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大詰
口上〈弐〉
しおりを挟む富士が酒を持って座敷に行くと、源兵衛と彦左衛門が莨盆を挟んで、煙管で一服やっていた。
「おい、富士」
源兵衛が妻の名を呼ぶ。
「お千賀はついこの間ぁ、嫁入り先が決まっちまったがよ。……お芙美はまだだっけな」
富士の姪の千賀には、一つ下に妹がいた。
「お芙美はまだなにも決まっておらぬが……だ、旦那さま、佐久間のお舅様の前でなんという物云いを」
体面を重んじる富士は、目を白黒させた。
「いやいやいや、奥方、遠慮は無用だ。構わねぇでくんな。こちとらも同じ町方役人だ」
彦左衛門は屈託なく笑った。やはりこちらも家中では妻の志代が煩いゆえ、武家言葉を使っているが、御役目のときは町家言葉だ。
「さぁ、佐久間殿……酒が来やしたぜ」
源兵衛は銚子を傾けた。
「おっ、松波殿、そいつぁ、悪りぃねぇ」
彦左衛門が盃を差し出して、注いでもらう。
「奥方、うちの倅も二十四になるんで、なんとか今度ぁ『南町』から『北町』に嫁いでくんねぇかと思いやしてね」
お返しに、彦左衛門が源兵衛の盃に酌をした。
「さ…さようでございまするか」
突然の話にとまどいながらも、富士は愛想笑いを浮かべた。
「そんなら、うちの内儀さんの下の姪っ子はどうだいっ言ったのさ。……佐久間殿、上のはてめぇが綺麗ぇなのを鼻にかけたヤツだが、妹は姉さんの影に隠れて目立たねぇけど、可愛くって気立てのいいおなごなのよ」
彦左衛門の顔がぱっと輝く。
「そいつぁ、願ったり叶ったりだ。是っ非にも、うちの帯刀に御目通り願いてぇ。手前味噌だが、面は志鶴に似て悪くねぇと思うんだがなぁ」
「よし来たっ。あとは、おいらに任せな」
源兵衛はおのれの胸をぽんっと叩いた。
富士はこないにまで二人の気が合う姿を見て、言葉もなく呆気に取られていた。
゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚
多聞は屋敷から出て、厩へ向かっていた。
中に入ると、多聞が見習い与力の頃より仕える中間が愛馬の毛並みに沿って梳いていた。おかげで燈明のほのかな明かりの下でも、黒鹿毛の馬体は濡れたような艶を放っている。
中間の男は多聞の姿が見えると、なにも云わぬのに、鞍を持ってきて馬の背に、ばさりと被せた。そして、面繋を掛けたあと、馬の口に轡を噛ませて手綱をとった。
「悪りぃな、弥吉。恩に着るぜ」
多聞がそう告げると、弥吉と呼ばれた男はにやりと笑った。
浅葱鼠の着流しの、上には鮫小紋の肩衣を羽織り、下には踝までの丈の縞の平袴。腰にはもちろん、大小の刀の二本差し。そして、目の覚めるような白足袋に雪駄履き。
与力が御役目の際に勤め着としている継裃の立ち姿だ。
——「此れぞ、天晴れ大江戸の与力」。
巷のおなごたちに飛ぶように売れている、まさしく「浮世絵与力」の形そのものだ。
多聞は鐙に片足をかけ、ひらり、と愛馬に跨った。弥吉がとっていた手綱から手を離して、すーっと後ろへ下がる。
「影丸……いざ、参るぞ」
愛馬に一声かけて、多聞はぐっと手前に手綱を引いた。
影丸は雄叫びのように嘶くと、鶴首をしならせて左右の前脚を漆黒の夜空に向けて上げ、主人に応える。その両脚が地面に下りたと同時に、多聞は鐙で影丸の横腹を蹴った。
影丸はしなやかな尾を大きく一振りして、夜道を一気に駆け出した。
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