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十二段目
別離の場〈弐〉
しおりを挟む志鶴は目を開けた。
「……あっ、しぃちゃん……目をお覚ましになったっ」
初音がほっとしたように、志鶴の顔を覗き込む。
幼き頃より見知った顔が、目の前にある。なんだか、長い夢を見ていたみたいだ。
——きっと、そうであろう。夢、だったのだ。「北町」に出戻るなんて。
医師の竹内 玄丞が手早く志鶴の手首をとって脈を診て、それから目や口の中を確かめる。
「……我らの出番ではないのかもしれぬな」
眉根を寄せて、唸った。
「玄丞先生……もしや、志鶴が……先生ほどのお方でも手に余るような病ではありますまいな」
震える声が聞こえてきた。母の志代の声であった。
その声で、志鶴は「北町」に出戻ったことが、夢ではなかったと思い知らされる。
志鶴は悟られぬように、落胆の息を吐いた。
「病ではない」
玄丞は呆れた顔で志代をじろりと見て、きっぱり告げた。
「……月の障りは、如何ほど遅れてござるか」
玄丞は志鶴に向き直って訊いた。
志鶴は目を見開いた。確かに、月の障りは遅れていた。
——まさか、あの日の……
「み…三月近く……」
志鶴が消え入りそうな小声で答えた。
多聞と初めて身体をつなげた半月ほど前にあった以来、訪れていなかった。
「うわぁ……しぃちゃん、おめでたく存じまする」
先刻まで心配げに眠る志鶴の顔を覗き込んでいた初音が満面の笑みになった。
「『浮世絵与力』と『北町小町』のお子でござりまするもの。さぞかし見目麗しゅうござりましょう」
そして、ぐっと声を殺して、
「なぁんだぁ……しぃちゃんが松波さまと離縁するために実家に戻ったっていう噂は本当じゃなかったのね」
初音は町家言葉で呟いた。
「初音、過ぎるぞ」
すかさず、父親の玄丞が娘を制した。
「とにかく、これからの出番は医者でなく……産婆だ」
玄丞は志鶴を見据えて告げた。
志鶴は寝かされていた布団から身を起こして、一礼した。
「玄丞先生、たいへん申し訳ありませぬが、此度のことは何卒、松波の家には御内密にしてもらえませぬか」
志代が信じられぬ面持ちで、
「志鶴、なにを云うておる。男であらば松波様の嫡男になるというのに、なんてことを申すのじゃ。かような大事なことを黙っておるなど、佐久間の家の信用に関わるではないか」
と、金切り声で叫んだ。
あないに忌み嫌う「南町」の御家であっても、体面は気にするのだ。
「……母上、大層申し訳ありませぬが、今はお控えいただきとうござりまする」
志鶴は志代の方を振り向きもせず、静かに一喝した。こんな志鶴を見るのは初めてだった。
志代はさような落ち着いた迫力に唖然として、口をぱくぱくさせたが、言葉はなにも発せられなかった。話を聞いていた初音も同じような顔をして、志鶴を見つめていた。
志鶴は、さらに深く頭を垂れた。
「面を上げよ、志鶴殿。尼削ぎの頭だった頃から知るそなたを、悪いようにはせぬ」
そう云って、玄丞はふっと笑った。
以前、志鶴が松波の家で倒れたときのことを思い出したのだ。あのとき、多聞からもまた相手の家には「御内密」にするように頼まれた。
玄丞には如何なる理由があるのかは知らぬが、多聞を慮ってのことであるには違いない。
——すっかり、夫婦らしゅうなりおったな。
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