大江戸ロミオ&ジュリエット

佐倉 蘭

文字の大きさ
上 下
57 / 81
十段目

悋気の場〈壱〉

しおりを挟む

   志鶴はいつものように、先に湯屋ゆうや夕餉ゆうげも済ませて、夫の帰りを待っていた。
   夫の多聞が御役目から帰ってくると、志鶴はいつものように浴衣ゆかたへの身支度を手伝った。
   その晩も、志鶴はいつものように多聞と舅の源兵衛の、夕餉や晩酌を甲斐甲斐しく世話をした。そして、その夜も、いつものように多聞が志鶴の夜具に入ってきた。

   なのに……志鶴はせなを向けたままだ。

「志鶴……こっち向けってぇの」
   多聞はぐいっと、志鶴の身体からだを反転させる。志鶴はすばやく夜着で顔を隠した。

「おい、どしたってのよ。おめぇの顔を見てぇんだ。見しとくれよ」
   多聞がやさしく囁きながらも、手では夜着をひっぺ返そうとしている。

——見せたくなかった。

   多聞が、我が顔を見ていたわけではなかったと、わかったからだ。胸の奥が昼間からずっと、ふつふつ、していた。

   そのとき、まるで天啓のように、志鶴は悟った。

   祝言を挙げて間もない頃を思い出す。

   多聞の寝間に訪れたとき、
「すまぬが……おぬしの顔を、しかと見せてくれぬか」
と云って、多聞は志鶴の顔をまじまじと見つめた。

——あれは、梅ノ香の顔に似ていたゆえか。

   そもそも、天敵と云ってもはばからぬ「北町」のおなごを、いくら御奉行様の下知げじとはいえ、多聞が志鶴を娶ると決めたのは……

——初めから、女郎上がりの「愛妾」を持つ心積りで、御家おいえのための「形ばかりの嫁」を望んでいたゆえか。

   また、姑の富士の、嫁の志鶴への仕打ちが露見したとき、
「玄丞先生、恥を承知で申し上げござるが、此度こたびのことは必ずや収めまするゆえ、何卒なにとぞ、妻の実家さと……佐久間殿には御内密にしてもらえぬか」
と云って、多聞は深々と頭を下げていた。

——情の通うはずのない「北町の嫁」は好都合であったのに、実家に帰られてはまずいゆえか……

   だから、実の母親を蟄居ちっきょにしてまでも、志鶴をかばったのだ。

   すべては——梅ノ香のためだったのだ。


「……実家さとはどうだったんでぃ」
   多聞がそう話しかけながら、夜着に包まれた志鶴ごと抱きしめてきた。

「まさか……おっさんの具合が思いのほかりぃのか」
   多聞の声が心配げに曇る。

   実家の方は、母も含めてつつがなきことを尚之介から聞き及んでいた。

——あぁ、胸の奥の、ふつふつ、がまぬ。

心配しんぺぇだったら、しばらく実家にぇってもいいんだぜ」

   顔を隠した夜着の下で、志鶴の眉間にぐっ、としわが寄った。

——わたくしを実家に戻して、梅ノ香と逢うおつもりか。

   心の臓が、ぎりりっ、と音を立てる。

   志鶴の「ふつふつ」が、いただきを極めた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

陸のくじら侍 -元禄の竜-

陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた…… 

【完結】お飾りの妻からの挑戦状

おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。 「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」 しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ…… ◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています ◇全18話で完結予定

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

浅葱色の桜

初音
歴史・時代
新選組の局長、近藤勇がその剣術の腕を磨いた道場・試衛館。 近藤勇は、子宝にめぐまれなかった道場主・周助によって養子に迎えられる…というのが史実ですが、もしその周助に娘がいたら?というIfから始まる物語。 「女のくせに」そんな呪いのような言葉と向き合いながら、剣術の鍛錬に励む主人公・さくらの成長記です。 時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦書読みを推奨しています。縦書きで読みやすいよう、行間を詰めています。 小説家になろう、カクヨム、エブリスタでも載せてます。

徳川家基、不本意!

克全
歴史・時代
幻の11代将軍、徳川家基が生き残っていたらどのような世の中になっていたのか?田沼意次に取立てられて、徳川家基の住む西之丸御納戸役となっていた長谷川平蔵が、田沼意次ではなく徳川家基に取り入って出世しようとしていたらどうなっていたのか?徳川家治が、次々と死んでいく自分の子供の死因に疑念を持っていたらどうなっていたのか、そのような事を考えて創作してみました。

後宮の棘

香月みまり
キャラ文芸
蔑ろにされ婚期をのがした25歳皇女がついに輿入り!相手は敵国の禁軍将軍。冷めた姫vs堅物男のチグハグな夫婦は帝国内の騒乱に巻き込まれていく。 ☆完結しました☆ スピンオフ「孤児が皇后陛下と呼ばれるまで」の進捗と合わせて番外編を不定期に公開していきます。 第13回ファンタジー大賞特別賞受賞! ありがとうございました!!

今宵は遣らずの雨

佐倉 蘭
歴史・時代
★第7回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 小夜里は代々、安芸広島藩で藩主に文書を管理する者として仕える「右筆」の御役目を担った武家に生まれた。 十七のときに、かなりの家柄へいったんは嫁いだが、二十二で子ができぬゆえに離縁されてしまう。 婚家から出戻ったばかりの小夜里は、急逝した父の遺した「手習所」の跡を継いだ。 ある雨の降る夜、小夜里は手習所の軒先で雨宿りをする一人の男と出逢う。 それは……「運命の出逢い」だった。 ※歴史上の人物が登場しますがすべてフィクションです。

処理中です...