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十二段目

別離の場〈伍〉

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「淡路屋の後妻のちぞえたぶらかして口を割らせたのは、おめぇだろ」
   多聞は喉の奥で、くっ、と笑った。

   北町奉行所が、廻船問屋「淡路屋」の主人の、押し込み強盗の引き込みをしていた歳の離れた後妻を自白として尻尾を掴み、仲間の者たちを一網打尽にした捕物のことを云っていた。

「……南町うちにも、おめぇのような『隠密』がいりゃぁな」
   多聞は口の端を歪めた。

——志鶴と尚之介の「密通」のことではなかったようだ。


「すんません、お待っとさんで……」
   おせいが戻ってきた。再び、茶の支度を始める。

「……若旦那、女房のおりつ・・・のことでやすが」
   「北町」に捕縛された、淡路屋の後妻のちぞえの名だった。尚之介はおせい・・・がいる手前、すっかり町家言葉になっていた。

「いい歳した亭主が、おりつよりもさらに若いおなごに入れ揚げちまったそうでやす。おたなを追ん出されて、そいつが後釜に座っちまったらどうしようって焦ってたおりつ・・・に、りぃ連中が近づいて来やぁがったんでさ。そんでそいつらの甘い言葉についっかかっちまって、押し込みの手引きをする羽目になっちまった、って話でやす」

「……亭主への腹いせ、ってわけかい」
   目を閉じたままの多聞が唸る。

「亭主が入れ揚げたおなごは、吉原の女郎でやす。押し込みにられた店は金子きんすがすっかりなくなっちまって、おりつは巧くいった、これで亭主が女郎を身請みうけするこたぁねぇだろよと、高を括ってたんでやすがね。ところが、その女郎が明くる年、十年の年季が明けるってんでさ」

「へぇ……なんて名の女郎なのよ」
   何気ない調子で、多聞は訊いた。「北町」しか知り得ないことを知りたかった、というのもあった。

「……久喜萬字屋の、梅ノ香って名でやす」

   その刹那、閉じている多聞の目蓋まぶたが、ぴくり、と動いた。


「……髪結いさん、お待っとさんで」
   おせいが尚之介に茶を差し出す。

「そしたら、淡路屋さんの旦那さんは、その『梅ノ香』って女郎と、気兼ねなく夫婦めおとになれるってわけだ」
   訳知り顔でおせい・・・が口を挟んできた。

先達せんだって、押し込みの手引きをして奉行所にとっ捕まった淡路屋の女房の話だろ」
   尚之介はおせい・・・から茶を受け取りながら、
「そうさ。……おめぇさん、なかなか物知りじゃねぇか」
   そう云って、にやり、と笑った。

「……いやぁ……髪結い床ほどの噂話は入っちゃこねぇべ」
   男前が好きなおせい・・・は、頬を真っ赤に染め上げた。

   尚之介は、おせいからもらった茶をくっと一飲みすると「ありがとよ」と湯呑みを返し、
「……では、若旦那、あっしはこれで。明日はいつものヤツが来やすんで」
   そう云って、松波の家を後にした。


   多聞はようやく目を開けた。
   しばらくぼんやりと虚空を見つめていたが、やがて、なにか意を決したかのごとく……

——身を起こした。


゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚


   その夜、松波 多聞は「深川」に来ていた。久喜萬字屋の仮宅である。

——梅ノ香に会うためだった。

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