぱり妖だ」「いや、物の怪だ」と騒ぎだしかねない。
否、それよりも「まだとっ捕まえられねえんのかよ。奉行所はなにしてやがんだ」と云いだされる方が拙い。
御公儀からも、南北それぞれの江戸町奉行に対し「咎人の捕縛はまだか」と矢の催促らしい。万が一でも取り逃がせば、御公儀の「威信」に傷が付くからだ。
武家にとって「沽券」に関わることは、命に値するほどの「大事」である。
そのとき、縁側の向こうから一人の女が歩いてきた。女は座敷の入り口できちっと正座し、平伏した。
「……旦那さま、御酒にてござりまする」
今から一年ほど前、祝言を挙げて嫁に迎えた美鶴だった。
「おう、入りな」
兵馬は妻女を座敷の中へ招じた。
「御無礼仕りまする」
美鶴は嫋やかに立ち上がり、酒を携えて座敷に入ってきた。
兵馬と美鶴の縁組は「上つ方」によって、突如として定められたものであった。
武家同士の縁組は「御家と御家との結びつき」である。町家の者のごとく「好いた腫れた」で一緒になれるものではない。
とは云え、兵馬のような南北の奉行所に仕える町方役人の御家は、縁付く相手もまた同じく町方役人であるのが相場だ。事実、父方も母方も代々続く筆頭与力の家柄であった。
にもかかわらず妻女となる美鶴は、松浪家のある南町の組屋敷でも、兵馬の母の生家がある北町の組屋敷の出自でもなかった。そもそも御公儀に仕える旗本でも御家人ですらない——諸藩に仕える「藩士の子女」だったのだ。
さような身の上の美鶴にとっては、大恩ある藩からは放り出され、有無も云わさず「町方役人の妻」になるよう命じられたも同然の縁組であった。
さすれども、美鶴は早々と「生家」である江戸詰めの下屋敷を出た。
そして、両家の間を取り持つことに相成った奉行所から云われるがままに、北町の同心の家に仮住まいしつつ、指南役を仰せつかった刀自より「町方役人の妻」としての心得を伝授され、日々励んだ。特に、沁み込んだ国許の訛りを改めるのには骨が折れた。
だが、それも努力の甲斐あって、松波家に嫁するまでにはすっかり改められた。
この間、おいそれと出向くことが憚かれた兵馬は、とうとう祝言を挙げるまで美鶴の顔を見ずじまいだった。
……と、表向きはなっていた。
兵馬は左手に持った盃をくいっと上げた。
武家の男は極力右手は使わぬ。いつ何時襲われても、すぐに抜刀できるようにとの心得からだ。右手は刀を使うためにある。
「……それでは、旦那さま。わたくしは此れにて失礼仕りまする」
美鶴は兵馬に一献だけ酌をすると、平伏して立ち上がった。振り向きざま、鶯茶色の小袖の上に羽織った 紅鼠色の打掛がはらり、と翻る。
「美鶴」
兵馬は妻の名を呼んだ。
振り返った美鶴が、まだなにか御用でも、と首を傾いだ。丸髷に結った髪に剃り落とした眉、そしてお歯黒をつけたその形は、すっかり「人妻」の其れであった。
——今宵こそは……そなたの寝屋に参ろうぞ。
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