上 下
75 / 81
大詰

口上〈弐〉

しおりを挟む

   富士が酒を持って座敷に行くと、源兵衛と彦左衛門が莨盆たばこぼんを挟んで、煙管きせるで一服やっていた。

「おい、富士」
   源兵衛が妻の名を呼ぶ。
「お千賀はついこの間ぁ、嫁入り先が決まっちまったがよ。……お芙美ふみはまだだっけな」
   富士の姪の千賀には、一つ下に妹がいた。

「お芙美はまだなにも決まっておらぬが……だ、旦那さま、佐久間のお舅様の前でなんという物云いを」
   体面を重んじる富士は、目を白黒させた。

「いやいやいや、奥方、遠慮は無用だ。構わねぇでくんな。こちとらも同じ町方役人だ」
   彦左衛門は屈託なく笑った。やはりこちらも家中かちゅうでは妻の志代がうるさいゆえ、武家言葉を使っているが、御役目のときは町家言葉だ。

「さぁ、佐久間殿……酒が来やしたぜ」
   源兵衛は銚子を傾けた。
「おっ、松波殿、そいつぁ、りぃねぇ」
   彦左衛門が盃を差し出して、いでもらう。

「奥方、うちのせがれも二十四になるんで、なんとか今度こんだぁ『南町』から『北町』に嫁いでくんねぇかと思いやしてね」
   お返しに、彦左衛門が源兵衛の盃に酌をした。

「さ…さようでございまするか」
   突然の話にとまどいながらも、富士は愛想笑いを浮かべた。

「そんなら、うちの内儀かみさんの下の姪っ子はどうだいっったのさ。……佐久間殿、上のはてめぇが綺麗きれぇなのを鼻にかけたヤツだが、妹はあねさんの影に隠れて目立たねぇけど、可愛くって気立てのいいおなごなのよ」

   彦左衛門の顔がぱっと輝く。
「そいつぁ、願ったり叶ったりだ。にも、うちの帯刀に御目通り願いてぇ。手前味噌だが、つらは志鶴に似て悪くねぇと思うんだがなぁ」

「よし来たっ。あとは、おいらに任せな」
   源兵衛はおのれの胸をぽんっと叩いた。

   富士はこないにまで二人の気が合う姿を見て、言葉もなく呆気に取られていた。


゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚


   多聞は屋敷から出て、うまやへ向かっていた。

   中に入ると、多聞が見習い与力の頃より仕える中間ちゅうげんが愛馬の毛並みに沿っていていた。おかげで燈明のほのかな明かりの下でも、黒鹿毛くろかげの馬体は濡れたような艶を放っている。

   中間の男は多聞の姿が見えると、なにも云わぬのに、くらを持ってきて馬の背に、ばさりと被せた。そして、面繋おもがいを掛けたあと、馬の口にくつわを噛ませて手綱をとった。

りぃな、弥吉やきち。恩に着るぜ」
   多聞がそう告げると、弥吉と呼ばれた男はにやりと笑った。


   浅葱鼠あさぎねずの着流しの、上には鮫小紋さめこもん肩衣かたぎぬを羽織り、下にはくるぶしまでの丈の縞の平袴ひらばかま。腰にはもちろん、大小の刀の二本差し。そして、目の覚めるような白足袋たび雪駄せった履き。

  与力が御役目の際に勤め着としている継裃つぎかみしもの立ち姿だ。

——「れぞ、天晴あっぱれ大江戸の与力」。

   ちまたのおなごたちに飛ぶように売れている、まさしく「浮世絵与力」のなりそのものだ。

   多聞はあぶみに片足をかけ、ひらり、と愛馬に跨った。弥吉がとっていた手綱から手を離して、すーっと後ろへ下がる。

影丸かげまる……いざ、参るぞ」
   愛馬に一声かけて、多聞はぐっと手前に手綱を引いた。

   影丸は雄叫びのようにいななくと、鶴首をしならせて左右の前脚を漆黒の夜空に向けて上げ、主人あるじに応える。その両脚が地面に下りたと同時に、多聞は鐙で影丸の横腹を蹴った。

   影丸はしなやかな尾を大きく一振りして、夜道を一気に駆け出した。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

雪の果て

紫乃森統子
歴史・時代
 月尾藩郡奉行・竹内丈左衛門の娘「りく」は、十八を数えた正月、代官を勤める白井麟十郎との縁談を父から強く勧められていた。  家格の不相応と、その務めのために城下を離れねばならぬこと、麟十郎が武芸を不得手とすることから縁談に難色を示していた。  ある時、りくは父に付き添って郡代・植村主計の邸を訪れ、そこで領内に間引きや姥捨てが横行していることを知るが──

エロ・ファンタジー

フルーツパフェ
大衆娯楽
 物事は上手くいかない。  それは異世界でも同じこと。  夢と好奇心に溢れる異世界の少女達は、恥辱に塗れた現実を味わうことになる。

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

和ませ屋仇討ち始末

志波 連
歴史・時代
山名藩家老家次男の三沢新之助が学問所から戻ると、屋敷が異様な雰囲気に包まれていた。 門の近くにいた新之助をいち早く見つけ出した安藤久秀に手を引かれ、納戸の裏を通り台所から屋内へ入っる。 久秀に手を引かれ庭の見える納戸に入った新之助の目に飛び込んだのは、今まさに切腹しようとしている父長政の姿だった。 父が正座している筵の横には変わり果てた長兄の姿がある。 「目に焼き付けてください」 久秀の声に頷いた新之助だったが、介錯の刀が振り下ろされると同時に気を失ってしまった。 新之助が意識を取り戻したのは、城下から二番目の宿場町にある旅籠だった。 「江戸に向かいます」 同行するのは三沢家剣術指南役だった安藤久秀と、新之助付き侍女咲良のみ。 父と兄の死の真相を探り、その無念を晴らす旅が始まった。 他サイトでも掲載しています 表紙は写真ACより引用しています R15は保険です

紀伊国屋文左衛門の白い玉

家紋武範
歴史・時代
 紀州に文吉という少年がいた。彼は拾われっ子で、農家の下男だった。死ぬまで農家のどれいとなる運命の子だ。  そんな文吉は近所にすむ、同じく下女の“みつ”に恋をした。二人は将来を誓い合い、金を得て農地を買って共に暮らすことを約束した。それを糧に生きたのだ。  しかし“みつ”は人買いに買われていった。将来は遊女になるのであろう。文吉はそれを悔しがって見つめることしか出来ない。  金さえあれば──。それが文吉を突き動かす。  下男を辞め、醤油問屋に奉公に出て使いに出される。その帰り、稲荷神社のお社で休憩していると不思議な白い玉に“出会った”。  超貧乏奴隷が日本一の大金持ちになる成り上がりストーリー!!

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

処理中です...