80 / 81
大詰
口上〈漆〉
しおりを挟む「南北の奉行所のじじぃたちの、気の遠くなるほど長っげぇ祝辞も高砂の謡も、気になんねぇほど浮かれてたな。顔に出すわけにはいかねぇけどよ。……おめぇの兄貴がずーっと睨んでやがるしよ」
多聞の腕の中で、志鶴は見上げた。その目は驚きのために見開かれていた。
「なのに、その晩はさ、せっかくのおめぇとの初夜なのによ。怖がるおめぇに嫌われたくなくて、格好つけて部屋に戻したのさ」
多聞はくくっ、と笑った。
「南町の奉行所ではよ、『北町小町』を娶ったってんで、妬っかまれて大変だったんだぜ。『北町小町』と熱い夜を過ごさせてたまるか、ってんで、上役からも先々まで宿直を詰め込まれてよ。『北町』に嫌われんのは百も承知の二百も合点だけどよ。……『南町』の連中からの仕打ちにゃぁ、少々参ったな」
多聞は少し寂しそうな顔をした。
「なのに、肝心要のおめぇはよ、おれの世話どころか顔すらも見せに来やしねぇ。やっぱり『南町』の男に嫁入ったことが気に喰わねぇんだな、と思って苛立って、おめぇに八つ当たりしちまったこともあったな」
「ち…違いまするっ。わたくしは、旦那さまのお世話をしとうござった」
必死の眼差しで訴える志鶴の背を、多聞はぽんぽんっと叩いた。
「わかってっよ。……うちのおっ母さんが、許さなかったっつうことはさ」
多聞の目が陰った。母の富士には、志鶴の顔が梅ノ香に映ったためだ。
だが、結局は、若かったおのれの分別のなさが所以のことである。
志鶴は食べるものも十分に与えられず、すっかり痩せ細ってしまった。
「……おめぇには、苦労かけたな」
腹に子を宿した志鶴は、流石に目方を戻し始めたみたいだが。
「こんなことならよ、毎晩一緒に寝てるくせに、後生大事にとっておくんじゃなかったぜ。まぁ、一度おめぇを知っちまえば、歯止めがかからねぇようになるのは目に見えてたけどよ」
多聞は舌打ちをした。
「細っこいおめぇを毎晩だなんて、ぶっ壊しそうで怖かったから、おめぇが実家に帰ぇるってのを止めなかったけどな。かように早う目方が戻るんなら、もっと早く実家に帰ぇした方がよかったかもな。……されどもなぁ、あの神出鬼没の同心がうろちょろしていやがったしなぁ」
多聞は気難しい面持ちで逡巡していた。志鶴は何の話か皆目わからず、首を傾げた。
「……まぁ、今となっちゃぁ、後の祭りだ。これから先のことを考えようぜ」
気を取り直した多聞が、明るく云った。
「おめぇの腹がどんくらいになりゃぁ、またおめぇを抱けるのか、玄丞先生に聞いてみるか」
志鶴はようやく話が見えたが、その代わり、ぎょっとする羽目となった。
「ま…まさか、この子が腹の中におるというのに、いかがわしいことをする気では……」
「なぁにが『いかがわしいこと』ってんだ。おめぇだって、生娘だったから初めは流石にかわいそうなくれぇ痛がってたが、そのうちいつの間にか痛みも吹っ飛んで、えらく気持ちよさそうにして、おれのされるがままになってたじゃねぇかよ」
「な…なんということをっ」
志鶴の顔が一瞬にして、蛸の桜煮のように真っ赤に染まった。
「おめぇ、まさか、子が生まれるまでおれに我慢させる気じゃねぇだろな。そりゃぁ、一回こっきりだったとは云わねぇがよ。……おれたちゃぁ、まだたったの一日しかしてねぇんだぜ」
もちろん子ができたことはうれしいが、それとこれとは話が別だ。
「あ、もう突き飛ばすなよ。ありゃぁ、男の沽券に関わるってのよ」
志鶴が月の障りなのに恥ずかしくて云えず、思い余ってやってしまったことを、揶揄っているのである。
「旦那さま、あとで持って参りまするゆえ、お帰りの折には、今の季節の袷と、これからの季節の綿入れのお着物をお持ちござれ」
まだ真っ赤なままの志鶴は、話を逸らした。
「おっ、そいつぁ、ありがてぇ。お父っつぁんがうらやましがって、またいじけるんじゃねぇか」
多聞が破顔して喜ぶ。
「おめぇがおれの世話をさせてもらえなくても、おれのために着物を縫ってくれてたって知ったあんときにゃぁ、天に舞い上がるほどうれしかったんだぜ」
多聞が着てくれるかどうかわからなかったが、縫ってよかった。それに、一心に縫い物をしている間は志鶴の気持ちも安らいだ。
「……だが、そいつらは此処に置いとくかな。明日っから御役目が終わったあと、日参すっからよ。裃から着替えてぇしな」
無事、腹の子を産み終えて、松波の家に子どもと一緒に志鶴が帰ってくるその日まで、多聞は姉の夫が行ったことと同じことをしてやろう、と決意した。
志鶴が案ずる心を「夫」にしかできぬ術で、少しでも和らげてやりたかった。
多聞は志鶴の顔を見つめた。もう離れて暮らすのには耐えられなかった。
眠りにつくときも、目覚めたときにも、志鶴の顔がいつもそこにあってほしかった。
多聞は志鶴の顎を指で、くいっ、と上げて、その愛らしいくちびるを、ちゅっ、と吸った。
ひさかたぶりに、互いのくちびるを合わせた。多聞は、ぷるっとした志鶴のくちびるを、もっともっと味わいたくなる。
そしてもう一度、互いのくちびるを重ねる。
多聞はふわりと開いた志鶴のくちびるの中へ、すかさず我が舌を、するりと滑り込ませる。それから、志鶴の口の中で、互いの舌を、ねっとりと絡ませた。
多聞の舌が燃えるように熱い。志鶴の舌が蕩けるように甘い。
くちづけは……さらに深く長く続いた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
55
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる