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大詰
口上〈参〉
しおりを挟む夕餉のあと、自室に戻った志鶴は落ち着かない心持ちのまま、生まれてくる子のための襁褓をひたすら縫っていた。
腹に子が宿って四月が過ぎたにもかかわらず、一向に前に進まぬ様に、業を煮やした志鶴の父親の佐久間 彦左衛門が、今夜松波の家を訪れているのだ。ともすれば、去状(離縁状)を持ち帰ることもあろう。
——今宵が、決着をつける日になるやもしれぬ。
「志鶴……しばし、よいか」
縁側の方から声がした。兄の帯刀だ。
志鶴はかような刻に何の用か、と訝しげに思ったが、縁側に続く明障子を開けた。
縁側の向こうには、夜目に帯刀と島村 尚之介が立っていた。
「部屋には入らせぬゆえ、尚之介と少しばかり話をしてくれぬか」
帯刀は我が妹でありながら、顔色を伺うように申し出た。
確かに、夜も更けた時分に夫婦どころか家族でもない若い男女が会うなどとは、武家でなくとも憚られることである。ましてや、志鶴は別居しているとはいえ、人の妻だ。
もし、松波の家に知られたら、ただでは済まされぬ。帯刀もさようなことは重々承知の上で、無二の友のために一肌脱いでいるのだ。
志鶴は、こくり、と肯いた。
「志鶴殿……かたじけのうごさる」
尚之介が一礼した。
「では、わしは隣の部屋におるゆえ」
そう云って、帯刀は雪駄を脱いで縁側に上がり、回廊を歩いて行った。
「……お茶も差し上げられず、御無礼仕ってござりまする」
志鶴は頭を下げた。
「いや……手前の方こそ、無理を申して悪うござる」
尚之介は恐縮した。
「……あの返事を聞かせてもらえぬか」
しばしの沈黙のあと、尚之介が口を開いた。
「今夜、佐久間様が南町へ向かわれたと、そなたの兄から聞き及んだのだが」
尚之介の切れ長の澄みきった目が、志鶴をまっすぐに射抜いた。
「そなたの答えはもう、出ているのであろう」
心に染み込むように響く低い声で、尚之介が尋ねる。
志鶴は、こくり、と肯いた。
そして……口を開いた。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
多聞は、北町の佐久間の組屋敷に着くと、愛馬からひらりと舞い降りた。
佐久間に仕える中間が二、三人出てきた。下馬した与力の姿の若侍を見て「しばし、お待ちを」と取り次いで、屋敷の中へ伺いに行く。
しばらく経って姿を現したのは、志鶴によく似た年配の女だった。母親の志代である。
眉間にしわを寄せ、険のある顔で現れた志代だったが、突如目の前に現れた端正な面立ちの与力に、思わず心の臓を高ぶらせた。みるみる間に、表情が和らいでいく。心なしか、頬がぽおっと赤くなっている。
「姑上でござりまするな。御挨拶が遅うなり、誠にかたじけのうござる。……志鶴の夫の松波 多聞でござる」
多聞は深く腰を折って、一礼した。
志代は弾かれたように、はっと我に返った。祝言の際には遠目で、はっきりと見えていなかったのに気づいた。
「まぁまぁまぁ……婿殿ではござりませぬか。此処はそなたの家も同様、遠慮は無用にてござりまする」
あないに「南町」を嫌っていたはずだが、志代は嬉々として多聞を屋敷の中へ招じ入れていた。
実は、家人には多聞が志鶴を訪ねてきても、決して家に入れるな会わせてならぬ、と口を酸っぱくして説いていたのだが……
「さぁさぁさぁ、どうぞ、お入りなされ」
心なしか、娘時分に戻ったように声が高い。
多聞は愛馬の手綱を中間の一人に任せ、屋敷の中へ入った。
奉公人ではなく自ずから多聞を促しながら、志代は我が娘に対して無性に腹を立てていた。
なにゆえ頑なに「離縁したい」などと、たわけたことを申すのか。
——生まれてくる子は、どちらに似ても美形であるに違いない、というのに。
巷で評判の「浮世絵与力」である多聞の姿を、目の当たりにした志代は、娘婿を手放したくなくて心中で歯ぎしりした。せめて、男女一人ずつは、多聞の子を志鶴に産ませたかった。
志代はとにかく早う辿り着くために、遠回りになる庭に面した回廊を通らず、部屋から部屋へと通り抜けて行く、無作法ではあるが最短の道順で多聞を案内していた。三百坪の屋敷は広くて長いのだ。
ようやく志鶴の部屋に近づくにつれ、なにやら声が聞こえてくる。
兄の帯刀でもいるのだろうか。だが、いくら兄妹であっても、かような刻に訪ねるのは望ましくない。
「姑上、志鶴の部屋はあちらでござるか」
不意に、多聞が尋ねてきた。人の声がする部屋を指し示していた。
「如何にも、志鶴の部屋にてござりまする」
志代がかように答えると、
「姑上、御足労でござった。……生まれてくる子について、志鶴とじっくり話がしとうござるゆえ、どうか二人きりにしてくださらぬか」
多聞はさように云って、真剣な眼差しで志代を見つめた。
志代は、多聞が子どものことを知って話しに来たのだとわかって、ぱっと顔が明るくなった。
「そ…そうじゃ、それがよい。二人でじっくりと話してみてござれ。二人は子まで生した仲なのじゃ。きっとわだかまっていたことなど、すぐに解けるでござりましょうや」
志代は云った。気が浮き立ち、少し早口になっていた。
「ありがたく存じまする。子のことは本日、舅上から聞き及んだばかりではござるが、もちろん松波の家ではこの上なき慶びにてござる。……我れらは茶もなにもいらぬがゆえ、御気遣いなきよう御願い致しとうござる」
多聞がきっぱりと告げると、すっかり安心した志代は「では、わたくしはここで」と云って、来た道をいそいそと引き返して行った。
そして、多聞は志鶴がいる座敷の襖の前に立った。
中から、志鶴の声が聞こえてきた。
「……尚之介さま、志鶴は幼き頃より、あなたさまをお慕い申し上げてござった」
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