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壱の巻「心意気」
其の弐 〜伍〜
しおりを挟む彦左郎——彦左は、吉原の遊女「昼三」だった母親から生まれた。
ゆえに父親は、娼方だった大名家の血を引く上客であったと聞く。
廓では、女郎から遊女になったあとにも順序があった。
「部屋持ち」は一部屋のみを赦された遊女で、客をもてなすのも床入りするのも同じ部屋だ。
それが「座敷持ち」になると、床入りの部屋とは別に客をもてなすための「座敷」が赦されるようになる。
そこからだんだんと部屋が豪奢になっていき、やがて二番手まで上がると「昼三」だ。「昼の揚代が三分」から由来するそれが、彦左の母親の位であった。
ちなみに、廓の頂点を極めるのは「呼出」だ。呼出は大見世にしか赦されておらぬ遊女の位で、吉原広しといえども全部で数名しかいない。
現に、今の久喜萬字屋に呼出はいない。だからこそ、二番手ながらも最上位である昼三の羽衣と玉菊が、我こそはと呼出を目指して切磋琢磨し競い合っているのだ。
彦左の美しさは、かつて久喜萬字屋で昼三だった母親譲りである。
もし女子で生まれたのであらば、母のような遊女を目指して子どもの頃から歌舞音曲はもちろん和漢書までもみっちりと学ばされるはずであった。
だが、男として生まれた彦左はその類い稀なる美しさが仇となり、男が男を相手とする「衆道」にて春を鬻ぐ陰間茶屋に売られそうになった。
ただ、陰間で男色を売る「陰子」には「声変わり前」と云う不文律がある。戦国武将も「小姓」として愛でたのは元服前の少年だ。
すると、もともと女のごとき面立ちの割にひょろりと背の高かった彦左は、十歳の声を聞くとみるみるうちに声変わりしていった。
すんでの処で、どうにか免れることができた。
今の彦左は遊女顔負けの妖艶な貌とは裏腹に、すっかり低くて渋い声になったゆえ、ひとたび口を開くと大抵の者はびっくりおったまげてしまうようになった。
「哥さん、おすてはもうじき見世に出なきゃならねぇ身の上でござんす。こんな処で男とくっちゃべってんのを他所の者に見られでもすりゃぁ、おすての『値打ち』がすっかり下がっちまいやす。したら、今まで大事に育ててきた久喜萬字屋にとっちゃぁ、たまったもんじゃねぇんでさ」
彦左は冷ややかに与太を見据えた。低くて渋い声での物云いによって、いかにも「用心棒」と云う風情だ。
華やかな廓らしく、おすての髪はまるで桃の花が咲いたかのごとき「桃割れ」に結われてはいるものの、その身にはいくらでも汚れていいようにと着古した木綿の小袖が着せられていた。その上で、朝から晩までさんざん下働きをさせられているのだ。
——ふん、なぁにが『大事に育ててきた』ってんだ。
と、与太は思わずにはいられなかった。
「せめて初見世ぐれぇ、こいつにもそれなりの値がついてもらわねぇと、負い目がどんどん嵩むばっかで商売上がったりでやんす」
見世に出る前に「虫」が付いていると思われては、おすてがすでに「初花」を散らしたのではないかと疑われかねないからだ。さすれば、たとえ正真正銘の「初物」であったとしても、値がどーんと下がってしまう。
かように与太を相手に凄んでいる彦左であるが、別に久喜萬字屋で用心棒を生業としているわけではない。
彦左は、廓で遊女・女郎・芸者などの妓たちに化粧や着物の着付けなどを施す「男衆」を目指して、日々修業に励んでいた。その傍らで「女所帯」の久喜萬字屋の「男手」として雑事もやっている。
ゆえに、「苦界」と呼ばれる吉原に生を受けてどっぷり浸かって育ってきたにもかかわらず、彦左は至極真っ当な道を歩んでいた。
「さ、おすて……見世に戻るぜ」
彦左は裏口の方へ、くい、と顎を刳った。おすては弾かれたようにそちらへ身体を向けた。
「……ちょいと、待っとくれよ」
見世の裏口へ向かって歩き出した二人を、与太は引き留めた。
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