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十段目
悋気の場〈壱〉
しおりを挟む志鶴はいつものように、先に湯屋も夕餉も済ませて、夫の帰りを待っていた。
夫の多聞が御役目から帰ってくると、志鶴はいつものように浴衣への身支度を手伝った。
その晩も、志鶴はいつものように多聞と舅の源兵衛の、夕餉や晩酌を甲斐甲斐しく世話をした。そして、その夜も、いつものように多聞が志鶴の夜具に入ってきた。
なのに……志鶴は背を向けたままだ。
「志鶴……こっち向けってぇの」
多聞はぐいっと、志鶴の身体を反転させる。志鶴はすばやく夜着で顔を隠した。
「おい、どしたってのよ。おめぇの顔を見てぇんだ。見しとくれよ」
多聞がやさしく囁きながらも、手では夜着をひっぺ返そうとしている。
——見せたくなかった。
多聞が、我が顔を見ていたわけではなかったと、わかったからだ。胸の奥が昼間からずっと、ふつふつ、していた。
そのとき、まるで天啓のように、志鶴は悟った。
祝言を挙げて間もない頃を思い出す。
多聞の寝間に訪れたとき、
「すまぬが……おぬしの顔を、しかと見せてくれぬか」
と云って、多聞は志鶴の顔をまじまじと見つめた。
——あれは、梅ノ香の顔に似ていたゆえか。
そもそも、天敵と云っても憚らぬ「北町」のおなごを、いくら御奉行様の下知とはいえ、多聞が志鶴を娶ると決めたのは……
——初めから、女郎上がりの「愛妾」を持つ心積りで、御家のための「形ばかりの嫁」を望んでいたゆえか。
また、姑の富士の、嫁の志鶴への仕打ちが露見したとき、
「玄丞先生、恥を承知で申し上げござるが、此度のことは必ずや収めまするゆえ、何卒、妻の実家……佐久間殿には御内密にしてもらえぬか」
と云って、多聞は深々と頭を下げていた。
——情の通うはずのない「北町の嫁」は好都合であったのに、実家に帰られてはまずいゆえか……
だから、実の母親を蟄居にしてまでも、志鶴を庇ったのだ。
すべては——梅ノ香のためだったのだ。
「……実家はどうだったんでぃ」
多聞がそう話しかけながら、夜着に包まれた志鶴ごと抱きしめてきた。
「まさか……おっ母さんの具合が思いの外、悪りぃのか」
多聞の声が心配げに曇る。
実家の方は、母も含めてつつがなきことを尚之介から聞き及んでいた。
——あぁ、胸の奥の、ふつふつ、が止まぬ。
「心配だったら、しばらく実家に帰ぇってもいいんだぜ」
顔を隠した夜着の下で、志鶴の眉間にぐっ、としわが寄った。
——わたくしを実家に戻して、梅ノ香と逢うおつもりか。
心の臓が、ぎりりっ、と音を立てる。
志鶴の「ふつふつ」が、頂を極めた。
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