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十一段目
逢瀬の場〈壱〉
しおりを挟む明くる日、多聞と志鶴は外に出かけた。多聞の藍鼠色の単衣の着流しは、志鶴の手によるものだ。
これから、秋になる前に袷、冬になる前に綿入れの着物を仕立てるはずだった。
結局、初めて夫となった人には、浴衣と単衣だけしか縫うことができなかった。
志鶴も今日は打掛は羽織らず、小町鼠の小袖だけの気軽な出で立ちだ。小町鼠はほんのりと紅がかった白に近い鼠色で、夏のこの時期に着ると涼やかに見える。
透き通るほど真っ白な肌の志鶴に、よく映えた。
「北町小町」と呼ばれる我が身が「小町」と名のつく色をわざわざ纏うのは、あざといようで恥ずかしかったが……
——最後の日、なのだから。
八丁堀の組屋敷から、上野のお山の麓にある下谷広小路までは、それぞれ駕籠に乗った。だが、駕籠を降りてからは二人で歩いた。
たとえ祝言を挙げた夫婦であっても、武家の男女が人前で肩を並べて歩くことは、はしたなきこととして憚られた。ゆえに志鶴は、多聞の二、三歩後ろを歩く。
なのに、多聞は志鶴を引き寄せ、すぐ隣で歩かせようとする。
「……おめぇにそんな後ろを歩かれちゃぁ、この人混みの中で、はぐれっちまうぜ」
上野は、三代の公方様(徳川家光)によって開基された寛永寺に四代の公方様(徳川家綱)の御霊廟が造られて以来、芝の愛宕山にある増上寺とともに公方様の菩提寺となって栄えた町だ。
御公儀(江戸幕府)は、江戸の町の鬼門にあたる艮に寛永寺、裏鬼門にあたる坤に増上寺をそれぞれ置いて、悪霊からの護りを固めた。
寛永寺の門前を下谷広小路といい、浅草寺の門前の浅草広小路、大川(隅田川)に掛かる両国橋の西のたもとの両国広小路と並んで、行き交う人々でいつも大賑わいだ。
もともとは「火除け地」と云って、火事の際に延焼するのをくい止めるために、御公儀がわざと空き地にしているのが「広小路」である。
そこへ、いつの間にか出店や屋台があらわれ、今では大道芸人や軽業師なども集まるようになっていた。
武家の娘として厳しく躾けられて育った志鶴は、わざわざ出向かずとも商人が家まで入り用のものを持ってきてくれたし、町家へ時折買い物に行くにしても日本橋の表通りにある大店しか知らぬ。かような多種多様で猥雑な通りには、来たことがなかった。
目に映るものすべてがめずらしい。つい、人の流れも顧みず立ち止まって、じいっと見入ってしまう。
芥子坊主の頭の子どもが「飴玉をおくれ」と何文か渡すと、からくり人形がかくかくした動きでその銭を受け取った。そのまま、かくかくした動きで銭箱に入れたあと、今度はまたかくかくした動きで子どもに飴玉を渡す。
多聞が「なんだ、おめぇ、飴玉がほしいのか」と揶揄い口調で云うので、志鶴は慌てて首を横にぶんぶんと振った。
また、手を使わず、歯で噛んで口だけで支えた板の上に、水の入った木桶を二つも乗せて、ぷるぷる耐えている大道芸人がいた。「歯力自慢」と掲げている。
志鶴が「なんとまぁ、強い歯なのであろう」と感心しきって見ていると、多聞が「起っきゃがれっ、水なんざ入っちゃいねぇよ。空桶さ」と呆れた声で云った。
それから、南蛮渡来の反物で誂えたと見える変わった着物の男が、阿蘭陀伝来という薬を売っていた。夏負けやおなごの血の道に効くと云う。
志鶴は、ちょうどよかった、明日帰る実家の母への土産にしよう、と帯の間に挟んだ紙入れ(財布)を出そうとすれば……多聞にいきなり手を掴まれた。
「阿呆か、おめぇは。あんなのは口上だけの香具師に決まってんじゃねぇか」
多聞は志鶴の手を掴んだまま、人の流れに乗ってずんずん歩き始めた。
「せっかく上野に来たからと思って通ってみたけどよ……おめぇは、危なっかし過ぎんのよ」
——天下の往来で、夫と手をつないで歩くとは……
この人混みではだれも気にする者はおらぬのに、志鶴は恥ずかしさで顔が真っ赤になった。
さようでなくても、夏の江戸は暑い。炎天下では汗が額から吹き出す。喉がからからに乾いて、せめて水茶屋にでも入ってくれたら、と思った。
「……もうちっとの辛抱だからよ」
手を引く多聞が、振り返ってやさしく微笑んだ。手を引かれた志鶴も、ふっくらと微笑み返して肯いた。
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