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十段目

悋気の場〈弐〉

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   その刹那、志鶴は——はっ、とした。

   ようやっと、気づいたのだ。おのれの胸の奥の、ふつふつ、の正体を……

——「ふつふつ」は「沸々」であった。

   志鶴の「沸々」は、怒りだったのだ。
   しかも、湯がぐらぐらとたぎるがごとく熱いものであった。

   幼き頃より「武家の娘」として、心に波風立てずに生きてきた。まさか、おのれが、かような生臭い思いを抱くとは夢にも思わなかった。

   だが、確かに、志鶴は怒っていた。それも、多聞と梅ノ香に。

   そして、それは紛れもなく……
——「悋気りんき」というものであった。

   知らず識らずのうちに、志鶴の夜着を掴む手が緩んでいた。そこを見計らって、いきなり多聞が夜着をひっぺ返した。
   あらわにされた志鶴の顔を見て驚く。

「……どしたんだ、おめぇ……泣いてるじゃねぇか」

   志鶴のなつめのような瞳からは、涙がはらはらと幾筋も流れ落ちていた。多聞がそっと、志鶴の目からあふれ出たその涙を指で拭った。

   志鶴は松波の家に嫁入ってから、家人の前で涙を見せることはなかった。
   だれも頼る者がいない中で、姑の富士からは執拗な嫌がらせをされた。夫の多聞には、すれ違いの果てに誤解され、叱責されてしまったこともある。

   さりとて——決して、涙は流さなかったのに。

「泣くんじゃねぇよ、志鶴。……れぇことがあるんだったら、おれに云え」
   そう云って、今度はくちびるで志鶴の涙を吸い取った。そのまま、志鶴のぷるっとした愛らしいくちびるに吸いつく。

   やっと合わすことのできた志鶴のくちびるへ、多聞は啄ばむように、何度も重ねた。
   すると、志鶴の折れそうなほどか細い腕が、多聞のせなに巻きついてきた。そして、いつになく、しがみついてくる。
   多聞は志鶴を抱きしめ、さらに、ぎゅうぅっと力を込めた。

   かような多聞のやさしさを、他のだれかと分かち合わねばならぬのは、到底、ゆるせなかった。
   いや……今宵、我が身に向けられた「やさしさ」は刹那のもので「仮初かりそめ」だ。本来は梅ノ香に向けられるべきもので、おのれはその「身代わり」でしかない。

   多聞の当番方与力の御役目には宿直とのいがある。だが、家人には宿直と云いつつ、実は深川の仮宅で梅ノ香と逢っているのかもしれぬ。

   いや……逢っているからこそ、ちまたでの噂になるのだ。そして、多聞は志鶴にする同じようなことを……

   いや——それ以上のことを、梅ノ香とはしているのだ。

   だから、どんどん深くなっていく口吸いにもかかわらず、志鶴はきっと今宵も生娘のままだ。志鶴の目方が増えぬから、というのはただの隠れみのだったのだ。

   巷では「浮世絵与力」と呼ばれ派手に見られる多聞だが、根は実直で真面目だ。二人のおなごを天秤にはかけられぬであろう。
   心底惚れたおなごしか、抱けぬに違いない。

   明けの年、年季奉公を終えた梅ノ香は、晴れて多聞のめかけとなるであろう。今の多聞ならば、云い出したことは必ずやり仰せるはずだ。さすれば、潮が引くように多聞の心は離れていき、志鶴は「形だけの妻」になる。

——「やさしさ」は、梅ノ香だけのものとなり、わたくしにはもう向けられることはあるまい。

   志鶴には、耐えられなかった。

「沸々」は——頂を超えた。

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